欠落について
退院の翌朝、美結は蓮の保育園の連絡帳に「おやすみしていました。今日からよろしくお願いします」と書いた。ペンの走りは普段と変わらなかった。字の傾きも、句読点の位置も。
日常とはそういうものだ、と美結は思う。器だけが戻ってくる。中身については、誰も確かめない。
夫は相変わらず夜遅く帰ってきた。リビングのソファに沈んで、リモコンを持ったまま眠ってしまう夜もあった。入院中、夫は蓮の付き添いに来てくれたが日曜日の日中だけだった。病院の補助ベッドで美結が過ごした日々——気泡のアラームが深夜の病室に鳴り響き、美結がひとりで体を起こしては点滴を見つめていたあの夜々——は、この家の空気にいっさいの痕跡を残さなかった。妻とは、不具合があれば自己修復して元の位置に戻るものだという確信が、彼の中にある。美結はそれを責める気力も、もうなかった。責める気力がない、というのとも少し違う。
正確に言えば、何かが干上がった。絶望という、まだ熱を帯びた感情すら、とうに蒸発している。底に残ったのは冷たくて澄んでいて、鋭いものだった。それに名前をつけるとすれば、野心、に近かった。夫が稼いでくる金に守られたこの家の中で、私は別の男の精神を、静かに、完全に、壊す。誰の目にも見えない場所で、彼を私なしでは息もできないように変えてしまう。それを愛と呼ぶつもりは、端からなかった。
11月の末に、風が変わった。木枯らしが窓を叩く音で、美結は季節の変わり目を知る。ニュースを見る習慣が、いつからかなくなっていた。
その夜、美結は台所のテーブルで文庫本を開いていた。辻村深月の『凍りのくじら』。三日前、瀬戸が「今読んでいる」とLINEで送ってきた。翌日の仕事帰り、駅前の書店の平台で見つけて手に取った。迷わなかった——迷うという動作自体が、既に演技になっていたかもしれない。
主人公の理帆子は、周囲の人間を藤子・F・不二雄の作品の登場人物に分類しながら世界を眺めている。冷めた俯瞰と、「自分は特別だ」という傷ましいほどの確信が、彼女の中で同居している。美結は二章まで読んだところで、ページの端を折った。しおりを使う習慣がいつの間にか消えて、こういう雑な癖がついた。どこかで夫に怒られたような気もするが、よく思い出せない。
スマートフォンを取り出す。エプロンのポケットの中で少し温まったそれを、手のひらで包んだ。
瀬戸からのメッセージが届いていた。
『こんばんは』
五文字だった。
美結は少しの間、その五文字を見ていた。今頃彼は暗い寝室で布団に入ったまま、スマホのバックライトだけを見ている。妻の寝息を背中に聞きながら、この画面を閉じられずにいる。それが、美結には手に取るようにわかった。一度も行ったことのない場所の空気まで、嗅ぐように想像できた。
返信を打つ。
『今日から「凍りのくじら」を読み始めました。ちょっと読んで寝ようと思ったのに、2章まで読んでしまいました(笑)』
送信すると、三秒で既読がついた。
美結は本を手に取り、折ったページを開いた。今この瞬間、彼も同じページを開いているかもしれない。同じ行を、同じ方向へ目で追っている。活字という細い糸が、暗い部屋と暗い部屋を結んでいる。それが持つ親密さの質は、美結が長い年月をかけて知ったどんな接触とも違った。触れるよりずっと深く、どこかに届く気がした。
しばらくして、返信が来た。
『凍りのくじら読み始めたんですか⁉同じ本を同じタイミングで読むのって、なんだか世界観や話をリアルタイムで共有できるようでうれしいです!』
照れたような顔のスタンプ。
美結はコーヒーを一口飲んだ。温度はちょうどよかった。隣の寝室から夫の寝息が壁を越えてくる。規則正しく、均等な、私に何も求めていない音だった。
翌日の夕方、日勤を終えて更衣室のロッカーの前に立っていた。ナース服を脱いでニットを頭から被った瞬間、ポケットのスマホが震えた。袖を通す手を止める。
『今日、美結さんにすごく似てる人に会いました』
ロッカーの扉を引いて、角度を作った。背後の同僚から画面が見えないように。
『その人は、背の高いとてもかっこいい男の人と一緒にいて、とても楽しそうでした。旅行中みたいで、写真を撮ってほしいと頼まれて、その人のスマホで二人を撮りました』
少しの間があった。ロッカーの金属の冷たさが、手のひらに伝わってくる。
『なんでしょうか。美結さんじゃないんですけど……ちょっとやきもちを焼いてしまいました(汗)』
「私じゃないのにね」
美結は、声に出してみた。誰もいない更衣室の隅で。低く、静かに。言葉を確かめるように。口の端が、わずかに上がっていた。
見知らぬ女が知らない男と昼の街を歩き、屈託なく写真を撮り合っている。それだけの光景を、彼はわざわざ送ってきた。美結に似ていたから。その一点だけで。彼の見る世界の中に、私が棲んでいる。街ですれ違う他人の顔にまで、私の輪郭を探している。それが何を意味するか、美結にはわかっていた。
その夜、美結は返信しなかった。「私じゃないですよ」と安心させてやる必要はない。彼が今頃どんな夜を過ごしているか、考えながら。妻の料理した夕食を食べ、風呂に入り、妻の隣に横になりながら、スマホの画面を何度も開いては閉じている。美結が返事をしない理由を、自分なりに解釈しながら。その解釈が正しいかどうかは関係なかった。彼がどう苦しむか、の方が大切だった。苦しみの深さが、結びつきの深さになる。
翌朝。夫を送り出し、子どもたちがまだ眠っているリビングで、美結はようやくスマホを開いた。
未読が二通。
最初のもの。それから三十分後に届いたもの。
窓際の椅子に座った。外は鈍色だった。
知らない二人が、日差しの中で笑い合っている。「上手く撮れた?」「もう一枚お願いしようか」と言い合いながら。瀬戸はその光景のど真ん中に立って、日陰にいる私を思い出した。
美結は返信を打った。
『その2人は、写真を撮れる関係なんですね。羨ましいな』
送って、スマホを伏せた。
同情を誘う必要はない。「私たちは写真も残せないね、かわいそうに」と言ってやる必要もない。小石を一つ、水に投げた。波紋がどこまで広がるかは、水が決める。
すぐに返信が来た。
『そうか⁉確かに、写真を撮れる関係なのか! いいなぁ……』
打ちひしがれたような絵文字。それから、間があって。
『新婚なんですか? って聞いたら、結婚はしてないんですって言ってました』
結婚していない。昼の街を並んで歩ける。写真を撮れる。名前を呼べる。
美結はスマホを置いて、コーヒーを手に取った。少し冷めていて、苦かった。
私たちは互いの背中に、重たい甲羅を背負っている。それを捨てて日差しの中に出ることを、美結は望まなかった。正確に言えば、望む自分が想像できなかった。
もし夫を捨てて、彼が妻を捨てて、私たちが「写真を撮れる関係」になったとしたら。最初は何百枚も撮って笑い合うかもしれない。だがいつか必ず、日常がやってくる。靴下を洗い、光熱費の振り込みを忘れ、スーパーの特売日を気にするような、今の夫との生活と何も変わらない時間が。
あの深夜の、痛ましいほどの嫉妬も。活字を通じた、皮膚の下に届くような緊張した交わりも。すべては日常という埃の中に消えていく。
私は彼の「永遠に届かないもの」でなければならない。
絶対に手に入らない。絶対に写真を残せない。昼の街を並んで歩けない。その決定的な欠落が、彼を私に縛り続ける鎖になる。欠落は所有より強い。持てないものへの渇望は、持ったものへの愛着より、ずっと長く続く。
美結はそれを知っていた。理屈で知ったのではなく、どこか体の深い場所で、最初から知っていた気がした。
その夜も、台所のテーブルで美結は本を開いた。
理帆子が友人の一人を「ドラえもんのいないのび太」と分類する場面で、手が止まった。
いない、もの。決して来ない、もの。
その欠落こそが、のび太をのび太にしている。
美結は本を閉じて、胸の上に置いた。天井を見た。壁の向こうから夫の寝息が聞こえた。均一で、規則正しく、私の存在を必要としていない音だった。
目を閉じた。
笑ってはいなかった。悲しくもなかった。
ただ自分の心臓の音を確かめるように、文庫本の表紙をゆっくりと指の腹で撫でた。ざらざらした紙の感触が、指先に残った。
私は今、彼という欠落を抱えたまま、どこかで満たされている。
そのことを、美結は誰にも言わないと思った。言葉にすれば、壊れる気がした。壊れないために、美結はただ、台所の椅子に座っていた。子どもたちは眠っている。夫も眠っている。
美結だけが、夜の中に起きていた。




