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満月

妻として、母として、そして一人の人間として。

完璧に組み上げられた生活の中で、ふと見上げた夜空に浮かぶ月は、彼女に何を問いかけたのか。


※本作には不倫・配偶者への冷めた感情など、少しほろ苦い大人の描写が含まれます。


お付き合いいただければ幸いです。

 大型の有機ELディスプレイが放つ毒々しいまでの鮮やかな色彩が、薄暗いリビングの壁に人工的な影を派手に動かしていた。画面の中では、嫌なほど目につくテロップとともに、ひな壇に並んだお笑い芸人たちが誇張された身振りで転げ回っている。

「あはは、ほんとバカだなこいつら」

 イタリア製の黒い本革ソファに深く身を沈めた夫は、手元のスマートフォンでSNSのタイムラインを機械的にスクロールしながら、画面から目を離すことなく声高に笑った。その笑い声には、心からの歓喜も、対象への共感もない。ただ、安全な高みから愚か者を眺める特権階級の、無自覚で空虚なそれでしかなかった。テレビを見ているのか、手元の画面を見ているのか、あるいはどちらも見ていないのか。美結(みゆ)には判断がつかない。ダイニングテーブルの端に座り、すっかり冷めきって濁った煎茶の入った貫入の陶器を両手で包んでいた。室温は空調によって快適なはずなのに、指先はひどく冷たい。陶器はもう室温と同じ冷たさだったけれど、手を離す気にならなかった。


 病院では、患者の顔色を読む能力が身に付いている。この人はどういう状況なのか、今夜が峠を越えるかどうか、ベッドサイドに立った瞬間に、皮膚感覚として分かる時がある。この部屋にも、長い時間をかけて、似たような気配が満ちてきていた。それが何なのかを、美結は考えないようにしていた。考えてしまったら、次の行動を選ばなくてはならなくなる。

 夫は某国立大学を出て、誰もが名を知る企業に勤めている。彼にとって人生とは、あらかじめ計算され、組み上げられたものだ。美しい妻、郊外の閑静な住宅街にある持ち家、そして健やかに育つ子供。すべては彼のステータスを飾るための無機質なトロフィーであり、美結という人間はその中でも「見栄えの良い妻」という役割を過不足なく演じるための、優秀な部品に過ぎない。


 合コンで初めて会った夜、彼は自分の仕事をよどみなく、しかし押しつけがましくなく語って、美結はその滑らかさに感心した。感心が好意に変わるまで時間はかからなかった。結婚して9年が経つ。今の美結には、あの夜の自分が別人のように思える。あの女は何を見ていたのだろう、と考える。

 その時、エプロンのポケットの中でスマートフォンが震えた。

 反射的に夫の横顔を確かめた。テレビの光が彼の無表情をちかちかと照らしている。画面の中でまた誰かが転んで、笑い声が起きた。夫は目を細めて笑った。美結はゆっくりと立ち上がり、「少し風に当たってくる」とだけ言い残して、逃げるようにベランダへと向かった。

 返事はなかった。

 ガラス戸を閉めると、笑い声が遠くなった。夜の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む。しばらくそのまま動かなかった。夜空はまだ街の光で明るくて、星はほとんど見えない。


 息子の蓮が病院に入院していた時のことだ。美結は息抜きに訪れた病院の屋上庭園から、色鮮やかな花々と青空の写真を瀬戸に送った。

『病院の屋上庭園きれいです』

 瀬戸からの返信は、美結が欲しいと思う内容であった。

『おおっ! 綺麗ですね。こんなところでゆっくり、温かいものを飲みながら本でも読みたいですね』

 本を読み、静かな時間を共有する。ビジネス書しか読まず、常に効率と利益だけを追求する夫が決して美結に与えてくれない無駄で贅沢な時間への渇望だった。瀬戸の言葉には、エリートにはない泥臭い文学性と、どこか感傷的な危うさがあった。美結は、その感性に、抗いがたい引力を感じるのだ。


 スマートフォンをエプロンから出し、震える指でロックを解除すると、暗い画面にメッセージが浮かび上がった。

『今日の月はめっちゃまんまるですね』

 瀬戸から。

 送信時刻は三分前だった。この三分間、彼は美結からの返信を待っていたのだろうか。それとも送ったことも忘れて別のことをしていたのだろうか。どちらでも構わなかった。彼の言葉が画面に表示されているというだけで、美結の体の中で何かが動き出す。止まっていた時計が、また刻み始めるような感覚だった。


 瀬戸は病院の事務職員だ。美結が勤める総合病院は規模が大きい分、医師と看護師と事務職員の間に、明確な序列というか、なにか隔たりがある。医師たちは廊下を歩く速度からして違う。自分たちが中心だと知っている人間の歩き方だ。看護師はその周囲を回りながら、血と汗と消毒液の匂いの中で摩耗していく。事務職員はまた別の場所にいる。受付の窓口や裏の静かな部屋で、コストや入院の書類、明細書などを作成したり、パソコンのキーボードを叩いたりしている。どこか別の世界を生きている人間のようだった。

 瀬戸はいつも、糊の効いた白いワイシャツに地味なネクタイをして、書類の束を抱えて廊下を歩いていた。伏し目がちで、決して目立つ男ではなかった。ところが、コストなどの書類を受け渡すためにすれ違う瞬間だけ、彼は美結と正面から目を合わせた。その奥まった暗い瞳の中に、飢えに似た何かが光るのを、美結は何度か見ていた。医師たちと目が合う時には少し表情が固くなる。自分が今どこに立っているかを、彼は絶えず意識していた。そういう人間の眼差しは、研がれた刃の光に似ている。


『ここから月が見えないです』

 打ち込んで、送った。すぐに写真が届いた。街灯の少ない暗い道から見上げたのだろう、漆黒の空に満月が浮いていた。丸くて、白くて、静かで、それでいてどこか凶暴な光を持っていた。

『こんな感じ』

『ありがとう。昨日よりはっきりしてますね』

『昨日より今日の方が月、まん丸かったんかな?』

『丸かったですよ』

 文字を打ちながら、昨夜のことを思った。


 夫には「ランニングしてくる」と言って家を出た。一言の嘘で済んだ。夫は画面から目を上げもしなかった。暗い公園の道を瀬戸と並んで走った。息が上がって、途中で立ち止まった。木の陰で呼吸を整えているふりをしていたら、彼が美結の手首を掴んだ。思っていたよりずっと強い力だった。

「美結さん」

 掠れた声で名前を呼ばれた。夫が美結を名前で呼ぶのはいつだったか、もう思い出せない。そんな相手と、9年間同じ家で暮らしてきた。

 引き寄せられた時、彼の体に熱があった。怒りと渇望が混ざったような、理性の外側にある熱だった。彼が美結に向けている感情の中に執着と、美結が必要とする何かへの欲望が混在していることを感じていた。感じながら、目を閉じた。


『昨日は美結さんしか見てなかったからなぁ』

 唇を噛む。頬が熱くなる。

『照れますね』

 それだけ返すのが精一杯だった。

『久しぶりに美結さんと走って楽しかったから、ちょっと緊張してたし、あんまり周りも見れてなかったかな』

『一緒に走るの久しぶりでしたね。全然走れませんでしたが(笑)夜走るのって気持ちいいですね』

『ホントに気持ちいいですね。美結さんとも会えて、走れて楽しかった』

『楽しかったですね』

『美結さん愛してます。また誘ってくれたら嬉しいですねー。では、おやすみなさい』

 文字を見つめた。愛してます、という5文字が、画面の中でじっとしていた。

 夫にそう言われたのはいつだったか。いや、言われたことがあったかどうかも、正確には思い出せない。彼が愛しているのは組み上げられた生活、または人生の方なのだ。洗練された部屋と、順当に育つ子供と、見栄えの良い妻という欄に収まる誰か。美結でなくても構わない枠に、美結は9年間はまり続けている。


 瀬戸の愛には棘がある。彼の言葉には、美結への純粋な渇望と、どこかの誰かへの屈折した恨みに対する仕返しのようなものが混ざっている。おそらくそのことを彼自身にも分かっていないのだと思う。美結はその棘ごと受け取っている。それが分かっていて、受け取っている。傷つくと知りながら手を伸ばすのは、その痛みによって、自分がまだ生きていることを確かめたいからかもしれない。

『誘います。瀬戸さん愛してます。おやすみなさい』

 送信して、深く息を吐いた。夜風が火照った頬を撫でていった。自宅の前を、タクシーが一台通り過ぎた。


 リビングに戻ると、夫はまだソファにいた。姿勢も変わっていない。テレビの中で誰かが転んで、また笑い声が起きた。夫も笑った。空虚で乾いた笑いだった。少なくとも美結にはそう聞こえた。

「冷えるから、もう寝るわ」

「ん」

 こちらを見なかった。

 廊下を歩きながら、この人と最後に笑い合ったのはいつだろうと考えた。心から笑い合ったのではなく、ただ同じ方向を向いて笑ったのでも構わない。どちらも思い出せなかった。

 寝室のドアをそっと開けると、常夜灯の淡い光の中に子供の寝顔があった。

 ベッドの縁に腰を下ろして、その小さな頭に触れた。柔らかく、温かく、すやすやと規則正しく息をしていた。先ほどまで高鳴っていた胸の音が、急に遠くなった。遠くなったのではなく、この子の前では鳴ってはいけない音のように感じられた。


 美結は母親だ。この子を守らなければならない。この小さな額に、自分が今ベランダでやっていたことの影を落としてはいけない。

 しかし白衣を脱いで、エプロンを外して、看護師でも母でも妻でもない時間の中に一人で立つ時、美結は何者なのだろう。看護師として十数年、生と死の境界線のそばで働いてきた。誰かの最期を看取ることも、誰かが生き延びる瞬間に立ち会うこともあった。それだけのことをくぐってきた体が、冷たく清潔なこの部屋の中で、少しずつ別の何かに変わっていく気がする。干からびていく、という言葉が浮かんで、美結はそれを打ち消した。


 横になって、目を閉じた。

 瞼の裏に、あの月があった。瀬戸が送ってきた写真の月。漆黒の空にぽっかりと浮かんで、過剰なほど丸く、静かに光を放っていた。何かを知っていて、それを言わずにいるような顔をして、こちらを見ていた。

 月は誰の話も聞かないし、誰の味方もしない。ただそこにあって、丸い。

 それで十分だ、と美結は思った。

最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。


誰の話も聞かず、ただそこにあって静かに光る「月」。

美結が最後に感じた安堵や諦念が、心に少しでも残るものとなっていれば幸いです。


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