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計算された偶然、歪んだ救済

 瀬戸との関係は、職場の何気ないやり取りから始まった。最初の出会いは、職場の敷地内に併設された院内保育園だった。

 消毒用アルコールと、子供たちの汗と、甘ったるいおやつの匂いが混ざり合う混沌とした空間で、瀬戸はひどく場違いなほど洗練されて見えた。アイロンの当てられたシャツ、手入れの行き届いた革靴、そして何より、周囲の喧騒から一段切り離されたような、どこか物憂げな横顔。

 お迎えの時間が重なるうち、私たちは自然と目礼を交わすようになり、やがて狭い廊下で子供の支度を待ちながら、短い言葉を交わすようになった。

「瀬戸さん、いつもお迎え早いですね。お仕事、お忙しいでしょうに」

 ある雨の夕暮れ、美結みゆが何気なくそう声をかけると、瀬戸は少しだけ自嘲的な、ひどく魅力的な笑みを浮かべた。

「いや、僕がやれることなんて、このくらいしかないんですよ」

「そんなことないと思いますけど」

「本当ですよ。妻がしっかりしているので、このくらいはがんばらないと、自分が父親としてなんか薄っぺらい人間にしか思えなくなっちゃうんです」

 彼の不意の自己開示は、美結の心を静かに揺らした。家庭というプレッシャーの中で、彼もまた居場所を探しているのだと思った。

 美結は、彼の中に自分と同じ孤独な空洞を見つけたような気がした。枯れ果てた砂漠で、同じように喉を渇かせて歩いている遭難者を見つけたような、甘い期待。

 しかし、そんなささやかな幻想は、数日後に唐突に終わりを告げた。

 お迎えのラッシュが過ぎた、少し薄暗い保育室の死角だった。美結は、ベテランの保育士が泣き止まない子供の頭に、苛立たしげに手を挙げるのを目撃してしまった。

 鈍い音と、押し殺したような子供の泣き声。美結の胸の奥で、何かが冷たく凍りついた。

 息を呑んで立ちすくんだ瞬間、視界の端に瀬戸の姿があった。彼も見ていたはずだった。

 美結と瀬戸の視線が、ほんの一秒だけ空中で絡み合った。美結は無意識に、彼がどう動くのかを期待していた。だが、瀬戸はサッと目を伏せた。そして何も言わず、ただ自分の子供の手を引き、逃げるようにその場を立ち去った。

 彼のその背中を見た時、美結の中にあった淡い好意と共感は、氷のような軽蔑に変わった。所詮、この男はただの空っぽなマネキンだ。波風を立てる勇気もなく、ただ安全な悲劇の主人公を気取っているだけの臆病者なんだ。

 美結は翌日には退園の手続きをとった。子供を守るためでもあったが、これ以上、この卑怯な男と同じ空気を吸いたくなかった。

 それ以来、瀬戸と顔を合わせることはなくなった。美結は再び、夫という名の「機能的な同居人」との、窒息しそうなほど平穏な日々に埋没していった。

 転機が訪れたのは、それから半年後のことだった。

 職場の互助会が主催する、半ば強制参加のボーリング大会。ストライクが出るたびに上がる空虚な歓声と、ハイタッチの乾いた音が響く中、美結はひたすら時間が過ぎるのを待っていた。

 ふと視線をやると、瀬戸がいた。彼は周囲のどんちゃん騒ぎに溶け込もうと愛想笑いを浮かべていたが、その目はひどく退屈そうだった。

 ボーリングが終わるや否や、瀬戸は誰に挨拶するでもなく、一人で夜の街へと歩き出していた。少し猫背になった背中を見た瞬間、美結の頭の中で、冷酷で計算高い声が囁いた。

(ちょっと、声をかけてみようか)

 純粋な恋心などではない。保育園での彼の心の弱さと卑怯さを知っているという、圧倒的な優位性からくる行動だった。空っぽの男なら、私の都合の良いように操れるかもしれない。私の渇きを癒すための、安全な玩具になるかもしれない。

 初冬の冷たい風の中、美結は小走りで彼の背中を追い、わざとらしく明るい声をかけた。

「瀬戸さん。お疲れ様です」

 瀬戸は驚いて振り返った。

「あ……鈴木さん。お疲れ様です。もうおかえりですか」

「はい、でも帰りの道がわからなくて。結婚してこっちに来たので地理感が分からないんです。たぶん、家、瀬戸さんと同じ方向なんです。帰ってると時々瀬戸さん見るので。良かったら一緒に帰ってくれませんか」美結は首を傾げ、彼の目をまっすぐに見つめた。

 瀬戸の目に戸惑いの表情が広がった。

「……はい。でも少し飲んでから帰ろうと思っていたんです。もしお時間があるなら一緒に飲みますか」

「じゃあ、私も一杯飲んで帰ります」

 瀬戸は安堵の表情をしたように見えた。

「……ですか。では、ぜひ、行きましょう」

 美結は思った。この男は今、誰かに支配されるのを待っているのではないか。

 駅前の喧騒から少し離れた、照明の暗いバー。

 グラスの中で溶ける氷の音だけが、二人の間に横たわる沈黙を埋めていた。

 家庭を壊すつもりなんて、微塵もなかった。ただ、家庭という密室で窒息しかけている者同士、酸素を分け合うように言葉を交わしたかっただけだ。

「妻は、完璧なんだ」

 二杯目のハイボールを飲み干した後、瀬戸は自嘲気味に口を開いた。

「家事も、育児も、近所付き合いも、何一つ文句のつけようがない。本当にできた妻だと思うよ。でも……僕は彼女には、男として見られていないんだ」

 瀬戸の指先が、グラスの縁を所在なげになぞる。

「いや、違うな。妻が完璧だからこそ、僕という存在が必要とされている気がしないんだ。僕がいなくても、あの家庭はうまく回る。僕はただの、収入をもたらすためのパーツでしかない」

 その言葉は、美結の胸の最も柔らかく、最も痛む場所を正確に貫いた。

(ああ、私と同じだ)

 美結の夫もまた、美結を「家事と育児をこなす機能」としてしか見ていない。女としての価値など、とっくの昔に減価償却されている。

「完璧すぎる人と一緒にいるのって、息が詰まりますよね」

 美結は、アルコールの熱に任せて、彼の手にそっと自分の手を重ねた。ビクッと瀬戸の肩が揺れたが、彼は手を引かなかった。

「瀬戸さんは、パーツなんかじゃないですよ。私はずっと、あなたのことを見てましたから」

「……僕を?」

「ええ。少なくとも私には、あなたがどれだけ繊細で、魅力的な人かわかります。家庭の中に押し込めておくには、もったいないくらい」

 それは、計算された慰めだった。

 美結は、彼の「完璧な妻」に対して、強烈な優越感を抱いていた。どれほど家事や育児が完璧であろうと、この男の心の最も脆い部分、最も惨めな部分を抱きしめているのは、法的な妻ではなく、この私なのだ。

 私たちは、互いの家庭で「異性として失っていた価値」を、この暗がりの中でこっそりと証明し合っていた。それは愛というより、互いのプライドを補修し合うための、利害の完全な一致だった。

 しかし、自尊心という土台の上に建てられた関係は、ほんの些細な風で無惨に崩れ去る。その歪んだバランスは時折、鋭い刃物となって美結の喉元に突きつけられた。


 ある日の夜だった。共有カレンダーの隙間を縫って重ねた密会。ホテルのベッドで、瀬戸は確かに美結を狂おしいほど求め、美結の耳元で「君だけだ」と囁いた。美結はその瞬間だけ、自分が世界で最も価値のある女であると信じることができた。彼の渇望が、美結の空っぽの自尊心を満たしていく。

 だが、自宅の冷え切ったリビングに戻り、化粧を落としていた時、スマホの画面が白く光った。瀬戸からのLINEだった。

『今日はありがとう。でも、やっぱり夜の電話は控えようと思う。嫁さんに心配かけたくないから』

 その一文を見た瞬間、美結の頭の中で、張り詰めていた何かの糸が「プツン」と音を立てて切れた。

 心配?

 誰を?

 画面の文字が、残酷な現実として美結に襲いかかる。

 さっきまで私の肌に触れ、私を「女」として貪っていたあなたが、家の玄関を一歩跨いだ途端、良き夫の顔をして「妻を心配」するのか。

 美結の指が、怒りと屈辱に震えながらフリック入力の画面を叩く。

『何でですか? さっきまで隣に私が居たのに見えなかったですか? 私は無視ですか? 奥さんが心配? 何で不倫してんの?』

『私は奥さんにヤキモチやいてもらうための道具じゃないですよ』

 送信ボタンを強く押し込んだ後、視界が急に歪んだ。涙が滲んでいた。

 悔しかった。

 私はただ、あなたにとっての「一番」である瞬間が欲しいだけなのに。あなたが「完璧な妻」のもとへ戻り、家庭という絶対領域を守ろうとするたび、私は自分が「都合の良い女」「日陰の存在」という、無価値などん底に引き戻される気がした。

 彼が妻を気遣うことは、私という存在の完全な否定に他ならなかった。

 洗面所の冷たい床に座り込み、息を殺して泣いていると、しばらくして瀬戸から返信が来た。

『本当にごめんなさい。とても後悔しています。美結さんのこと本当に愛してます。大切に思っています。』

 月並みな、そしてひどく卑怯な謝罪だった。

 普段の美結なら、あるいはまだ自尊心が残っていた頃の美結なら、「言い訳なんて聞きたくない」と突き返し、この下劣な関係を終わらせていただろう。

 けれど、美結は知っていた。

 この男が放つ「愛してます」「大切に思っています」という甘い毒こそが、今の美結の枯れ果てた細胞が最も欲している栄養素であることを。

 この安っぽい言葉を失ったら、私はまた、あの冷たい寝室で、自分が女なのか、母親なのか、あるいはただの家電製品なのかもわからない、透明人間のような存在に戻ってしまう。

 美結は、自分の誇りよりも、彼への依存が完全に勝っていることを悟り、絶望的な敗北感を味わった。

『……もういいです。でも、次はちゃんとして』

 震える指でそう送るのが精一杯だった。美結は鏡に映る、涙と崩れたメイクでぐちゃぐちゃになった自分の顔を見つめた。

 私たちは、共犯者だ。決して手に入ることはない「絶対的な価値」を、互いの嘘と裏切りの中で確認し合うための、どうしようもなく哀れな共犯者なのだ。

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