美しいひび
十二月の風が、街から体温を削いでいく。
息子の蓮が病院を退院してから、何週間が過ぎただろうか。美結の朝は、また同じ手順で始まっている。午前六時に目覚め、いつも通りのルーティーンで夫を玄関まで送り出す。夫は革靴を履きながら、今日もスマートフォンの画面をスクロールしていた。ニュースか、それとも何かのSNSか。
ドアが閉まる金属音を、廊下の冷気の中で聞いた。
悲しいとは思わなかった。怒りすらなかった。ただこの家に、自分が何かとして機能しているという感覚だけがあった。その感覚は冷たい手ざわりであった。
火曜日の昼下がり。
美結は珍しく、午前中だけの半日勤務でシフトを上がっていた。ロッカールームでナース服から黒いタートルネックに着替えていると、スマートフォンが短く震えた。
『今日、午前上がりですよね。もしよければ、少しだけ会えませんか』
瀬戸からだった。美結はカーディガンの袖に腕を通す手を止め、画面を見た。
『市外の海沿いに、小さなギャラリーカフェがあります。そこなら、知り合いに会うこともないと思うので』
「そこなら」という言葉を、一度だけ読み返した。
彼なりの配慮なのだろう。美結は返信を打ち、ロッカーの扉を閉めた。
『分かりました。向かいます』
海浜公園の手前、冬枯れした防風林に半ば隠れるようにして、その店はあった。
外壁を黒く焼いた板で張り直した古民家で、真鍮の小さな看板は注意して読もうとしなければ見過ごす。砂利の駐車場に停まっている車は、美結のものを含めて二台だった。
くすんだ真鍮のドアノブを回して中に入ると、薪の匂いと深く焙煎されたコーヒーの香りが混ざり合って鼻を突いた。
奥の窓際に、瀬戸がいた。
スーツのジャケットを脱ぐこともなく、背筋を伸ばして、湯気の立つカップに両手を添えていた。美結が椅子を引くと、彼は少し息を吐いた。安堵と、それとも何か別のものが混じっていたのかもしれない。
「……来てくれて、ありがとうございます」
美結は会釈だけをした。初老の店主がメニューを持ってきて、また奥に消えた。美結はダージリンを頼んだ。
窓の外は、鉛色の海から吹きつける風が枯れた芝の広場を横切り、細かい砂をガラスに打ちつけてすぐに消えた。
「顔が、見たかったんです」と瀬戸は言った。テーブルの上で、彼の指先が何かを探すように動いていた。「病棟で遠くから見るだけじゃなくて、こうして」
美結は彼の目の下を見ていた。皮膚の薄い部分に、青みがかった影が落ちている。仕事の蓄積だけではない質の疲れが、確かな重さを持って彼の顔に乗っていた。
「妻が最近、ピリピリしていて」
彼はうまく続けられないようだった。コーヒーカップをソーサーの上で意味なく動かし、また元の位置に戻した。
「子供のことで。僕が何か言うと……邪魔だって感じが、はっきり伝わってくるんです。家の中で、自分の言葉が宙に浮いたまま、誰にも届かない」
「具体的に、何があったの」
「息子のピアノの発表会が近くて。僕が『そんなに緊張しなくていいよ』と声をかけたら、後で別室に呼ばれました。あの子はプレッシャーをかけられると奮起するタイプだから、余計なことを言うなと」
紅茶が運ばれてきた。美結はレモンに触れず、ストレートのままカップに口をつけた。
「息子さん、いくつになったの」
「今年、八つです。ピアノ、本当に好きなんですよ」瀬戸は窓の外に目を向けた。「休みの日に、家で弾いているのを聴いていると……それだけは、本当にいいなと思って」
美結は何も言わなかった。
彼が息子の話をするとき、声の質が変わった。熱を帯びていた夜更けのメッセージとは違う、もっと柔らかい声だった。
「最近、朝起きたときにもう疲れているんです」と彼は続けた。「ちゃんと眠れていないのかもしれない。家の中で、自分がどこにいればいいのか分からなくなる感じがする。物理的な話じゃなくて」
美結はカップを両手で包み、窓の外を見た。
言葉をかけるべき場面だと分かっていた。彼が何を待っているかは、手に取るように分かった。
それでも、口を開かなかった。
トイレに立つふりをして席を立った美結は、ギャラリーの棚の前で足を止めた。
地元の作家のものだろうか。武骨な茶碗、平たい皿、首の傾いた徳利が、黒光りする壁の棚に並んでいる。
一つの湯呑みに目が留まった。白く滑らかな釉薬の表面に、極細の黒い糸を張り巡らせたような細かいひびが走っている。冬の朝、水たまりに張った氷が解け始める瞬間の模様に似ていた。
「どうしました?気になるものでもありましたか?」
気づくと、瀬戸が背後に立っていた。彼のシトラスの香りが、薪の匂いを押しのけて美結の鼻を掠めた。
美結は湯呑みを棚から取ることなく、背を向けたまま、指の腹でその冷たい表面をなぞった。
「貫入っていうんです」美結は続ける。
「焼いた後に冷えるとき、土と釉薬の縮み方が違うから、こうして無数のひびが入るんです。本当は、失敗なんです」
「失敗ですか、でも綺麗ですね」
「本当は欠陥品ですね。でも昔の人はこれを『焼きの景色』と呼んで、値打ちものにしたんです。実際、綺麗ですしね」
瀬戸は黙っていた。
「使っているうちに、お茶の色や渋みがひびの中に少しずつ染み込んで、最初は真っ白だった器が、だんだんと色づいて模様がはっきりしてくるんです。同じひびの入り方は、世界に二つとないんですよ」
「……育つ、という言い方をするんですね。感性がいいですね」
「育つという言い方をする人もいますね」
美結はゆっくりと手を離し、そのまま席に戻った。瀬戸が自分の背中を見ているのは、振り返らなくても分かった。
帰り際、レジへ向かった瀬戸が店主を呼んだ。
「あの棚にある湯呑み、包んでもらえますか。貫入の入った、白いやつ」
美結がコートのボタンを留めながら顔を上げると、彼と店主は棚の前に立っていた。
瀬戸は振り返って言った。
「美結さん、これ、買いました。持って帰ってくださいね」
美結は一瞬、断る言葉を探した。夫のいる家に、この器を持ち込むことを考えた。
口が開きかけた。
だが彼の横顔を見た。値札を確かめることもせず、「しっかり包んでください」と笑顔で店主に頼んでいる横顔を。
美結は何も言わなかった。
「ありがとうございます」
それだけ言った。
美結は会計を終えた瀬戸より先に店を出た。
冬の海から吹きつける風は、潮と細かい砂と、腐りかけた海藻の匂いを混ぜて運んでくる。美結は店のドアの前で待っていた。瀬戸が店から出てきた。
「じゃあ、また」美結が言った。
「会えて嬉しかったです」瀬戸が笑顔で言った。
美結は紙袋を下げて、コートの襟を立てて自分の車に向かって歩いた。
砂利を踏む自分の足音が、風の音の中に消えていく。
振り返ることはしなかった。
しなかったが、瀬戸がまだ店のドアの前に立ち、寒風の中で自分を見送っているだろうということは、見なくても分かった。
夜。
夕食の洗い物を片付けたキッチンで、美結はひとり、電気ケトルで湯を沸かした。
リビングから、夫が見ているスマートフォンの動画の音が漏れてくる。笑い声の効果音が過剰に混じる、軽薄な音だった。
「お茶、淹れるけど。飲む?」
返事はなかった。動画の音に掻き消されたのか、聞こえていて無視したのかは分からなかった。
美結はダイニングテーブルに座り、瀬戸に買ってもらった湯呑みに煎茶を注いだ。
木箱から出すと、その器は思ったよりも冷たかった。両手で包み込むと、煎茶の熱が陶器を通してじわじわと掌に滲みてくる。表面の無数のひびに、指の腹がひっかかる感触がある。
湯呑みの縁に口をつけた。熱いお茶が、冷え切った食道を焼くように落ちていく。
窓の外で、突風が電線を鳴らした。ヒュウウウ、という低く長い音だった。
息子のピアノの話をするときの、瀬戸の声を、美結はまだ覚えていた。
夫はソファで動画を見続けている。
美結はしばらく、湯呑みを両手で包んだまま動かなかった。
暗い窓ガラスに、自分の顔が映っている。美結はその顔を見つめた。それから、ゆっくりと目を逸らした。




