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9/13

病室の窓から

 翌日、息子のれんの扁桃腺手術のため、美結(みゆ)は病院の小児病棟へと足を踏み入れた。

 自動ドアをくぐった瞬間、消毒液の刺すような匂いと、どこか給食を思わせる甘い熱気が鼻腔でぶつかり合う。看護師として幾度となく通った扉のはずなのに、患者の家族という立場でそこに立つと、見慣れた白い廊下がひどくよそよそしく、そして冷たく映った。

 案内されたのは、大きな窓から午前の光が惜しみなく差し込む四人部屋だった。シャーッという乾いた音を立ててカーテンを引くと、ベッドと床頭台、それから付き添い用の簡素なパイプ椅子だけが収まる、四角い小さな世界ができあがる。今日から数日間、この薄い布一枚で隔てられた空間が、美結と蓮のすべてになる。

 夫は、ここにいない。

「どうしても仕事が休めないから。まあ、お前ナースだし、病院のことは俺より分かってるだろ。任せるわ」

 数日前、リビングで荷造りをする美結の背中に向かって、夫はそう言い放った。それだけを残して、荷物に手を貸すことも、入院手続きを調べることも、24時間体制の付き添いがいかに過酷であるかを想像することも、彼はしなかった。娘の葵の世話だけは引き受けたものの、それは義務を果たしたというよりも、自分が動かずに済む最小限の役割を確保しただけのように美結には映った。病棟までの送迎さえ「タクシー代出すから」と金で片付けられた時、美結の中で夫への期待は、怒りという熱を帯びることもなく、ただひっそりと冷え固まっていった。

 彼にとって、子どもの入院とは「妻の業務管轄」に属する事柄でしかない。自分の日常のリズムを崩してまで立ち入るような領域では、はなからないのだ。

 病室のベッドの上で、蓮は落ち着かない様子で持参した絵本をめくっていた。まだ保育園に通っている彼は、明日の朝、自分の喉にメスが入れられるという現実を正確には理解していない。ただ、母親と二人きりで過ごすという非日常に少しだけ浮き立ちながら、同時に、隣のカーテンの向こうから聞こえてくる他の子どもの泣き声や、点滴台が廊下を擦る金属音に、名前のつけられない不安を感じ取っているようだった。同じページを何度もめくっては、時折、すがるように美結の顔を見上げる。

「ママ、おうちかえりたい」

 夕食の時間が近づき、窓の外が茜色から灰色へと変わり始めた頃だった。蓮が絵本から顔を上げ、ぽつりと呟いた。病衣の袖をぎゅっと両手で握りしめている。

「あしたになったら、かえれる?」

「……ううん。蓮の喉のばい菌さんがいなくなるまで、もうちょっとここでお泊まりしようね。ママもずっと一緒にいるから」

「なんで? 葵ちゃんの声が聞きたいな」

 美結の胸が、痛みを伴ってきつく締め付けられた。

 今頃、葵は夫とどんな夜を過ごしているだろう。不器用な父親が相手では、いつものように絵本を読んでもらえているかどうかも怪しい。それでも香川の実家ではなく自宅に残したのは、せめて慣れた場所で過ごさせてやりたいという、美結なりの配慮だった。いつもは喧嘩ばかりしているくせに、見知らぬ場所に隔離されると、無性に会いたくなるのだろう。泣きそうな声で訴える蓮の大きな瞳には、うっすらと涙の膜が張っていた。幼い体で精いっぱい恐怖と戦い、懸命に涙をこらえているのが、その小さな声の震えから伝わってきた。

 その健気な姿を目の当たりにすると、美結自身も泣きそうになってしまう。

 私は、この小さな命を守らなければならない。夫に頼る選択肢はない。

 明日のシミュレーションをしておかなければ。痛みで泣き叫ぶ術後の我が子を抱きしめ、なだめ、点滴の管が絡まないよう夜通し目を光らせる。夫の無関心など最初から当てにせず、私がすべてを背負って、この狭い空間で戦わなければならない。母親なのだから。それが私の「役割」なのだから。

 そう自分に言い聞かせるたびに、足元が深い泥へと沈んでいくような重さを感じた。

 ふと、胸の左側に意識が向く。数ヶ月前、自分で偶然触れて気づいたしこりだ。精密検査を経て、結局は良性の腫瘤という診断で、経過観察となった。メスを入れられるかもしれないという恐怖も、検査結果を待ち続ける心細さも、美結はひとりで抱えて乗り越えた。夫は「何でもなくてよかったな」とひと言言っただけで、その後も家事の量は変わらなかった。あの経験があったから、今日、蓮が恐怖で泣き叫ぶ気持ちが、我が事のように胸に迫ってくる。あの冷たい検査台の感触を、美結はまだ体の奥に覚えていた。

 夜が来て、消灯時間を過ぎた病室は、薄暗い常夜灯の光だけがぼんやりと滲んでいた。

 昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、輸液ポンプが時折鳴らす電子音と、ナースステーションから漏れ聞こえる足音だけが、闇の中に浮かび上がっている。蓮は慣れない環境に疲れ果てたのか、今は規則正しい寝息を立てていた。小さな手が、美結の服の裾をしっかりと握りしめたまま、離れようとしない。

 美結は、寝返りを打つたびに軋む補助ベッドの上に丸くなり、窓の外をぼんやりと見つめた。

 病院の窓からは、街が見渡せる。

 暗闇の中に滲むように浮かび上がる、市街地のオレンジ色の明かり。車のテールランプが血管を流れる血のように、規則正しく街の輪郭をなぞっている。その遠い夜景を眺めていると、ふと、瀬戸と過ごしたある午後の記憶が、脳裏に鮮やかな色彩を伴って蘇ってきた。

 あれは、二人の関係がまだ始まったばかりの頃だった。互いに家庭での嘘を重ね、こっそり遠出して、おせんべいを焼く体験施設に行った帰り道。車で走りながら、夕暮れの街を見下ろして、他愛のない話で笑い合った。車内に漂っていた、甘くてほんの少し焦げた醤油の香り。ハンドルを握る瀬戸の横顔。私のささやかな冗談に、肩を揺らして声を立てて笑ってくれた彼の温度。

 あの時の私は、「誰かの母親」でも「便利な妻」でもなかった。ただ、彼を楽しませ、彼に愛されるための、一人の女だった。

 美結は、無意識のうちにエプロンのポケットからスマホを取り出していた。

『お疲れ様です。入院生活はどうですか?』

 画面を点灯させた直後、まるで美結の思考を読み取ったかのような絶妙な間合いで、瀬戸からLINEが届いた。

『瀬戸さんからLINEくるの、こんなに嬉しいんですね。入院生活になかなか気持ちは落ち着きませんが、嬉しかったです』

『そうですか。そうですよね。病院生活頑張って』

 美結は窓の外の夜景を見つめたまま、ゆっくりとフリック入力で言葉を紡いだ。

『お子さんはどう?不安がってない?寝られてる?』

『こんばんは。やっと子供寝ました』

 送信すると、深夜にもかかわらず、すぐに既読がついた。彼もまた、眠れずにスマホの画面を見つめていたのだ。

『病院生活は、蓮が「何で帰れないの? 葵ちゃんの声が聞きたいな」とか泣きそうな声で言うのに、一生懸命涙を流さないようにしてる姿を見て、私が泣きそうになってます』

 素直に、弱音を吐き出した。

 夫には決して言えない言葉だった。もしこのLINEを夫に送れば、「お前がしっかりしないでどうするんだよ」と正論で殴られるか、「ふーん、大変だな」と既読のまま流されるかのどちらかだ。母親としての孤独と、明日へのプレッシャー。それを美化せずに打ち明けられる相手は、この世界で瀬戸だけだった。

『そうですか。蓮くん、かわいそうですね。美結さんもかわいそう』

 数秒後に届いた短い返信が、すっと心の一番奥の柔らかい場所へ染み込んでいった。

「しっかりしろ」という正論でもなく、「頑張れ」という的外れな励ましでもない。ただ「かわいそう」と、一緒に悲しんでくれること。強い母親でなくていいと、そっと許してくれること。それが今の美結にとっては救いだった。

 美結は、窓の向こうの夜景をスマホのカメラで収め、送信した。

『病室から市街地の方が見えます。瀬戸さんとおせんべい焼いて食べた日の帰り道を思い出してます(笑)。瀬戸さんは落ち着きました?』

 少し間を置いて、返信が来た。

『市街地の明かり、綺麗ですね。あの時は楽しかったですね。嫁さんにまた使えないやつとののしられちゃいまして。ちょっと気持ちが落ち着かなかったんですが。今、ちょっと落ち着きました。ありがとうございます』

 暗い病室の片隅で、美結はひっそりと、安堵の息を吐き出した。

 私が送った一枚の写真と、たった数行の思い出話が、奥さんとのやり取りで揺らいでいた彼の心を静めた。私が彼を救った。そして彼の「楽しかったですね」という共鳴と、「かわいそう」という慰めが、手術前夜の私の緊張感をゆるやかにほどいている。物理的には遠く隔たっていながら、私たちは互いの存在を精神安定剤のように服用し合っていた。

 窓の外に灯る市街地の明かりが、二人だけの秘密の標のように、暗闇の中でひっそりと、しかし確かに輝いていた。


 翌朝。いよいよ蓮の手術当日。

 病棟の朝は早い。六時の起床とともに、看護師たちが忙しなく出入りし始めた。

 全身麻酔のために朝から絶飲食を強いられた蓮は、空腹と恐怖で機嫌を失くし、美結にしがみついて離れなかった。「おみずのみたい」「ごはんたべたい」とぐずる声を「もう少し我慢しようね」となだめ続けるのは、想像していた以上に神経をすり減らす作業だった。

 やがて、術前の点滴を入れる時間がやってきた。看護師に押さえつけられ、手の甲に針を刺された蓮は、病室中に響き渡るような声で泣き叫んだ。美結は暴れる小さな体を両腕でしっかりと包み込み、「大丈夫、大丈夫だからね」と耳元で繰り返し囁く。張り詰めた空気の中、エプロンのポケットでスマホが短く震えた。

『おはようございます。今日がオペなのに、夜遅くにLINEしてしまってすみません。頑張ってください』

 瀬戸からのメッセージだった。

『美結さんの検査の時は良性ですみましたが、今日一日は蓮くん、たぶん苦しいはずですから』

 美結は、点滴のテープを固定されてしゃくり上げる蓮の背中をトントンと叩きながら、空いた片手でそっと画面を確認した。「美結さんの検査の時」――その一節に、胸の奥がかすかに疼いた。しこりが見つかり、精密検査の結果を待ち続けた日々の不安も、美結はひとりで抱えて乗り越えた。あの時も彼は「良性で良かったですね」と言ってくれた。何でもなかったのではなく、良性で済んだことを今も覚えていてくれているのだと、美結は静かに気づいた。

 自分のことのように、あるいはそれ以上に心配してくれる言葉。

 無意識のうちに、美結は夫とのトーク画面を開いていた。最後のやり取りは昨日の昼。「病院着いた」という報告に、「了解」の一言だけが返ってきたきりだ。今朝になっても、「頑張れ」の一言もない。「手術は何時からだっけ」という確認さえ届いていない。息子の手術は、この人にとって本当に、妻が黙って処理しておくべきタスクの一つに過ぎないのだと、改めて思い知らされた。

 思えば、胸のしこりが見つかった時もそうだった。「良性だったからよかったけど、もし悪性だったら」と夜中にひとりで震えていた時、夫はとうに寝息を立てていた。検査の日も、葵の送迎だけ頼んで病院に向かった美結に、「終わったら連絡して」とだけ言い残して仕事へ出かけた。結果を告げられた帰り道、真っ先に連絡したくなった相手は、夫ではなかった。

『ありがとうございます。ただいまオペ室に向かっています』

 ストレッチャーに乗せられた蓮とともに、冷たい廊下をゆっくりと進む。手術室の重い銀色の扉の前で、「ママ、いかないで」と静かに口にする蓮の手を離した時の感触が、掌の奥に生々しく刻み込まれていた。

 扉が閉まり、誰もいなくなった静かな待合室で、美結はパイプ椅子に腰を下ろし、冷えた指先でゆっくりと返信を打った。

『今日は蓮に寄り添っておきます。瀬戸さんもお仕事頑張って下さいね』

 送信ボタンを押して、美結は深く、長く息を吸い込んだ。

 冷たい背もたれに体を預け、今まさにメスを入れられているであろう小さな息子を思う。今頃、あの銀色の扉の向こうで、蓮はどんな表情をしているだろう。眠らされた意識の中でも、「ママ」を求めて泣いていたりしないだろうか。

 母親としての孤独と、言葉にならない不安が、静かに満ちてくる。

 けれど、ポケットの中のスマホが放つほのかな熱だけが、私がひとりではないということを、かすかに証明してくれていた。夫の不在を、瀬戸という存在が、いびつな形のままそっと埋めている。

 美結は目を閉じ、ポケットの中で、温かいスマートフォンをそっと握りしめた。

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