発熱の夜
あの日、洗面所の冷たい床に座り込み、声を出さずに流した涙を境に、二人の関係は明らかに違うものへと変わっていった。
美結は、心のどこかで瀬戸を支配しているつもりだった。彼の心の弱さや、完璧な妻への劣等感を利用し、自分の空っぽの自尊心を満たすための安全な玩具として扱うつもりだった。私が彼を必要としている以上に、彼が私を必要としているのだという、傲慢な計算。だが、その計算はすでに破綻していた。
息子の蓮の、扁桃腺の術前検査に付き添った美結は、帰宅する頃にはひどく疲弊していた。
蓮は幼い頃から病院に慣れており、採血の際も泣き叫ぶようなことはなく、ただ処置室で採血してくれる看護師さんと気を紛らわせるような話をして痛みを耐えている。看護師である美結にとって、医師の事務的な説明も、術前検査の定型的な流れもすぐに理解できた。医療の知識がある分、無駄な不安やパニックに陥ることはない。
だが、冷静に状況を把握すると、手術に向けた自分の勤務シフトの調整や、入院中の段取り、そして一切当てにならない夫を計算から外した上での完全なワンオペのシミュレーションなど、膨大な現実的タスクが瞬時に頭を駆け巡るのだ。母親と看護師の視点を絶え間なく切り替え、たった一人で家族のプロジェクトを背負い込んで采配を振るうプレッシャーは、美結の体力と気力を確実に削り取っていた。
半日がかりの検査を終え、頑張った蓮を褒めながら帰宅した直後だった。美結の背筋を、氷を滑らせたようなぞっとする悪寒が駆け抜けた。
(……まずい)
身体の芯からガチガチと震えが来る。立っているのもしんどい。熱を測るまでもなく、急激に体温が上昇しているのがわかった。極度の緊張と疲労の糸が切れて疲れが出たのだろう。
美結は這うようにして寝室に向かい、蓮を寝かしつけた後、自分もベッドに倒れ込んだ。布団にくるまっても寒気は収まらず、奥歯がカチカチと鳴る。
夕方になり、玄関のドアが開く音がした。夫が帰宅したのだ。
ドスドスという無遠慮な足音がリビングに向かい、やがて寝室のドアが少しだけ開いた。スーツ姿の夫が、怪訝そうな顔で部屋を覗き込む。
「……ごめん」
美結はひび割れた声で、暗い部屋の中から夫に声をかけた。
「熱が出ちゃって。蓮の検査で病院に行って、何か……もらってきたみたい。夕飯、作れないから、適当にお弁当か何か買ってきてくれないかな」
夫は美結の苦しそうな顔を見るなり、心配するどころか、あからさまに苛立ったような舌打ちをした。
「え? お前、ナースのくせに自分の体調管理もできないの?信じらんないな。俺、今日仕事でめちゃくちゃ疲れて帰ってきてんのに」
「……ごめん。でも、身体が動かなくて」
「もういいよ、外で食べてくるから」
夫は吐き捨てるように言い放った。
「蓮の分は適当にコンビニで買ってくるわ。俺にうつすなよ。明日も大事な会議あるんだから」
バタン、と乱暴にドアが閉まる音がした。
部屋は再び、しんとした暗闇に包まれた。
氷枕を用意してくれるわけでも、ポカリスエットを買ってきてくれるわけでもない。額に手を当てて、熱を確かめてくれることすらない。ただ「俺にうつすな」という、同居人としての最低限の防衛本能と自己中心的な不満をぶつけられただけだった。
美結は高熱で潤んだ目を閉じ、乾いた笑いを漏らした。
わかっていたことだ。あの指を挟んで内出血を起こした時だって、「知らんがな」と一蹴した男なのだ。妻が三十八度や三十九度の熱を出したところで、彼の心を一ミリたりとも動かすことはできない。私という「家事と育児をする機械」が故障したことに、ただ腹を立てているだけ。
涙すら出なかった。ただ、身体の熱とは対照的に、心臓のあたりが恐ろしいほど冷え切っていくのを感じていた。
その直後だった。
枕元に伏せて置いていたスマホが、ヴーッ、ヴーッと短く震えた。美結は重い腕を持ち上げ、眩しい画面に目を細める。瀬戸からのLINEだった。
『今日はお休みでしたよね。蓮くんの術前検査、どうでしたか? 疲れてませんか?』
その一行を見た瞬間、美結の喉の奥から、ヒュッと引き攣ったような息が漏れた。夫が、実の息子の検査の労いすら一切口にしなかったというのに。血の繋がりもない、ただの職場の同僚である彼が、私の休日と子供の予定を記憶し、こうして気遣ってくれている。
美結は、震える熱い指でフリック入力の画面を叩く。
『蓮はなんとか無事に終わりました。でも、私、昼から寝てるんですけど……発熱で倒れてます。ちょっと疲れが出たみたいです』
送信した数秒後、既読がつくよりも早く、画面が切り替わって着信を知らせるコール音が鳴り響いた。
瀬戸からだった。
美結は少し躊躇した後、通話ボタンをスワイプして耳に当てた。
「……もしもし」
『美結さん!? 大丈夫ですか! 声、すごくしんどそうだけど!』
電話の向こうの瀬戸は、まるで自分の家族が危篤にでもなったかのように切羽詰まり、声が裏返っていた。どこか外を歩いているのか、かすかに車の走行音や、風の音がマイク越しに聞こえる。
「瀬戸さん……今、電話なんてして大丈夫なんですか? 奥さんは?」
『僕のことはいいんです、今は一人だから! それより、熱は!? 何度ありますか? 薬は飲みましたか? ご飯は!?』
矢継ぎ早に投げかけられる質問のシャワー。それは、今の美結が夫から最も欲しかった言葉の羅列だった。美結は、熱でぼんやりする頭の隅で、ふふっと小さく笑みをこぼした。身体は信じられないほど重く苦しいのに、心だけがふわりと宙に浮くような奇妙な高揚感に包まれる。
「大丈夫です……明日は師長さんに来なくて良いって言われましたから、ゆっくり寝ます」
『全然大丈夫じゃないですよ! 術前検査で、気を張りすぎたんですかね……ああ、本当に、代われるものなら僕が代わってあげたいくらい』
「ふふ、瀬戸さんまで熱出したら困りますよ。ありがとう。クーラー消し忘れて朝まで寝たせいかもしれません。多分コレです」
『無理しちゃダメですよ。……あぁ、今日、少しでも早く仕事終わらせて、散歩にでも誘って顔を見たかったのに。ツライ。美結さんが苦しんでるのに、何もできないなんて。つらいよー、もー!』
大の大人が、電話口で本当に泣きそうな、情けない声を出している。滑稽なほどの狼狽ぶりに、美結の胸の奥で、黒くて甘い優越感がとぐろを巻いた。
「私がしんどいのに、なんで瀬戸さんがつらがってるの」
『だって、何もできないから。美結さんがこんなに苦しんでるのに、側にいて、手を握ってあげることすらできないのが悔しくて……』
なんて過保護で、尊いのだろう。
完璧な妻の前では常に「しっかりした父親」や「ミスのない夫」を演じさせられ、息を詰まらせている彼は、美結という「隙だらけの女」を甘やかすことで、彼自身の男としての自尊心を満たしているのだ。俺が守ってやらなければダメだという、男としての本能。
そして美結もまた、彼にこれほどまでに過保護に扱われることで、夫から奪われ、干からびていた女としての承認欲求をたっぷりと潤している。
夫は私を放置する。けれど、瀬戸は私を世界の中心であるかのように心配する。この絶対的な温度差がある限り、私は夫への憎しみを瀬戸への蜜に変えて、いつまでもこの関係をしゃぶり尽くすことができる。
「瀬戸さん」
美結は、熱を帯びた、少し甘ったるい声で彼の名前を呼んだ。
「……ありがとう。瀬戸さんの声を聞いたら、少し楽になった気がする」
『本当ですか? 何か必要なものがあったら、家の近くまで持っていきますから。無理だけは絶対にしないで』
「うん。……また、連絡するね」
通話を切った後、美結は熱いスマホを胸に抱きしめたまま、静かに目を閉じた。リビングからは、買ってきた弁当を食べながらテレビを見て笑う夫の声が聞こえる。けれど、もう腹は立たなかった。彼が私を愛さないのなら、それでいい。私には、私の熱に本気で涙ぐんでくれる、過保護な共犯者がいるのだから。




