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侵食し合う日常

 夫を騙すのは、拍子抜けするほど簡単なことだった。なぜなら、騙す相手が最初からこちらを一切見ていないのだから。

 薄暗い車内で「旦那は私を触らない」と瀬戸に告白した夜から、美結の中で何かが完全に吹っ切れていた。「良き妻」「良き母」という仮面は、もはや苦痛ではない。むしろ、仮面を被って夫の用意した奴隷のような日常を完璧にやり過ごせばやり過ごすほど、水面下で瀬戸と共有する「秘密」の輪郭が、生々しく浮き彫りになっていくのを感じていた。

 車内での告白を経て、瀬戸は美結を「夫に本当の価値を見落とされ、冷たい家庭で息を潜めている、自分が守り抜くべき女」として完全に位置づけたようだ。彼の過保護はもはや常軌を逸し始め、美結は彼が絶え間なく注いでくれる甘い劇薬を、一滴残らず貪り飲んでいた。

 ただ隠れて肌を重ね、承認欲求を満たし合うだけの関係である。それに留まっていれば、まだ引き返せたのかもしれない。だが、不倫という非日常は、気づけば真綿で首を絞めるように、二人の日常を侵食し始めていた。

 季節が秋めいてきた、ある月曜日の昼下がり。

 週末に実家へ帰省していた瀬戸が、出勤してくるなりひどく落ち込んだ様子を見せていた。職場の休憩室の隅で、コーヒーの紙コップを見つめたまま、言葉少なに俯いている。

 周囲に他の職員がいないことを確認し、美結は彼の斜め向かいの席に腰を下ろした。

「……何かあったんですか?」

 声を落として尋ねると、瀬戸は力なく首を振った。

「いや……実家の親と、少し揉めて。それに、妻とも。妻は本当に完璧だから、僕の親に対しても一切の隙がない対応をするんです。でも、完璧さが逆に……息が詰まるというか」

 瀬戸の指先が、紙コップの縁をなぞる。

「僕が間に入って上手くやろうとすればするほど、空回りして。結局、僕は完璧な家庭の中で、誰の役にも立ってないように思って。はは……情けないですよね」

 自嘲する瀬戸の顔には、大人の男としての鎧は微塵もなく、ただ迷子になった子供のような心細さが張り付いていた。

 美結は、彼の弱さが愛おしくてたまらなかった。彼の妻は、夫の脆さを頼りないと切り捨てるか、あるいは見ないふりをして完璧な妻を演じ続けているのだろう。だが、美結は違う。

 美結は周囲の気配をもう一度確かめると、テーブルの上で彼の手の甲に、そっと自分の指先を触れさせた。そして、普段の職場では決して使わない、自分の地元の言葉、讃岐弁のイントネーションで囁いた。

「瀬戸さん。……そんなん気にせんでええ。大丈夫って言って下さい」

 とっさに出た言葉に、瀬戸が弾かれたように顔を上げた。

 驚いたように美結の目を見つめ、やがて、彼の中で張り詰めていた見えない糸がふわりと解けるのがわかった。瀬戸の目尻が下がり、ひどく安心したような、そして魅力的な笑みが浮かぶ。

「……うん。そうじゃな。ありがとう」

 彼もまた、美結の熱に当てられたように、ふと地元の岡山の言葉を漏らした。

 瞬間、職場の無機質な休憩室の空気が一変した。

 肉体を重ねるよりも深く、精神の最も柔らかく無防備な部分が直接触れ合った気がした。標準語という社会人や親の鎧を脱ぎ捨て、素っ裸の子ども同士に戻って傷を舐め合うような感覚。

「いつも、ありがとう」と繰り返す瀬戸に、美結はあえて突き放すように、けれど甘さを孕んだ声で返した。

「感謝は要らないってば。他人行儀だから」

 瀬戸は少し照れたように笑う。

「あと、これ」

 瀬戸が自分のカバンをごそごそと探り、小さな紙袋を取り出した。

「実家の親父が、これ美味い言っとったから。美結さんにも食べてほしくて」

 中に入っていたのは、岡山の老舗が作っている抹茶味のわらびあんだった。

「お父さんが? ふふ、ありがとう。……じゃあ、私からはこれ」

 美結もロッカーから、あらかじめ用意していた大きめの紙袋を取り出して渡した。

 中に入っているのは、子供向け教材のキャラクターのしまじろうのぬいぐるみだ。

「うちの蓮、もう大きくなって全然遊ばないから。瀬戸さんのところの下の子、まだ小さいでしょ? これ、好きかなって」

「え、いいんですか? めっちゃ喜びますよ。最近、ちょうど欲しがってたんで」

「服もちゃんと着せてるし、綺麗に洗ってあるから。あと、タグのところに名前が書いてないかは確認したつもりだけど、一応家に入れる前にもう一度見てね」

「気遣い、ありがとうございます。本当に助かる」

 翌日の夜、瀬戸から一枚の写真付きでLINEが来た。

『子供がしまじろうを離しません。一緒に寝てます(笑)』

 小さな子供が、美結の家からやってきたぬいぐるみをぎゅっと抱きしめて眠っている写真だった。写真を見た瞬間、美結の背筋を、背徳感と圧倒的な優越感が同時に駆け上がった。私の家で役目を終えた「過去の残骸」が、瀬戸の家で新しい命を吹き込まれ、彼の子どもに愛されている。そして、瀬戸の父親が勧めた抹茶の菓子は、美結の家の食卓に並び、夫は口に運ぶ抹茶味のわらびあんが妻の不倫相手の実家からの土産だとは露知らず、無関心な顔で食べている。

 お互いの家庭の匂いがする物が、境界線を越え、私たちの日常を緩やかに、しかし確実に侵食していく。自分の生活の一部が彼の生活に溶け込み、彼の完璧な妻の目の前で、堂々と息づいている事実が、どうしようもなく甘美だった。私たちは、二つの壊れかけた家庭を、見えない糸でいびつに縫い合わせているのだ。美結は時折、月に一度だけ通っている占い師の言葉を思い出す。

『相性が良すぎるのよ、あなたたちは。でも、一緒になる運命ではない。互いに距離を保ちながら、支え合う星回りね』

 以前なら、「一緒になれない」という言葉に絶望していただろう。だが今は、占いの結果が最高のお告げのように聞こえた。一緒になれば、生活が始まる。生活が始まれば、どれほど愛し合っていても、いずれ今の夫と同じように、私を母親という役割としてしか見なくなるかもしれない。過保護なまでの心配も、私を女として扱う熱を帯びた視線も、日常の埃にまみれて消えてしまうだろう。

 だから、離婚は絶対にしない。

 このまま互いの家庭に帰らなければならない、手に入りきらない相手でい続けることが、彼から永遠に女として大切に扱われ、過保護に愛され続けるための絶対条件なのだ。

『終わりまで続けてください』

 美結は、しまじろうを抱く瀬戸の子どもの写真に、そう返信した。

 「いつか終わるかもしれない」という恐怖を孕んだ悲鳴であり、同時に、ぬるま湯のような狂気を、骨の髄までしゃぶり尽くしてやるという美結の強烈なエゴイズムの宣言でもあった。

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