名前を呼ばれる夜のこと
スマホが震えた。
暗いリビングで、画面だけが白く光る。美結はソファに体を沈めたまま、腕だけを伸ばした。指先が少し冷たい。窓の外では風が鳴っていて、隣の寝室からは夫の寝息が、規則正しく、壁を透かして聞こえてくる。
瀬戸からのLINEだった。
『毎日連絡するの、強要したみたいになりましたね(汗)』
少し間を置いて、もう一通届く。
『寂しいんです。無視される事が多い人生だったから』
さらにもう一通。
『昨日は僕が見えてても、明日には見えなくなるかもしれないです(泣)』
美結は思わず小さく笑った。あの男が、これを打っている。夜になると、こうなる。画面をスクロールすると、メッセージはまだ続いていた。
『そんな事はないって分かるんですけど、毎日、僕が居てもいいのか確認しないと怖いんです』
『それだけです(苦笑)。でもそこまで弱くもないので、そんなに気にしないで下さい』
美結は指をスマホの上に置いたまま、動かさなかった。
文字が浮かばないのではない。「居てもいいのか」という言葉を、もう少しだけ自分の中に留めておきたかった。その言葉が自分に向けて送られてくることの重さを、すぐに返信という行為で流してしまう前に、少しだけ。最近、誰かに必要だと言われたのはいつだったか。考えようとして、やめた。考えるまでもなく出てこないということが、もうそれだけで十分だった。
壁の向こうで、夫の寝息が変わらず続いている。結婚して9年、あの寝息は一度も変わっていない。出会ったころも、子どもが生まれたときも、美結が高熱を出して一人でタクシーを呼んだ夜も、同じ間隔で、同じ深さで、続いていた。
美結はゆっくりと文字を打った。
『瀬戸さんが自分のこと見えなくても、私だけは瀬戸さんのこと見ています』
送信する前に、もう一行加えた。
『毎日、居てもいい。居て下さい』
送信。
数秒後、既読がついた。
『ありがとう。なんかホッとする』
照れたような顔のスタンプ、両手を合わせるスタンプ。それから文字が来た。
『そんなに優しくされたら、離れられなくなるよーー!!』
美結は少し甘えた調子で返す。
『私だって、離れられません』
『僕だって、離れることなんて想像することが難しいです。僕も美結さんから、いろんなことを頂きましたから』
スマホを胸の上に置いて、天井を見た。
離れられない。その言葉を、夫が口にしたことは一度もない。思い出そうとして、出てこなかった。出てこないことが、もう答えだった。いつごろからそうなったのか、それとも最初からそうだったのか、今となってはどちらでもよかった。ただ確かめる気がなくなったこと自体に、ずいぶん前に気づいていた。
『……美結さん大好きです』
最後のメッセージを見届けてから、画面を伏せた。スマホをソファの上に置いて、そのまま目を閉じる。隣では夫が眠っている。この家の主人が、子どもたちの父親が、今夜も同じ間隔で息をしている。
美結は目を閉じたまま、自分が笑っていることに気づいた。声を出さない、小さな笑いだった。
翌朝。
キッチンに立つと、まず換気扇を回す。それから冷蔵庫を開けて、牛乳と卵の残りを確認して、トーストをセットする。9年間、ほとんど同じ順番でやってきた動作を、美結は今朝も過不足なくこなした。
エプロンのポケットでスマホが震えた。
『good morning! おはよー、あいしてるよー』
瀬戸だった。
洗面所からシェーバーの音が続いていることを確認してから、返信する。
『心はこもってますか?(笑)』
『あのさ、イチローが言ってたの思い出したんだけど』
少し間が空く。
『朝起きたときにそいつのことを考えてたら、ちょっと好きなんじゃないの? って(笑)』
トースターがチンと鳴った。パンが跳ね上がる。美結はそれを取り出しながら、もう一度画面を見た。
朝いちばんに、私のことを。
かつて夫も、そういう時期があったのだろうかと、ふと思った。新婚のころ、出張先からかかってきた電話で、夫は「起きたらすぐ声が聞きたくなった」と言っていた。あれは本当だったのか、それとも言わなければならない気がしてそう言ったのか、今となってはどちらでもよかった。どちらにせよ、あの声はもうない。
『なるほど。納得できますね』
短く返信してポケットにしまったとき、洗面所のドアが開いた。
「メシ、まだ?」
「今焼けたところ」
美結は皿にトーストを置いた。夫の顔には目を向けなかった。向ける必要が、もうどこにもなかった。夫はテーブルにつき、スマホを取り出して画面を見ながら食べはじめた。ありがとう、とは言わなかった。美結もそれを期待していなかった。
二人の間には、何もなかった。ただの朝があった。
午後、瀬戸が病棟に来た。
月に一度か二度、コスト管理のための巡回がある。事務の人間が病棟に上がってくるのは、現場の看護師たちにとって歓迎される訪問ではない。使用材料の無駄を指摘され、発注数の見直しを求められる。忙しい時間帯に来られると、対応する余裕がない。
美結はナースステーションで記録を入力しながら、瀬戸が師長と話しているのを視界の端に捉えていた。
クリップボードを手に、棚の在庫を確認しながら、数字を読み上げている。声に感情がない。低く、均等で、淀みがない。師長が何か反論すると、一度だけ頷いて、穏やかに、しかし確実に、自分の言いたいことを通した。押しつけがましくはなかった。ただ、退く気配がなかった。
ああ、この声だ、と美結は思った。
昼間の彼は、いつもこうだ。隙がなく、過不足がなく、疲れている様子さえ見せない。病棟という、自分のホームでない場所に立って、それでも少しも委縮しない。
一通り確認を終えた瀬戸が、ステーションを出がけに美結の方を見た。
目が合った。
彼はわずかに頷いた。業務上の、それだけの動作だった。美結も表情を変えなかった。
それだけだ。職場では、いつもそれだけだ。
瀬戸の背中がエレベーターの方へ遠ざかるのを見ながら、美結はキーボードに視線を戻した。今朝、「朝起きたときに考えてたら好きなんじゃないの」と送ってきたのが、あの男だ。あの低く均等な声の男が、夜になるとああなる。それを想像すると、美結の胸の奥で何かがかすかに動いた。正確には、揺れたのではなく、ずれた。安定していたものが、数ミリだけ、元の位置からずれた。
その感触を、美結はまだ名前で呼んでいなかった。
その夜、入浴を終えた美結はリビングのラグの上でストレッチをしていた。
足を左右に開いて、上体をゆっくりと倒していく。腿の裏側から臀部にかけて、硬くなった筋肉が少しずつ引き伸ばされていく。痛みとも快感ともつかないその感触に集中していると、今日の雑多なことが少しずつ遠のいていく。子どもの送迎のこと、夕食の献立のこと、来週の参観日のこと。それらが端に押しやられて、頭の中に静かな空白ができる。
その空白に、瀬戸の顔が浮かんだ。
午後三時の、あの顔ではなかった。「居てもいいのか確認しないと怖い」と打ち込んでいる夜の瀬戸が、ラグの上に転がりこんでくるような感触があった。美結はそれを追い払わず、少しのあいだそのままにしておいた。
床に置いたスマホが光った。
『お疲れ様です。なんだか、今日は眠れません。美結さん大好きです。美結さんはゆっくり休んでくださいね』
瀬戸からだった。
『今、ストレッチしながら瀬戸さんのこと考えてました。LINE嬉しいです。大好き』
『LINEして良かったです。会いたくて仕方がありません。……メンタルが弱ってます』
『何かあったんですか? 大丈夫ですか?』
『何にもないんだけど、突然不安が襲ってくるんよ。ホントに早く会いたい』
美結は上体を起こした。
何もないのに、突然不安が来る。その言葉のそばに、知っている感触があった。名前をつけて考えたことはなかったが、夫の隣にいるとき、子どもたちと食卓を囲んでいるとき、ふとした拍子に足元がひっそりと消えるような、あの感触と同じものだった。自分がどこにもいないような、どこにいてもよかったような。
瀬戸はそれを「不安」と呼ぶ。美結にはまだ言葉がなかった。けれど同じ場所に立っているのだということは、わかった。
『一緒ですね。私も不安に潰されそうな日があります。瀬戸さんをぎゅっとしたいです』
『して欲しいです。苦しい』
「苦しい」という三文字を、美結はしばらく見ていた。
返信を打つのが、少し遅れた。拒絶でも躊躇でもなく、ただその三文字を、もう少し眺めていたかった。誰かが苦しいと言い、その言葉が自分に向けて送られてくることの、重さと温度を。それを受け取るのが自分であるということの、奇妙な充足感を。
『苦しい時には、愛情が一番です。大好き、大好き』
『ありがとうございます。では、そろそろ仕事の準備をします。美結さん大好きです。おやすみなさい』
『苦しい時に側に居れなくて寂しい。おやすみなさい』
スマホを床に置いて、もう一度足を開いた。今度は反対側に上体を倒す。また筋肉が引き伸ばされる。また、静かな痛みが来る。
明日から、息子の蓮の扁桃腺の手術で入院付き添いが始まる。夫は仕事だと言った。それ以上は何も言わなかったし、美結も何も言わなかった。手術の説明を聞いたのも、同意書にサインしたのも、入院の荷物をまとめたのも、すべて美結一人だった。それが当たり前だったし、当たり前だと思っていなければ、やっていられなかった。
病室で蓮と二人きりの夜が、何日か続く。
怖くはなかった。
夫がいなくても、怖くなかった。そのことに気づいたのは、いつごろだっただろう。怖いとか、寂しいとか、そういう感情が夫に向かって動かなくなったのはいつだっただろう。美結にはもう、その境目が思い出せなかった。ただ今は、ポケットの中にスマホがある。病室の硬いベッドの上でも、深夜に目が覚めたときでも、画面を開けば瀬戸がいる。
美結はそのことを、自分では幸福と呼ばず、ただ必要なものと呼んでいた。
呼び方など、どうでもよかった。




