笑えない
母親は五歳の時に早逝し、以降私は兄二人と父親に育てられてきた。そのせいか、女らしくない服装と言動を指して「男女」とからかわれた経験は数知れず。
今や全く気にしていない。それどころか周囲の期待に応えるべく、すっかり可愛くない女を実現させてしまった。
だが、この目の前の男はどうだろう。見よ、私を見下ろすこの真摯な目線。これで私をからかっているとしたら相当な演劇派だ。
そしてクラスメイトとして数か月過ごした経験から、栗原がそんなことはできないだろうと分かっている。性格ではなく能力を評価して。
ここで否定出来たらよかったのだ。
しかしこの不真面目な状況に対して、あまりにも真剣な目をしたこの男に、どうしてもまともではいられなくなった。さらに否定しなければ、つまらない見栄を張ったことを帳消しにできるのではないかというわけのわからない打算を、すでにおかしくなってる頭で働いた。
どうしたら栗原の真摯さに応えられるか、言い換えると噴き出さずにこの会話を終了させるか。つまりそれしか頭になかったのだ。
「ごめんね、こんなところで着替えてたのも、更衣室に入れないからだよね」
それなのに覗いちゃってごめんね。
何度も繰り返されるので、噴き出さないように返事をするのが本当に精いっぱいだ。
そして栗原の推測はそこまで間違ってもない。胸パッドを入れているのを他の子に見られたくなくて、閑古鳥の鳴いている部室で着替えたのだ。
ごめんね、栗原。
男みたいな骨と筋ばっかりの体で。
男みたいに胸がなくて。
男ががんばって高い声出したみたいな掠れ声で。
そう考えたらだんだん気分が落ち込んできた。
「真尋ちゃ……ごめん、やっぱりちゃん付けで呼ばれるのなんて嫌だよね。森山でいい?その方が親友っぽいよね」
はて、いつの間に親友になっているんだろうか。
ああ、でもこういうチャラい男は、他人か親友かの両極端しか存在しないのかもしれない。ぼんやりと全く他人事のように考える。
「えーと……ごめん、数学のノート、取りに行ってもいいかな」
そろそろ腹筋が限界なのです。
「あ、そうだよね。ごめんね」
「うん、またあし……」
「昇降口で待ってるよ」
もはや死刑宣告だった。何って当然腹筋の。
栗原と別れてだいぶ歩き、流石に聞こえないだろうという距離でダムが決壊した。
「クッハハハハハ!!!なにあれ!なにあれ!!え?どういうこと?」
問いに答えは出ない。ひとりで歩いているのだから、むしろ当然だ。
たまたま通りかかった上級生が何人か怪訝な目でこちらを見ていったが、もはやそんなことどうでもいい。クラスメイトに胸パッドがバレることを思えば大した恥でもない。
ちなみにこの胸パッド、前述の兄貴が高校の文化祭で女装メイドをするときに使った品だという。服に飽き足らず、胸まで兄貴のお下がりというわけだ。全くもって面白い。
教室についても笑いは止まらなかったので、まだ残っていたクラスメイトに心配された。
その目に栗原を思い出して、もう一度大爆笑。
「真尋ちゃん、大丈夫?」
「いやいや、大丈夫。うん……ぷふっ、だいじょうぶ」
そんな私もさすがに数学ノートの中身を見て真顔になった。あまりの面倒臭さに途中大問を二三飛ばしたのがバレたらしい。赤字で「次の提出時にやっておくこと」と書かれていた。
「うん……大丈夫」
ひとしきり笑い転げたせいか、そのノートをカバンにしまうと全くと言っていいほど笑えない。
冷静に考えたら、全然笑えない状況である。さっきまであんなに面白がっていたことの方が信じられない。
クラスメイトに自分の性別を誤解された上、かなり恥ずかしい秘密を握られ、あろうことか親友としてすり寄られ、一緒に下校しようとまで言われているのだ。
この状況を解決するために必要なことはたった一つ。
全力で誤解を解くことだ。
私は戦に赴く心持で、昇降口に向けて歩を進めた。
私の姿を認めた栗原は、右手を大きく掲げて私の名前を呼ぶ。
「あ、森山―!!」
頼むから大声を出すな、大声を。
道行く他人が何事かと栗原を、次いで私を見る。先ほどは微塵も感じなかった羞恥心が、今になって倍増する。後払い式じゃないか。
今更ながらに思い出すがこの栗原という男、この懐っこさと明るさがウケているのか、学年でも有名人だ。ううむ、そんなことをしたら何事か勘ぐられるではないか。
「ごめんね、お待たせしました」
「大丈夫。さっきまで他の奴らと話してたから。森山はドーナッツ好き?……あーでもこの時間ウチの学校の人多そうだよなあ……」
「ドーナッツは好きだけども、それには同感だね」
「じゃあ、えーと……一駅先まで歩こうか。森山はバス通学だったよね」
栗原の意図するところは、多分正確には一バス停先であろう。
校門付近のバス停のもう一つ先のバス停まで歩くと、大体20分。大抵の話はそれだけあれば結論が出るし、明確にゴールがあればだらけない。そして何より人目がない。
「分かった、歩きながら話そうか」