親友
またもや失敗した、と気付いたのはバスを降りて校門へと向かう坂道で、栗原の背中を見つけたときであった。パーマとワックスで加工された髪の毛は、よく目立つのである。目立つから有名人なのだ。
昨晩の内に彼への対応について脳内会議を設けなければならなかったのに、兄貴とプリンとカレーですべて忘れてしまったのは手痛い失敗であった。やはりカレーは罪深い。
毎朝のことであるから、同じ時間のバスに乗る人間は大抵見たことがある。今私に背中を見せているということは、きっといつも一本前のバスなのであろう。ふむ、本人の知らないところで情報を握るのは少々愉快である。栗原にそんな趣味があるわけではないだろうが。
今から追いかけることはありえないが、どうせ教室で顔を合わせることになるのだ。当初の予定ほどの時間は取れないが今からでも会議を行うべきだろうと、脳内各所から重役たちを引きずり出した。全員重役出勤である。栗原という案件は面倒さランキング不動の一位に輝いているからだ。
『では全員揃ったところで、本日の会議を始めたいと思います。まずは社長から本日の招集についてご説明を……』
『えー、さてね、急な召集でしたが、みなさん集まってくださって本当にありがとうございます。最近我が社の業績も順調に伸びておりまして、それというのも皆さんの日々のがんばりによって……』
「森山?」
しかし社長の挨拶の最中に上から声が降ってきた。誰だねキミは、社長の言葉を途切れさせるなど失礼極まりない。処分も検討せねば。
「おはよう、森山」
「あ」
顔を上げると目の前に、ブレザーでも後頭部でもないものがあって面食らった。
なんのことはない、話題の栗原その人である。話者は私と私と、それから私だ。
さて、なぜ前を歩いていたはずの栗原が、私に気付いて目の前に立っているのだろうか。
「角を曲がるときに横目に森山がいるのが見えたから、待ってることにしたんだ」
角という角が滅びてしまえ。などという呪いが通じるはずもない。角のない世界とは、つまり線しかない一次元の世界であって、それはさすがにあまりにも味気ない。
「おはよう、栗原くん」
目の前の現実をようやく直視することにしたので、溜まっていた効果を順に処理していく。挨拶には挨拶を。質問には答えを。
「やだなー森山、くん付けなんて、距離感じちゃうよ。親友なんだから、もっと親友っぽい呼び方してほしい!」
「そう言われましても」
「だって親友なのに!じゃあ、そのかわり俺も森山にニックネーム付けてあげるから」
なった覚えがない、と言いそうになって慌てて言葉を呑み込んだ。冷静に考えてみれば、親友になるのに必要な条件も儀式も存在しない。これまでの人生、数人の親友には恵まれたが、彼らと親友になるときも契機があったわけでもない。
かといってこれは性急すぎる気もするのだが。
「じゃあ……栗原」
「うーむ、思ってたのと違う!だけど許す!だから俺もまひろんのことまひろんって呼ぶね」
昨日一晩このあだ名を考えたのだという。他にやることはなかったのかという言葉が喉まで出かかったが、やはりすんでのところで阻止した。昨晩何も考えずにプリンを堪能していた私が言えたことではない。むしろ彼の方が建設的とさえいえる。
「そうだ、まひろん。昨日の化学の宿題やってきた?」
「うん、まあ。昨日の英語のときに終わらせたよ」
「流石まひろん!」
人の波に揉まれながら、私の本懐を果たすことなど当然できず、流されるようにして教室へと向かう。辿り着くころには彼は友人に話しかけられて、そちらと一緒に行ってしまった。うっかり二人そろって教室に現れ、浴びたくもない視線を浴びることは避けられたらしい。
うむ。ただし過剰な心配であることは否めない。
「あら、おはよう真尋」
初めての席替えから早二週間、そろそろ座り慣れてきた自分の席に荷物を下ろすと、あかりから声を掛けられた。
我が友、水城あかりとは、入学式の日に知り合った。水城と森山、出席番号が前後だったからという至極単純な理由で言葉を交わし、気付いたら親友と呼べる間柄になっていた。
清楚系の大人しそうな見た目でありながら、その実、姉御肌というところに頼りがいがある。一方私は根っからの末っ子気質であるので、放っておけないのだろう。
あら、これでは頼ってばかりですな。でも私はあかりが甘えてきたのなら受け入れる覚悟はある。だから問題ない。
「おはよう、あかり」
「昨日はさっさと帰っちゃったじゃない。何か用事でもあったの?」
「お腹が空いて堪らなかったところへ、兄ちゃんから夕飯がカレーだとメールがあったものだから」
いくら相手が親友でも、いや相手が親友だからこそ胸パッドの話は打ち明けられないのだ。むしろ相手が見ず知らずの人であれば、笑い話にもなるかもしれない。たとえばネットの匿名掲示板に『胸パッド見られて女装と間違われたんだけど何か質問ある?』だとか。
「なら仕方ないわね。期間限定新作ドーナッツ、私一人で行っちゃったわよ」
選択肢一つが結果に重大な影響をもたらすとは、ギャルゲもあながちウソではないらしい。昨日、一駅歩きながらではなく、ドーナッツを食べながらを選択していたら、あかりと鉢合わせになっていたのである。なんと恐ろしいことか。
これからは兄ちゃんの部屋で見つけたギャルゲにもっと敬意を払うことにします。見つけただけじゃなくてプレイしたと知ったら兄ちゃんはどんな顔をするだろうか。
「あう。私も食べたかった」
「また今度ね。私だってお財布の都合というものがありますから」
「それは仕方ない」
「仕方ない仕方ない」
数日後のドーナッツに思いを馳せていると、担任が教室に入ってきた。すでにホームルームを知らせるチャイムは鳴っていたので、私とあかりはそこで会話を打ち切って号令に従った。