守られ姫は王子を迎えに行く
使用人の手によって扉が開けられる。
王城サロン。
並んだ窓から差し込む光。
それはまるで夢の続きのように、淡い白に部屋を包んでいた。
衣擦れの音。
ティーテーブルについていた青年が立ち上がる。
裾に異国の刺繍が施された白銀地のフロックコート。
真っ白なクラヴァットは、高く結ばれている。
光を透かすシャンパン色の髪。
誰もの目を惹きつけてしまうほどの神聖な気配。
――隣国の王子、アルベルト。
彼の理知的な瑠璃色の瞳が、わずかに見開かれる。
父王に伴われて部屋に入ってきたのは、
――この国の姫、セレーネ。
彼女はゆっくりと顔を上げた。
美しく結い上げられた蜂蜜色の髪。
その後れ毛が、細い首筋をそっと撫でる。
品よく光を弾く、翡翠の髪飾り。
光沢のある白金色のドレス。
何も触れたことがないかのような、華奢な指。
白い頬はわずかに染まり、長い睫毛の影が落ちている。
若葉色の瞳は、星を宿していた。
ただそこにいるだけで、空気がやわらぐような気配。
彼女は、その蕾のような唇を、ほんのわずかに開けた。
瑠璃色と、若葉色が、ただ静かに交わる。
風にそよぐ葉も、
空を渡る雲も、
時を止めたその一瞬。
――二人は、恋に落ちた。
父王はかすかに口角を上げると、王子の背後にいた騎士に目配せをし、静かに部屋を出ていく。
扉が静かに閉まる。
王子の騎士ローウェンは、アルベルトの背にそっと触れた。
アルベルトはハッとして息を呑むと、セレーネにゆっくりと歩み寄る。
ブーツが床をかすかに打つ。
光の粒が揺れ、それを舞わせた。
王子は姫に跪く。
そして、手を差し出した。
その指先を、セレーネは静かに見つめる。
「……セレーネ姫。
あなたに初めてお会いできるこの日を、心待ちにしておりました。
お美しい方。
どうか、私の妻になっていただけませんか。
――生涯、あなたをお守りします」
アルベルトの瞳に、頬を染めたセレーネが映り込んだ。
姫は、彼の手に、そっと指先を添える。
「……はい」
白い光が、夢にまどろむかのように、部屋を包み込んでいた。
---
公爵邸。
「姫を本当に隣国王子にやるつもりか。
――勿体ない」
沈みこむような男の声。
葉巻の甘苦い香り。
毛足の長い絨毯は音を吸う。
厚いカーテンは締め切られ、外界の空気を阻んでいた。
燭台の炎は、壁にゆらりと影を作り出している。
「陛下は何も分かっておられない」
男達は湿った笑い声をあげた。
「我が家門こそ姫にふさわしい」
公爵の言葉に、男達はみな一様に頷く。
「従順で使いやすい姫です。それを外に出すなんて……」
「……家門に年頃の男はいたはずだ。それをあてがえばいい」
「あの頑固な陛下をまずは説得しなければなりますまい」
公爵はグラスを軽く傾け、琥珀色を舌で味わうように眺めた。
「邪魔だな」
公爵のそばに、黒装束の男が跪く。
派閥の男達は、黙ってそれを見ていた。
言葉を挟めるものなど、ここにはいない。
「行け。――絶対にしとめろ」
落とされた声。
黒装束の男は頭を下げると、そのまま素早く部屋を離れた。
誰かが息を呑む。
蝋燭の火が、一度だけ揺れた。
---
夜半。
「ローウェン!」
「殿下!」
アルベルトとその騎士ローウェンは、背を向けあった。
その周りを黒装束の男達が囲っている。
開け放たれたバルコニー。
細い月は、部屋に僅かな明かりしかもたらさない。
荒い息遣いだけが、闇の中に落ちていた。
「私も……いくらかは仕留めた」
「……数が多いですね」
アルベルトの息は既に浅い。
夜着姿のまま、彼は暗殺者達と向き合っていた。
闇に目が慣れようと、沈み込んだ部屋の隅には沈黙が霧のように這っていた。
その時、ローウェンがアルベルトを押しのけ、斬り上げる。
温い血液が頬にこびりついた。
低いうめき声。
アルベルトは咄嗟に身を引いた。
軋む音。
床に刺さる暗器。
夜着の裾が、切られる。
毛足の長い絨毯の上には、既にいくつかの亡骸。
再び、剣を構える。
「息が上がってきた……」
「……殿下」
「こんなところで死んでたまるか」
ふと、光が差し込む。
アルベルトも暗殺者たちも、
思わず視線を向けた。
開いた扉。
場違いなほどに、優雅に部屋に入ってきたのは、セレーネと彼女の騎士二人。
蜂蜜色の髪を一つに高く結んだ姫は、ゆっくりと顔をあげた。
長い睫毛に縁取られた若葉色の瞳は、闇を吸い、まるで深い森のよう。
彼女の背後にいた背の高い男騎士は長剣を抜き、床についた。
「姫?」
暗殺者の一人が声を上げる。
「まさか、麗しい王子様を夜這いに来たのか」
暗殺者たちからは、嘲るような笑い声が上がる。
「放っておけ。どうせ何もできまい」
暗殺者達は、突然の闖入者に気を取られているようだった。
アルベルトとローウェンは再び背を向け合うと、闇の中を見渡す。
セレーネは無表情だった。
彼女は後ろに向かって手を差し出す。
背後にいた女騎士がその手にダークダガーをのせた。
くるりと回し、逆手に持ち直す。
呼吸が落ちる。
刃がかすかな光を、一瞬だけ弾いた。
彼女はそのままの表情で、床を蹴った。
低く構え、姿は闇に溶ける。
その刹那――
彼女は暗殺者の前に低く立ち、心臓を突き上げた。
鈍いうめき声。
ダークダガーを引き抜き、血がその白い頬に散る。
衣擦れの音。
彼女が、立ち上がる。
「姫が……!?」
彼女は、振り返る。
「この……!」
踏み込む。
壁を蹴り、影のように背後へ回った。
首に腕を回し、全体重をかける。
骨の折れる、鈍い音。
倒れかけた暗殺者を蹴り飛ばし、
扉の前で待機していた男騎士の前へ。
男騎士は、長剣をまっすぐに下ろした。
くぐもった音。
「あれは本当にセレーネ姫か!?」
不利を悟った暗殺者の一人が、バルコニーへと走った。
セレーネの女騎士が、そこに立つ。
彼女は、にっこりと笑んだ。
短い悲鳴があがる。
部屋の中央では、軽い足音。
「姫!」
アルベルトが叫ぶと、セレーネは振り向く。
そのまま鋭く切りつけた。
うめき声をあげ、顔を抑える暗殺者。
男は倒れずに踏みこたえるも、
背後には、いつの間にか女騎士。
背を刺され、結局そのまま倒れた。
セレーネは身を低くし、さらに床を蹴った。
姿が、再び闇に溶ける。
白刃。
暗殺者の剣が振られる。
ローウェンがアルベルトを庇う。
二人の目の前に、影。
姫はローウェンの前に立つと、一度だけその後ろのアルベルトに視線を向けた。
すぐに視線を外し、前を向く。
瑠璃色の瞳は、ただ彼女を追う。
そのまま低く飛んだ。
暗殺者の剣をダークダガーで流し、交わす。
その次も、避ける。
蜂蜜色の髪が流れる。
身体の向きを変え、
暗殺者の肩を鋭く突いた。
ダークダガーを引き抜く。
男がバランスを崩したところを、後ろから髪を掴んで引き倒す。
男を踏むようにして乗り、上から心臓をついた。
刃を、引き抜く。
浅い呼吸。
かすかな月光。
ゆったりと歩いてきた女騎士に、セレーネは汚れたままのダークダガーを手渡した。
立ち上がり、軽く手を払う。
「……みんな、お喋りが大好きなのね」
「……セレーネ姫」
アルベルトの声に、セレーネはゆっくりと彼を振り返った。
彼女の白い頬も、
蜂蜜色の髪も、
ナイトドレスでさえ、
血に塗れていた。
だが、彼女は柔らかく笑んだ。
咲いた花を見つめる乙女のように、それは可憐に。
「……おやすみなさい」
甘やかな声。
踵を返す。
彼女の騎士たちが、その背についた。
扉が閉まる。
部屋には、闇と静寂が、落ちた。
血の気配だけが、重く残る。
駆ける足音が近づいてくる。
城の護衛騎士たちが、やっと駆けつけたのだ。
アルベルトは、静かにその場に立ち尽くしていた。
---
翌朝。
帰国の挨拶のため、王子アルベルトは謁見の間の絨毯を歩いていた。
居並ぶ貴族。
暗殺者を送った公爵も、何食わぬ顔で並んでいた。
アルベルトとローウェンはその男を黙って見据える。
奥歯を噛みしめるローウェンをアルベルトはちらと振り返り、小さく首を振る。
王の前に立つ。
その時、背後の扉が開いた。
アルベルトも、貴族たちも静かに振り返る。
謁見の間の扉。
淡い緑のドレスを纏ったセレーネ姫は、その場でカーテシーをしていた。
ゆっくりと姿勢を戻し、アルベルトを見つめると、淡く微笑む。
まるで昨夜の出来事が、夢であったかのように。
彼女は、玉座まで伸びる赤い絨毯の上を静かに歩いた。
後ろには女騎士と、背の高い男騎士を従えている。
彼女の足が止まる。
公爵の前。
セレーネ姫が公爵の男を見上げた。
「おや、姫。どうされましたか?」
肌に粘りつくような声。
歪んだ口端。
彼女は一度、男騎士を見た。
彼は頷いた。
――突然、
姫は騎士の剣を引き抜いた。
腰を落とし、公爵の心臓を突き上げる。
鈍いうめき声。
一気に長剣を引き抜く。
血が舞い、男が倒れた。
セレーネ姫は、騎士に剣を返した。
彼は剣を受け取ると、汚れを落として鞘に戻す。
カチリ――かすかな金属音が謁見の間に響いた。
――静寂。
王は、笑んだ。
「この国の膿を潰したか」
セレーネ姫は頷く。
「細かいものは、父上に任せます」
父王は苦く笑った。
「……良かろう。
さて、褒美に何を望む」
若葉色の瞳は、まっすぐに王を見る。
「白馬の王子様との結婚を」
王は軽やかに笑った。
この場に、血の気配など落ちていないかのように。
「すでに決まっているだろう」
セレーネ姫は、にっこりと笑む。
彼女は、ゆっくりと歩いた。
呆然としている、アルベルトのもとへ。
白銀の王子、彼の前に跪く。
セレーネはそっと、手を差し出した。
「白馬の王子様。
お迎えにあがりました。
お慕いしています。
どうかわたくしを、あなたの隣に」
アルベルトは、瑠璃色の瞳を見開く。
遅れて、ふっと笑った。
「どちらが“王子様”なのだか。
……姫。
あなたは、本当にそれでいいのか」
セレーネはその美しい瞳を見つめた。
「あなたがいい」
アルベルトは柔らかく笑むと、少しだけ腰をかがめ、彼女の肩に触れて姫を立たせる。
そして、自ら片膝をついた。
「セレーネ姫。
私をどうかあなたのおそばに」
姫は、華奢な指先を静かにその手にのせた。
「……はい」
彼女の頬も、ドレスも、血で汚れている。
だが、その微笑みは、聖母のように美しかった。
高窓から差し込む光が、ただ、二人を照らしていた。




