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甘美な痛み止め

 三日間の高熱と喉の痛みを経て、ようやく落ち着きを取り戻した頃。美結の心には、今までとは全く違う種類の、静かで凶暴な火が灯っていた。熱に浮かされていた三日間、夫はただの一度も「体調はどうだ」と尋ねることはなかった。出勤前に美結の寝室を一瞥し、ため息をついてから、不機嫌そうにスーツのジャケットを羽織って出て行くだけだった。彼にとって妻の病気は、日常のルーティンを狂わせる「不具合」でしかないのだ。対照的に、瀬戸は朝、昼、晩と、美結に気遣いのLINEを送った。その文字の羅列は、熱で干からびた美結の細胞の隅々にまで浸透し、彼女をただの母親や壊れた家電から、庇護されるべき女へと引き戻してくれた。

 彼からの「かわいい」「綺麗だ」「代わってあげたい」という承認のシャワーをもっと浴びたくて。彼にとっての絶対的な「一番」であり続けるために。美結は熱が完全に下がった夜から、密かに自宅で筋トレを始めた。

 深夜、子供たちも夫も寝静まったリビング。寝室からは、夫の高いいびきが微かに漏れ聞こえてくる。その無防備で鈍感な音を背中で聞きながら、美結はヨガマットの上に寝転がり、動画サイトで見つけたツイストシットアップを繰り返した。上半身を捻りながら起き上がるたびに、腹筋と太ももの付け根がギリギリと悲鳴を上げる。慣れない運動に息は上がり、額にはじわりと汗が滲む。

 指を挟んだ時の痛みや、発熱時の頭痛や喉の痛みはただ不快なだけだった。けれど、この筋肉痛は違う。これは、女としての自分を磨き上げているという確かな証拠であり、瀬戸へ捧げるための甘美な痛みだった。

『こんばんわ。今日もお仕事お疲れ様です』

 汗を拭い、ベッドに潜り込んでから彼にLINEを送ると、すぐに瀬戸からウサギがかばんを持って家に帰っているスタンプと共に返信が来た。

『仕事、頑張ってきました。美結さんも体調は大丈夫ですか?』

 画面越しの他愛のないやり取り。だが、その一文字一文字が、美結の承認欲求を完璧に満たしていく。

 それから数週間後のことだった。いつもの待ち合わせ場所である、国道沿いのファミリーマートの駐車場。夜の帳が下りた薄暗い車内で、瀬戸の車の助手席に滑り込んだ美結は、彼と甘く、他愛のない会話を交わしていた。車内には、彼の微かな石けんの香りと、エアコンの乾いた風が満ちている。互いの家庭から完全に切り離された、二人だけの密室。

 ふと、瀬戸が話の途中で言葉を切り、美結のウエストから太もものあたりを、じっと見つめて言った。

「美結さん、なんか……少し痩せました? それに、なんか雰囲気が変わったっていうか、すごく引き締まった気がする」

「あ、わかりますか?」

 美結はいたずらっぽく笑い、少しだけ身を乗り出した。

「最近、ずっとツイストシットアップっていう筋トレやってるんです。ふとももの付け根とか、最初は結構な筋肉痛で大変だったんですけどね。やっと効果が出てきたみたい」

「すごい! 頑張ってるんですね」

 瀬戸は自分のことのように嬉しそうに笑い、賞賛の眼差しを向けた。

(……気づいてくれた)

 美結の胸の奥で、勝利の鐘が鳴り響いた。同じ家で暮らし、毎日顔を合わせている夫は、私がどれだけ汗を流しても、身体のラインが変わっても、ただの一度も気づかなかったというのに。月に数回しか会えないこの人は、暗い車内でも、私の小さな変化を見逃さない。だが、瀬戸はふと真顔になり、その賞賛の眼差しの奥に、濃い不安の影を落とした。心配そうに眉をひそめ、美結の顔を覗き込む。

「でも……あんまり綺麗になりすぎて、旦那さんに怪しまれたら良くないですね」

「え?」

「ほら、妻が急に綺麗になったり、体型が変わったりしたら、普通は『他に男ができたんじゃないか』って疑うでしょ? 美結さん、最近本当に綺麗になったから……僕のせいで、家庭が上手くいかなくなったらどうしようって」

 薄暗い車内でその言葉を聞いた瞬間、美結は声を出して笑いそうになるのを必死で堪えた。

 怪しまれる? あの夫が?

 妻が高熱で倒れて這いつくばっていても、弁当をひとつ買ってきて「俺にうつすなよ」と自分の部屋にこもるようなあの鈍感な男が、妻のウエストが数センチ引き締まったことや、肌の艶が良くなったことに気づくというのか。美結は、込み上げてくる黒い笑いと、氷のような虚無感を同時に飲み込み、助手席のシートに深く寄りかかった。

「……大丈夫ですよ」

 美結は、フロントガラスの向こうの街灯を見つめながら、ひどく淡々とした声で答えた。

「なんでですか? 旦那さん、絶対に気にすると思うけど……」

「旦那は、私を触らないから」

「えっ……」

 車内の空気が、ピタリと止まった。瀬戸が息を呑む気配が、隣から伝わってくる。美結はゆっくりと首を巡らせ、瀬戸の目を見つめ返した。その瞳には、一滴の嘘も、隠し事もなかった。

「筋肉がついたとか、私が女としてどう変わったかなんて、あの人は一生分からないですよ」

 静かな声だった。だが、その言葉には、何年にもわたって積み上げられてきた絶望と、完璧な諦めがナイフのように鋭く研ぎ澄まされていた。

「家事と育児さえ回っていれば、私がどんな体型になろうが、誰のために綺麗になろうが、あの人には関係ないんです。私が女であることすら、もう忘れてるんじゃないかな」

 瀬戸は絶句し、痛ましそうな、けれどどこか決定的な安堵を含んだような、複雑な目で美結を見つめた。可哀想に、と彼はきっと思っている。そして同時に、「この女の本当の価値を知っているのは、世界で自分だけなのだ」という優越感に打ち震えているはずだ。虚しさよりも、奇妙な全能感が美結の胸を満たしていた。夫が見ていない私を、瀬戸が見ている。夫が気づかない美結の体の変化や、小さなため息の理由に、瀬戸だけが熱い視線を注いでくれる。それで十分だった。

 夫には一生、ただの「便利な同居人」だと思わせておけばいい。指の痛みにすら「知らんがな」と吐き捨てる男になんて、自分の本当の価値は一ミリだって教えてやらない。私が女として流す汗も、甘い吐息も、すべてはこの薄暗い車内でだけ解き放たれる。

 美結の美しさも、優しさも、女としての熱も、すべてはあの完璧な妻の目を盗んで自分を過保護に溺愛してくれる、瀬戸という男のためだけに存在しているのだ。

 離婚届に判を押すような、面倒なエネルギーを使うつもりは毛頭ない。

 美結はただ、この波風の立たない冷え切った家庭という「無菌室」から一歩も出ずに、夫の金と生活の基盤を利用しながら、世界で一番甘やかされる瀬戸さんを、骨の髄までしゃぶり尽くしてやろうと決めた。

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