タピオカマンゴーパフェ
どこにでもある日常の裏側に潜む、一人の女性の「言えなかった言葉」を描いたお話です。
読んでいただければ嬉しいです。
師走に入った最初の週末。街はすでに浮き足立った空気を纏い、駅前のロータリーには等間隔に街路樹が並んでいた。葉を落としたどの木にも白いLEDが巻き付けられ、冷たい風に乗ってスピーカーからクリスマス・キャロルが流れていた。すれ違う人々の吐く息は白く、どこか急ぎ足で、けれど楽しげだった。美結はそれらを視界の端に置いたまま、娘の葵の手を引いて商業施設の自動ドアをくぐった。すぐに暖房の効いた空気が人工的な甘い香りを伴って全身を包み込んでいった。
息子の蓮が小児病棟に入院して以来、美結は外界から切り離されていた。無機質な白い壁、消毒液の匂い、等間隔で鳴るモニターの電子音。美結は毎日、病院の狭いベッドサイドで硬いパイプ椅子に座り続けていた。背もたれに体重を預けることすら躊躇われるその椅子の上で、彼女は浅い眠りと深い不安を繰り返してきた。今、蓮は美結の母に連れられ、香川の実家へ戻っている。今日、数日ぶりに美結に再会した葵は、朝から美結の背中にぴたりと張り付いていた。
「娘の相手してやってくれ」
昼近くに起きてきた夫は、あくびを噛み殺しながらそう言った。休日の遅い朝。彼にとっては一週間の疲れを癒すための正当な休息なのだろう。夫はリビングのテーブルの上に、財布から抜き取った千円札を数枚、無造作に放り投げた。それだけだった。
「どこか連れてってやれよ。俺は夕方から用事があるから」
財布をズボンの後ろポケットにねじ込み、振り返りもしなかった。玄関のドアが、重く、鈍い音を立てて閉まった。部屋には再び、冷蔵庫のモーター音だけが残された。美結はテーブルに散らばった千円札を一枚ずつ拾い、財布にしまった。
「葵、何食べたい?」
目的のない買い物を終え、午後二時を過ぎた頃に尋ねると、葵は少し迷った顔でカフェのショーケースの写真を指差した。
「タピオカパフェか、マンゴーパフェ」
「じゃあ両方入ってるやつにしようか。今日は特別!」
カフェは奥まったテーブル席まで若い女性や家族連れで埋まっていた。飛び交う笑い声や食器の触れ合う音が、店内に活気を与えている。運良く奥のテーブル席に通され、美結は同じ「タピオカマンゴーパフェ」を二つ注文した。運ばれてきたパフェは、グラスの底に黒いタピオカが沈み、その上に濃厚なマンゴープリン、バニラアイス、鮮やかなオレンジ色の果肉が積み上げられていた。
「わあ!」
葵はさっきまでの不機嫌が嘘のように背筋を伸ばし、目を輝かせた。小さなスプーンを両手で握りしめ、上から丁寧に、宝物を発掘するように崩していく。葵を見ながら、美結は太いストローをくわえ、底のタピオカを吸い上げた。
甘い。頭の芯が痺れるほどに甘く、そして冷たい。
向かいに座る葵のふっくらとした頬が、マンゴーの色に染まっている。
美結は今、どんな顔をしているのだろう。休日に娘とカフェでパフェをつつき合い、ささやかな贅沢を満喫している。母親として、たぶん、笑っている。少なくともそう見える顔の筋肉の動かし方は、もう熟知している。
夕方五時。空はすでに深い藍色に沈み、西の空にわずかに赤みが残っているだけだった。駅の改札を抜け、美結は葵の手を引いて香川行きの特急に乗り込んだ。
瀬戸大橋を渡るころには外が暗くなり、坂出の工場地帯がガラスの向こうに光のかたまりとなって広がった。葵は窓に額をつけて外を見ている。美結はその横顔をぼんやりと見ていた。
地元の駅に着いた。
駅のコンコースを歩きながら、周囲の人々の輪郭が妙に鮮明に見えた。手を繋いだ恋人同士、紙袋を提げた家族連れ、マフラーに顔を埋めた高校生たち。美結は葵と手をつないで歩きながら、ふいに自分だけが透明になったような感覚を覚えた。
暗く冷え切ったリビングで一人、テレビのバラエティ番組の乾いた笑い声をだしている夫を想像した。
美結はコートのポケットからスマートフォンを取り出し、夫にLINEを打った。
『今週末は、香川の実家で過ごします』
葵に気づかれないように送信すると、駅前の広場に出た頃、端末が短く震えた。
『お疲れさまです。蓮くん、変わりないですか? よく見てやってください』
画面を見つめ、美結は微かに眉をひそめた。労っているのは蓮のことだ。彼女が彼に求めているのは「母親としての私」を讃える言葉ではない。それでも指は滑らかに動く。今度は別の相手に。
瀬戸へのLINEを開いた。
『そうですね。今、蓮は香川の実家にいます。私も今向かっているところなんです。蓮、元気って母親からは聞いてます』
あえて無難に、母性を装って返すと、瀬戸はすぐに食いついてきた。
『そうですか。子どものことを想って実家に向かっているんですね。はぁ、うちはときたら、疲れます。蓮くんは今頑張ってるのにねー』
彼の家庭への愚痴。完璧な妻の管理下で息の詰まるような子育てに追われている日常。彼はそれを自虐めいた冗談のような文体で送ってくる。
『そういえばパフェどこで食べたんですか?』
話題を変えるように尋ねてきた彼に、美結は打ち返す。
『からふねカフェです。葵がタピオカパフェとマンゴーパフェで迷ってたら、両方あるやつ見つけました』
『タピオカマンゴーパフェ。いいねー。からふねカフェ、良さそうですね。駅のあたり、あんまり行かないので新鮮です』
美結は少し笑った。休日になれば家族サービスという名の労役に服し、駅前のカフェでパフェを食べる自由すら持てない男。
『今日は電車だったので』
そこまで打ち込んで、美結の親指が止まった。
白紙のテキストボックス。カーソルが規則正しく点滅している。
喉の奥から、言葉が浮いてきた。
『本当は、すごくしんどいんです。夫は何も手伝ってくれないし、葵はわがままばかりだし。一人になると、自分が何のために生きているのか分からなくなって……瀬戸さんに、会いたいです。今すぐ、抱きしめてほしい』
入力した文字列を、美結はしばらく見つめた。七秒か、十秒か。電車のドアが閉まるアナウンスが遠くから聞こえる。同時にバス停にバスが大きなエンジン音を立てて入ってくる。
バックスペースキーを長押しした。
一文字ずつ消えていく。最後にカーソルだけが残り、冷ややかに点滅した。
バスに乗り込み一番後ろの席に座る。葵は窓際の席に座り外の景色をじっと眺めている。
『何か打ってたでしょ?』
既読がついたまま返信のこないことに気づいたのだろう、瀬戸からポップアップが来た。
美結はふっと息を吐いた。
『ただの愚痴です(笑)』
『俺への?』
『いやいや(汗)。子供です』
『あー。そういう時は早く寝るのが一番ですよ』
安堵と余裕を取り戻した、教訓めいた返信。美結は少しだけ弱さを匂わせながら、決して彼に重荷を背負わせない。その絶妙な距離を保ったまま、会話の主導権を握り続ける。
『たぶん寝れないので読書します』
『本読むと落ち着くって言いますしね。文字を読むと精神を安定させることができるという研究があるみたいです』
『暗い話読むと余計落ちます(汗)。こんな日は最後はハッピーエンドの話が良いです。短編で読み切りたいです。そしたらスッキリ』
『へー。短編ハッピーエンドって、どんなのですか?』
『あったら良いなって話です』
美結はスマホの画面を消し、コートのポケットに深く沈めた。実家へ向かうバスに揺られながら、暗い窓ガラスに映る自分の顔を見た。葵がこちらを見るがすぐに外を向いた。車内の蛍光灯が反射して、流れていく夜の景色と自分の顔が二重写しになっている。
バスが最寄りのバス停に滑り込む。ドアが開き、冷たい夜気が足元に触れた。美結は立ち上がり、コートの前をしっかりと合わせた。葵の手を握って降りる。
空を見上げると、冬の星が出ていた。
送信を取り消した文章のことは、もう考えなかった。そういうことを考え始めると、どこかが壊れてしまう気がした。距離があるから、この関係は続いている。手が届いてしまえば、凡庸な不倫劇として惨めに終わる。彼女はそれをよく知っていた。
葵が「おかあさん、寒い」と言って、コートの裾を引っ張った。
「もうすぐだよ」
美結は答え、歩き始めた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
誰かに縋りたいけれど、踏み込んでしまえばすべてが壊れてしまう。そんな危ういバランスの上で生きる美結の心境を、冬の香川へ向かう景色に重ねて描きました。
バックスペースで消された言葉は、彼女にとっての「理性の防波堤」だったのかもしれません。
もし少しでも心に残るものがありましたら、評価や感想などで応援いただけると執筆の励みになります。




