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逃げ道の香り

 冬が本格的に牙を剥き始めた、十二月の夜だった。

 美結(みゆ)は瀬戸の地元である岡山へ瀬戸と一泊の旅行をすることになった。


 数週間前。夕食の後片付けをしながら、ソファでスマホをいじっている夫に声をかけた。

「今度の週末なんだけど。子どもたち、香川の実家に預けて……高校の友だちと岡山行ってきてもいい?」

 洗い物の水の音に紛れさせるように、できるだけ軽い調子で言ったつもりだった。スポンジを持つ手に、無意識に力が入る。嘘をつく罪悪感よりも、もし「なんで?」と深く追求されたらどうかわそうかという緊張感で、心臓が少しだけ早く打った。

 だが、夫は画面から目を上げないまま、「ん」とだけ返事をしたあと、少ししてから面倒くさそうに言った。

「ああ、いいよ。俺も久しぶりに一人でゆっくりできるし。飯は適当にやるわ」

 拍子抜けするほど、あっさりとした許可だった。誰と行くのかも、どこに泊まるのかも、いつ帰ってくるのかすら聞かなかった。

 妻が外泊するというのに、彼の頭の中にあるのは「自分の時間ができること」と「食事の心配をしなくて済むこと」だけ。休日のシフト調整がうまくいった、くらいの感覚なのだ。それがありがたいのか、それとも女として完全に終わっていることを突きつけられて寂しいのか、自分でもよく分からなかった。


 そして週末。香川の両親に子どもたちを預け、美結は瀬戸が待つ岡山へと向かった。

 助手席に誰も乗っていない車を一人で走らせ、瀬戸大橋を渡る。窓の外には、冬の鈍色の海がどこまでも広がっていた。橋の継ぎ目を越えるたびに鳴る「ガタン、ガタン」という規則的なタイヤの音が、美結の中から日常の埃を少しずつ払い落としていくような気がした。

 後部座席にあるチャイルドシートも、ダッシュボードの中のスーパーのポイントカードも、今はひどく遠い世界のものに思える。見慣れた日常の荷物をすべて香川に置いてきた美結は、海を渡り、瀬戸のテリトリーであるこの県に足を踏み入れた瞬間、「母親」でも「妻」でもない、ただの一人の「女」へと変貌していた。


 待ち合わせに指定された、駅前の少し気の利いたホテルのロビー。

 美結の姿を見つけるなり、瀬戸はまるで奇跡にでも出会ったかのように目を細め、足早に駆け寄ってきた。

「……すごく綺麗だ。いつもと雰囲気が全然違うから、一瞬誰か分からなかった」

 普段の職場で着ているパンツスーツや、汚れてもいいマザーズバッグではない。今日のために新調した、少しタイトなシルエットのウールのコートと、普段は履かないヒールのあるブーツ。そのささやかな変化を、彼は一秒で見抜き、言葉にして甘やかしてくれる。

「大げさだよ」

 美結は照れ隠しに笑ったが、胸の奥では乾ききっていた細胞が一斉に水を吸い上げるような、強烈な高揚感を感じていた。

 駅の近くで食事を済ませ、私たちは夜の倉敷・美観地区へと向かった。


 日中は観光客で溢れ返る白壁の町並みも、夜になれば嘘のように静まり返る。

 冷え切った空気が肺の奥まで鋭く突き刺さり、ライトアップされた柳の木が、倉敷川の水面に黒々と揺れていた。古い町屋から漏れるオレンジ色の灯りが、石畳に二人の長い影を落としている。

 美結はウールのコートの襟を立て、ポケットの中で両手を固く握りしめていた。手には瀬戸が買ってくれた、あの高級なハンドクリームがしっかりと塗り込まれている。冷気の中でも、体温で温められたラベンダーとウッディの深い香りが微かに立ち昇り、美結を「女」としての結界で包み込んでいた。


 私たちは、並んで歩かなかった。

 誰に見られるか分からない、瀬戸の地元である岡山での密会。五メートルほどの距離を開け、互いに他人のふりをして歩く。

 触れることはできない。会話もない。ただ、石畳を叩くお互いのブーツと革靴の足音だけが、等間隔で静かな町に響いている。

 正直に言えば、少し可笑しかった。いい年をした大人二人が、まるで親の目を盗む中学生のように距離を測りながら歩いている。でも、その距離があるからこそ保たれているものも、確かにあった。その数メートルの空間には、目に見えない濃密な感情の糸がピンと張り巡らされているのがわかる。


 少し前を歩く瀬戸の背中を見つめる。

 彼が吐く息が、白い煙になって夜の空気に溶けていく。彼は今日、家を出る前に「完璧な妻」とどんな嘘を交わし、良き父親としての顔を作ってきたのだろう。休日出勤か、旧友との飲み会か。

 私の方といえば、今頃夫は誰もいないリビングで、ビールの缶でも傾けながら、一人で気楽にバラエティ番組を見て笑っているはずだ。妻が別の男の香りをまとって、夜の美観地区を歩いていることなど微塵も想像せずに。

 お互いの背中に、壊れかけの、けれど絶対に手放せない「家庭」という重い甲羅を背負ったまま、私たちはこの暗がりで逢瀬を重ねている。


 もし、私たちが本当に一緒になったらどうなるんだろう、と考えながら石畳を踏む。

 すべてを捨てて、彼の手を取ったら。

 きっと最初は楽しい。劇的な恋の結末に酔いしれて、お互いを求め合うだろう。「やっと一緒になれたね」と、映画の主人公にでもなった気分で涙を流すかもしれない。

 でも、生活が始まったら?

 洗濯物や、光熱費の計算や、子どもの学校行事や、明日の夕飯の献立。そういう容赦なく押し寄せる「現実」の隙間に、今感じているこの切実な熱や、私を女として見つめる彼のまなざしは、ちゃんと残るんだろうか。


 分からない。

 たぶん、残らない気がする。


 いずれ私は彼にとって「庇護すべき繊細な女」から「生活を共にする母親」へと役割を変え、彼は私にとって「過保護に甘やかしてくれる尊い存在」から「ただの生活感あふれる同居人」へと変わっていく。今の夫と同じように。

 そうなれば、あの過保護なまでの心配も、美結を女として扱う熱を帯びた視線も、このハンドクリームの香りも、すべては日常の埃にまみれて、いつか消えてしまう。


 だから私は離婚しない。

 ……と言い切れるほど強くもないけれど、少なくとも今は、そのつもりはない。

 子供たちから父親を奪うこともしないし、冷え切った家庭で「良き母」を演じきることもやめない。


 ずるいと思う。自分でも思う。

 子供を言い訳にしているけれど、本当は、傷つくのが怖いのは私なのだ。

 波風を立てて離婚という膨大なエネルギーを消費すること。慰謝料も、世間の目も、すべてを敵に回すこと。そして何より、私がすべてを捨てた後、瀬戸が最後まで責任を取ってくれなかったときの絶望。

 彼の生来の「弱さ」を知っているからこそ、彼が本当に自分の家庭を壊してまで私を選ぶ覚悟があるとは、どうしても信じきれなかった。


 それでも私は、この関係をやめない。

 家では「母親」として、あるいは家事を回す「機能」として必要とされ、ここでは「女」として求められる。

 その両方を手放さずに済む今の立ち位置が、いちばん安全で、いちばん楽だからだ。


 ──最低だと思う。

 でも、それが本音だった。


 川沿いのベンチの近くで、瀬戸がふと立ち止まった。

 美結も数歩遅れて立ち止まり、観光客のように川面を眺めるふりをして彼に顔を向けた。

 視線が合う。

 街灯の薄明かりに照らされた瀬戸の目は、痛ましいほど美結を求めていた。触れたい、という気持ちがそのまま熱を帯びて伝わってくる。抱きしめたくてたまらないという切実な渇きが、五メートルの距離と冷たい夜気を越えて、ひしひしと届く。


『意識して過ごす日々を、楽しもう』


 いつか、瀬戸がLINEで送ってきた言葉を思い出す。

 なんて不誠実で、なんて都合のいい言葉だろう。

 けれど、それでいいのだ。

 私が彼にとって「絶対に手に入りきらない、他人の妻」であり続けること。それこそが、彼から永遠に女として大切に扱われ続けるための、唯一の条件なのだから。私たちは、互いの臆病さと自尊心を慰め合うための、完璧な共犯者なのだ。


 瀬戸が立ち止まり、美結の方を振り返る。

 目が合う。

 それだけで十分だった。


「……帰ろうか」


 小さく彼の口が動く。距離があるため声は聞こえないが、吐き出された白い息とともに、その言葉ははっきりと読み取れた。

 私はゆっくりと頷いて、踵を返した。


 明日の夕方、家に帰れば、またいつもの日常がある。

 夫の無関心な背中。散らかったリビング。月曜日の朝ごはんの準備。

 でも、それでもいいと思えた。


 全部を失うほどの勇気はない。

 けれど、何も感じないまま、ただの家電のように老いていくのも、きっと嫌だったのだ。

 この静かな嘘も、微かな高揚も、誰にも気づかれないまま続いていけばいい。私はこの狂気を、ポケットの中に隠したまま生きていく。


 美結は夜空を見上げ、深く息を吸い込んだ。

 冷たい空気の中に、瀬戸がくれた深いラベンダーの香りが、私だけを優しく包み込んでいた。

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