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12:Dark Room

 その直後、ロイド・サトクリフの世界は猛烈な力によって滅茶苦茶に蹂躙された。

 視界が暗転し、体が冷たい何かに包まれて滅茶苦茶に回転する。耳は何かで音を遮られたように聞こえにくくなり、口と鼻に至っては呼吸そのものができなくなった。


『ガヴァァァアアアッ!! バンバァァァァアアア!!』


 圧倒的な力によって半ば無理やり悲鳴を上げさせられ、その悲鳴すらまともな音とならず、しかも肺から空気が抜けて代わりに口内に大量の水がなだれ込んでくる。

 もしもここでロイドが冷静になれたならば、前後の記憶などから考えて自分が大波にのまれ、水中にいるのだということに気付けただろう。

 だが急に飲まれたことで五感の全てが別物へと激変し、それによって混乱したロイドの思考はすでにまともな機能を果たしていなかった。

 助けを求めて無為に叫ぼうとして、肺から貴重な空気を根こそぎ絞りつくす。

 上下の区別すらできずに波にかき回され、自分がすでにどこにいてどこを向いているのかすらわからないまま、ロイドの命はどんどん最後の時へと向けて沈んでいく。

 ロイドがようやく状況を認識し、まともな思考回路のその半分程度の機能だけでも取り戻せたときには、もうすでに泳くことすら難しい、絶体絶命の窮地までたどり着いてしまった後だった。

 ようやく自分が溺れていることは理解できたが、理解できたのはそのたった一つの事実だけだった。

 視界は効かない。夜の水中ではまともに自分の手足すら視認できない。それは水中故に聴覚についても同様だった。

 否、たとえこれが昼の海だったとしても、音がそれなりに良く聞こえていたとしても今のロイドにはその外部情報を処理できるだけの頭脳の余裕はなかっただろう。なにしろ、何回転したのかもわからない波による翻弄によって、この時の勝一郎は上下の感覚すらも狂いきっていたのだから。


『――――ぁ、――――ヵ――――』


 ロイドの肺には、吐き出す空気ももはやない。意識もすぐに消失し、ロイドの身はすぐに海の藻屑と消えるだろう。

 そんな諦観に支配され、ロイド自身が意識を手放そうとした、その寸前、


(――ガァアアアアッ!!)


 彼自身のいったい何がそうさせたのか、ロイドの奥底から急激に沈みかけた意識が浮上して、ロイドの働きの悪い頭に半ば条件反射のように一つの術式を描き出す。

 思い出すのは、幼いころに親に通わされた、水泳教室で習った簡素な術式。幼いころのロイドは泳ぎが苦手で、この魔術がなければ水に入ることすら嫌がるありさまだった。

 だがだからこそ、この魔術はほとんど条件反射のように使用できる。両肩の周りをぐるりと回るように展開されるこの魔方陣は、体に染みつくほどお世話になったなじみきった術式だ。よどみなく展開されたそれへと向けて、あとはなけなしの意識を振り絞って、ロイドはありったけの魔力を流し込む。


(――【浮上輪(フローリング)】!!)


 瞬間、肩の周りで注ぎ込まれた魔力が一斉に空気へと変換され、空気の輪をはめられたロイドの体が肩から引っ張られるように急激に上へと浮上する。

 否、ロイドにとって浮遊する方向は真下だった。どうやらロイドは上下逆さまになって、頭を海底に向けて沈み続けていたらしい。無理に泳ごうとして足を動かしていれば、逆に水底に向けて進む羽目になってしまっただろうが、今回ロイドが頼りとしたのは空気による『浮力』だ。例えロイド自身が上下の感覚を失っていたとしても、“浮力だけは水中で上下を間違えない”。


「ガハァッ――!! ゲホッ――、ゴホッ、ォオッホ――、グ……、ゴホッ――!!」


 幸いにも、ロイドがいた場所の水深はそれほど深くなく、休息浮上した体は思いのほか早く空気のある場所へと突入した。肩周りの空気によって水上に浮きながら水を吐き、酸素を求めて必死に呼吸する。


 ロイドが使用した【浮上輪(フローリング)】という魔術は、言ってしまえば勝一郎の世界で言うヘルパーや救命胴衣のような役割を果たす魔術だ。実際、ロイドは自分が水泳教室でこの魔術を習った際は水に浮いて泳ぐためのヘルパーとしてこの魔術を教えられたが、一般では水難事故の際に救命胴衣のように使われ、これによって生存する人間も多くいる。


(――クソッ、なにが起きたってんだいったい!! なんだっていきなりあんなでかい波が来んだよ!!)


 呼吸を繰り返し、どうにかまともに働くようになった頭でそう悪態をつきながら、ロイドは周囲の黒々とした海へと視線をさまよわせる。

 夜の海、それもまともな照明などないロイドの視界は、はっきり言って碌に周囲のものなど見えなかった。数少ない明かりとして両肩の魔方陣と空の星々が光を放って入るが、はっきり言ってその程度では周囲の様子を探ることなど到底できそうにない。


(――ッ、あの二人はどうなったんだ……!?)


 なんとか明かりを得ようと手元で術式を操作しながら、ロイドは残る二人、勝一郎とランレイの姿を探すべく、水上で必死に目を凝らす。

 だがロイドのそんな心配は少なくも一人に対しては杞憂だったようで、すぐさま背後で水面が盛り上がり、それを突き破って一人の男がその姿を現した。


「――、無事か、ロイド!!」


 口元に当てた手拭いを外し、その男、勝一郎がロイドに向けてそう問いかける。

 その姿は必死なもので、とても余裕があるようには見えなかったが、


「……ああ、生きてるよ」


 なぜだかロイドには、その無事が勝一郎にとっては当然で、当り前のものであるかのように感じられた。






 水に飲まれる直前、勝一郎はとっさにそばにあったマントと、昼間海に出た時に使った手拭いを一緒に掴んでいた。

 水に飲まれて翻弄されながら、それでもその二つを抱え込んで手放さなかったのは後から考えてもいい選択だったと言える。おかげで勝一郎は手拭いを顔に巻き付け、すぐさま【息継ぎ部屋】を使用することができたし、マントを掴んでいたためその中にある荷物も失わずにすんでいた。

 なにしろこのマントの中には、三人分の荷物がまとめて入っている。昼間ランレイに食料の残量などを確認してもらった時に、二人のマントをこの中に持ち込み、中身を一度部屋の中に出してそのままになっていたのだ。もしもこのマントを失ってしまっていたら、勝一郎たちは武器まで含めて完全にすべての荷物を失うことになってしまっていた。


 だが、それは同時に、他の二人が一時的にでも逃げ込む部屋を失っているということを意味している。


(まずい、二人はどこだ……!? 暗くてなんも見えねぇ!!)


 夜の海という、視界が全く効かない水中で呼吸だけはどうにか確保して、勝一郎は必死の形相で周囲に人がいないかを探し回る。

 勝一郎の中で焦燥が荒れ狂う。どう考えてもこの状況は不味い。海が荒れていて碌に泳げないし、勝一郎と違い二人には【息継ぎ部屋】という選択肢もないのだ。このまま手をこまねいていれば、二人の遭難や溺死という可能性すら現実のものとなる。


 と、勝一郎が焦りに焦り、気功術で強化した感覚でなんとか二人の姿を探そうとしてたちょうどそのとき、


(――、この感覚、ロイドの――!?)


 感覚に引っかかる魔力の気配に、勝一郎はすぐさま反応してその方向へと泳ぎ出す。幸いにもその感覚は急激に水上目がけて浮上すると、水上に浮かんだような状態で輝きすら発して、目印の無い暗闇でしっかりとその位置を勝一郎に教えてくれた。


 水面を突き破り、口元の手拭いを外してすぐさまその魔術の主へと呼びかける。


「――、無事か、ロイド!!」


「……ああ、生きてるよ」


 両肩の周りに術式を浮かべ、その魔術によって浮きながら、右手ではさらに別の術式を使用しようとしていたロイドが、勝一郎の存在に気付いてそう返答する。

 だが、やはりというべきかその場所にいたのはロイドただ一人。


「ロイド、ランレイは見てないか」


「見てないかって、おまえの方も一緒じゃねぇのか!? だとしたらまずい。あいつ確か海は初めてだっつってたろ!! だとしたら」


「――ッ、あいつ泳げないのか!!」


 ロイドの言葉に、勝一郎もその可能性に気付きハッとする。

 考えてみれば海は初めてだとランレイは言っていた。村の近くには泳げるような環境はないし、それでなくともランレイは運動能力そのものをあまり重要視されない女の身だ。泳がねばならない状況どころか、下手をするとまともに水に入ることすらこれが人生で初めてかもしれない。


「ヤバい――!! 早く探し出して引き上げないと!!」


「ちょっと待てショウイチロウ。こんな暗さじゃまともに探せっこねぇだろうが!! ――クソッ、待ってろ。今すぐ【浮遊光輝(ライトバルーン)】を、適当な照明術式を立ち上げっから、急かすことなくそこで待ってろ!!」


 慌てて潜ろうとする勝一郎を引き留め、ロイドはすぐさま先ほどから手の上に展開していた術式をもどかしげに操作すると、数秒して術式の上に現れた光球を続けざまに四発、真上の夜空に向けて打ち上げた。

 打ち上げられた光球が強烈な光を発して、先ほどまでにほとんど視界が聞かなかった夜の海を放す相手の顔が見えるくらいにまでは照らし出す。


「空中に止まってしばらく照らしてくれる照明術式だ。つってもそんなに長くはもたねぇぞ」


「どのみち早く見つけなくちゃなんねぇのは変わんねぇよ!! 急いでランレイを探すぞ!!」


開扉の獅子(ドアノッカー)】でロイドの掌に【息継ぎ部屋】を作って与え、自身もすぐさま口元の手拭いの位置を直して、部屋の中に口を突っ込み潜水を開始する。

 どうやらかなり沖の方まで流されていたらしく、昼間最初にマントから出た時と違って水底が見えなかったが、しかしそれでも同じように流されたせいなのか、ランレイの姿はすぐに見つけることができた。

 水中で苦しそうに口元を押さえ、今にも力尽きそうな様子でもがく少女の姿。

 ただし誤算だったのは、このとき見つかったのは彼女一人ではなかったということだ。


(――おい、なんだよ、あれ……)


 ランレイを見つけたらすぐに救助せねばと、そう考えていた思考がそれを見ただけで瞬く間に硬直した。

 振り向きこそしなかったが、背後では一緒に潜ったロイドの方も同じような反応を示していたことだろう。

 見えたのは明かりの届く範囲の外で、動いて見えた何かの影。

 ただしその大きさが半端ではない。全長は暗くてわからないが、見える太さの直径だけでも手前にいるランレイの身長を遥かに超えている。そんな見るだけで圧倒されるような、馬鹿げた存在感を持つ“何か”がゆっくりと海中を泳ぎまわり、徐々にこちらに近づいてく来ていたのだ。


『――ッ!!』


 近づいている、という、そんな事実を認識できたその直後、ようやく勝一郎の意識の硬直が解け、代わりに絶大な危機感が津波のごとく押し寄せてきた。


(まさかあいつ、――ヤバい!!)


 気付いた瞬間、勝一郎はすぐさま背後へと振り返り、唖然とするロイドに目がけて掴んでいたマントを翻していた。


『――開け!!  【開扉の獅子(ドアノッカー)】――!!』


 マントの内側、そこに作られた扉が開き、その向こうの部屋へと向けて、周囲の水がロイドを巻き込み流れ込む。

 対するロイドは勝一郎の行動に驚愕したような表情を浮かべたが、それで何か行動ができた訳でもなく、なすすべもなく扉の向うの、安全な白い部屋の中へと流れ込んでいった。

 ロイドの姿が消えると同時にすぐさま扉を閉め、もう一度勝一郎はランレイの方へと振り返る。


『この状況……!! ここまで悪い状況は、今までの中でもなかったぞ……!!』


 ランレイとたった二人での【咬顎竜】との初遭遇。直接対決する羽目になった二度目の【咬顎竜】との遭遇。そして先日の【谷翼竜】の群れとの襲来。それらに加えて、すれ違いでロイドと激突したときなども相当に命の危険を感じたものだが、今回のこれはそれらに輪をかけたさらに悪い状況だ。

 何しろここは水中。明らかに相手のテリトリーで、地の利ならぬ水の利は圧倒的に向こうにある。

 いや、それどころか今の勝一郎には、我が身と己の服以外にまともに扉を作れる面すら存在していないのだ。少なくとも今まで、ここまで悪い状況というのはちょっとお目にかかったことがない。


(……ヤバい。どうすればいいんだこれ……!!)


 あまりにも不利な暗黒の海で敵と対峙して、同時に力尽きる寸前の仲間の姿を見つめながら、勝一郎は必死に状況を打破しようと頭を巡らせる。

 まるでそんな弱者をあざ笑うかのように、闇の向うで最大級の捕食者が、捕食のために獲物に向けて雄大な泳ぎを開始する。


おまけの用語解説


浮上輪(フローリング)

 肩周りに展開して起動させることで、肩の周囲に空気のリングを形成し、人間を水上に浮かせることができる魔術。使用感覚としては水泳教室などで使うヘルパーに近く、また海難事故の現場などで救命胴衣の代わりにも使用される。

 前述の救命胴衣としての役割を求められたため、術式は非常に簡素で、また使用魔力量も極端に少ない。その継続使用性能は非常に高く、記録では海で遭難した際、七十二時間ぶっ続けでこの魔術を使い続け、生き延びたという記録まである(一般的に、人間がこれだけ長く魔術を使用し続けた例というのがそうそう無い)。

 また、水中にいても発動させれば浮力に任せて浮かび上がれるため、そういった使用による生存の例も多い。ただしこの使い方は、あまり水深の深いところから休息浮上すると潜水病になる危険もあるため、あまり過信しすぎると危険な場合もある。


浮遊光輝(ライトバルーン)

 光の玉を空へと打ち上げ、打ち上げられた光球が空中に暫くの間浮遊する光学系魔術。

 元々は信号団のような使い方をしていた魔術だったのだが、術式をいじって光に色を付けることでそれなりに綺麗な光景を作り出せるため、一般にも知れ渡ってイベントごとでよく使われる魔術となっている。

 ちなみにロイドがこの魔術を習得したのも学祭の時で、一つ上の先輩に習って習得した。それ以来ほとんど使っていなかったため、忘れていても不思議はなかったのだが、土壇場で思い出せて本当によかった。


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