ハンドクリームの香り
冬の気配が濃くなるにつれ、病棟でのアルコール消毒と手洗いは回数を増し、美結の手は見るたびに荒れていった。
指先のささくれがストッキングに引っかかる。手の甲は粉を吹き、ハンドソープの泡が触れるだけでひりつく。
仕事だから仕方ない。
そう思いながらも、洗面台の前で自分の手を眺めると、なんだか急に年を取ったような気がして、視線を逸らしたくなる。
ある夜、洗濯物を畳んでいると、ソファでテレビを見ていた夫が言った。
「お前、手やばくない? カサカサじゃん。ちゃんとなんか塗れよ。婆さんみたいだぞ」
笑いながらの軽い口調だった。
悪意はないのだろう。ただ、思ったことをそのまま言っただけ。
「仕事だから、仕方ないの」
それだけ言って、タオルを畳む。指先のひびが布に引っかかり、少し痛む。
夫は「ふーん」と言って、もうこちらを見なかった。
怒るほどのことでもない。
でも、その小さな痛みが、やけに残った。
数日後、シフト終わりに瀬戸の車に乗った。
赤信号で止まったとき、瀬戸が不意に美結の右手を取った。
「……冷た」
それから、少し眉を寄せる。
「こんなになってたんですね。気づかなかった」
その言い方が、なぜか胸に深く刺さった。
美結は慌てて手を引こうとする。
「消毒ばっかりしてるから。見ないで。汚いし」
「汚くないです」
瀬戸は強くは握らない。ただ、離さない。
「……俺、こういうの見ると、なんか、悔しいんですよ。ちゃんと頑張ってる証拠なのに」
言葉を探しているみたいに、少し間が空く。
「せめて、これくらいはさせてください」
後部座席から取り出した小さな紙袋を、美結の膝に置いた。
中にはハンドクリームが入っていた。見慣れないブランド名。たぶん、安くはない。
「店員さんに聞いただけなんで、合わなかったらすみません」
その不器用さが、余計にこたえた。
「……ありがとう」
喉の奥が少しだけ詰まる。
こんなことで泣きそうになる自分が、滑稽だと思った。
その日の夜。
夫の寝息が規則正しく続く暗い寝室で、美結はそっとクリームの蓋を開けた。
少しだけ指に取る。
柔らかい香りが、布団の中に広がった。ラベンダーに似ているけれど、もっと深い匂い。
これ、ばれたらどうしよう。
そんな考えが一瞬よぎる。
でも、夫は動かない。
背中を向けたまま、一定のいびきを刻んでいる。
こんなに強い匂いなのに。
気づかないのか、気づく気がないのか。
ふと、子どもの寝顔が頭をよぎった。
私は何をしているんだろう、と一瞬だけ思う。
けれど、手の甲を包むしっとりとした感触が、その思考をゆっくり押し流していく。
少しくらい、いいじゃない。
誰にも迷惑はかけていない。
——本当に?
問いは最後まで形にならず、闇に溶けた。
美結は両手を顔に近づけ、もう一度香りを吸い込む。
それは優しさの匂いなのか、それとも逃げ道の匂いなのか、自分でも分からない。
夫の隣で目を閉じながら、明日もまた何事もない顔で朝食を作る自分を想像する。
きっと続いていく。
この静かな嘘も、この微かな高揚も。
そしてたぶん、誰にも気づかれないまま。




