眠れない夜
手術室の扉が開いた。無機質なストレッチャーが廊下に押し出されてくる。その上に、蓮がいた。まだ眠っていた。長いまつ毛が、血の引いた頬に影を落とし、透明な酸素マスクの縁から、細い首筋が伸びている。
美結は気づいたときには駆け寄って、息子の指先に触れていた。汗と消毒液の匂い。でも、その小さな手には熱があった。
「お母さん、ここでは触れないでくださいね」
緑の術衣の看護師に制され、美結はビクッと手を引いた。
そうだ。私は今日、看護師ではない。
病院の手術室エリアは、去年リニューアルされたばかりだった。廊下が広い。天井が高い。壁には現代アートが飾られていた。いったい誰の、何を癒やせるのか。
待合の椅子だけは、どこの病院も変わらなかった。美結はその冷たい合成皮革の上に、三時間と十七分、一人で座っていた。壁の時計を何度仰いでも、分針はほとんど動いていなかった。その時間の中で、美結は何度も最悪の事態を想像し、一人で震えた。
夫は来なかった。「終わったら連絡しろ」という一文だけを残しただけだった。
術後の経過は、拍子抜けするほど良好だった。
夕方には完全に覚醒し、主治医が帰るなり、蓮は「おなかすいた」と泣きそうな声で言いはじめた。一度言いはじめると、止まらなかった。
「明日になれば、お水も飲めるし、ゼリーも食べられるから」
「でも」
「明日まで我慢しようね」
「でも、のど、かわいた。いたい……」
美結は窓の外に目を逸らした。夕景が、四角い窓枠に切り取られている。ビルの窓、車のテールランプ。あの光の一つ一つに、帰りを待つ誰かがいる。蓮の父親も今ごろ、あの光のどこかにいるはずだった。息子が今夜どんな夜を過ごしているかなど、考えてもいないだろう。
泣き疲れた蓮がまどろみはじめてから、美結はLINEを打った。
『手術は無事終了。術後の経過良好』
三分後、振動した。
『了解。お疲れ』
美結はその6文字を2秒間、無表情で見つめ、画面を伏せた。
分かっていたことだ。もう何年も前から、そういう人間だと知っていた。自分の子どもが全身麻酔の手術を終えたというのに、電話一本かけてこない。彼にとって家族の病気は「妻の担当業務」であり、自分は報告を受けるだけの「上司」だった。
でも、あのたった6文字は――すでに知っているからこそ――美結の胸の最も柔らかい場所を正確に刺した。
小児病棟の消灯は9時だった。蓮が寝入ったのを確認してから、美結は窓際の補助ベッドに横になった。硬い。金属の骨組みが体の輪郭を主張してくる。天井の誘導灯が、緑色の光をぼんやり放っていた。枕は薄く、自分の呼吸の音が妙に大きく聞こえた。目を閉じた。
ピー、ピー、ピー。
静寂を引き裂く電子音に、美結は反射的に起き上がった。
輸液ポンプの赤いランプが点滅している。液晶に〈気泡検知〉。
蓮の腕を見ると、透明なルートが捻れて滴下筒が逆さになっていた。寝相は分かっていた。術前に「よく動くから固定を工夫してほしい」と伝えておくべきだったと、今さら悔やむ。
ポンプのパネルに手を伸ばしかけて、指先が宙で止まった。ここは私の職場ではない。看護師である自分が、この場でこれほど不自由であることに苦い気持ちを覚えながら、美結はナースコールを押した。
「はい、どうされましたか」
「点滴が気泡で鳴っています」
「すぐ行きます」
数分後、静かにドアを開けて入ってきた夜勤の看護師は、若い女性だった。美結より5つ、6つ、若いかもしれない。
彼女は蓮を起こさないよう素早くポンプを開け、チューブを指先で弾いて気泡を逃がし、液面を確認して閉める。一分もかからなかった。手慣れていた。
ああ、自分も夜勤のときはあの顔をしているな、と美結は思った。深夜のナースコールに応じるときの、疲労も苛立ちも一切表に出さない、あの完璧な顔を。
「寝相が悪くて、すみません」
「大丈夫ですよ。また鳴ったら、遠慮なく」
彼女は静かに微笑み、出ていった。
その背中を見送りながら、美結は自分が「ありがとうございます」と一度も言えなかったことに気づいた。
補助ベッドに戻ると、枕元のスマホに通知が来ていた。瀬戸からだった。
『お疲れ様です。オペどうでした?」
美結は膝を立て、蓮の寝顔にスマホの光が届かないよう壁側へ体を向けてから、フリック入力を始めた。
『病院のオペ室、新しくて広くて。キョロキョロしてしまいました(笑)。オペは無事終わりました』
少し考えてから、続けた。
『蓮は喉は痛くないみたいです。でも絶飲食が嫌らしくて、ずっとぐずぐず言ってました』
返信は、驚くほど早かった。
『経過良さそうで良かったです。お腹すくんですね(笑)元気な証拠ですね。病院のオペ室、一回見てみたいな』
美結は、自分が暗闇の中で少し笑っていることに気づいた。夫の『了解。お疲れ』と、瀬戸のメッセージ。情報量としてはどちらも無事に終わったことへの反応だ。なのに、手触りが全然違う。何が違うのかを言葉にしようとして、美結はすぐにやめた。言葉にしてしまうと、今の自分のいびつな形を直視することになりそうで、怖かった。
『何か飲みたいって言うんです。点滴してたらお腹空かないんだと思ってました』
『僕も小6の時に入院して点滴したことがあって。不思議とお腹すきませんでした』
美結は蓮の腕から伸びるルートを見上げた。透明なチューブの中を、一定の速度で落ちていく輸液。彼も小学生の頃、細い腕に点滴を刺されて、病室のベッドで眠っていたことがあるのだ。
そう思うと、少年の瀬戸の輪郭が頭の中に勝手に浮かんだ。少し臆病で、でも強がりで、一人でベッドの上の時間をやり過ごしている小さな彼の姿が。
『点滴がよく気泡でピーピー鳴ります。さっきも夜勤の方に来てもらいました。瀬戸さんも、こういうことあったのかな、って』
送信したあと、美結は少し恥ずかしくなった。夫への連絡事項なら3秒で終わるのに。離れた場所にいる別の男の仕事ぶりを想像している。
でも、消せなかった。消したくなかった。
『僕は血が点滴の管に逆流してナースステーションにこれ大丈夫なんですか?って夜中に聞きに行ったことを覚えてる笑』
瀬戸からは、柔らかく微笑むスタンプが続いた。
ピー、ピー、ピー。
再び鳴った。
蓮が腕を頭の上に放り投げた体勢で眠っている。ルートがピンと張り、また空気を噛んでいた。
美結は重い体を起こす。補助ベッドが、ギシッと情けない音を立てた。
同じ看護師がやってきて、同じ手順で気泡を抜いていく。頭を下げるだけで「すみません」の言葉すら、うまく出てこなかった。看護師が出ていったあと、美結は逃げるようにスマホを開く。
『また鳴りました。寝相が悪くて。なかなか寝れないです』
瀬戸からは、すぐに返事が来た。
『大変ですね。家じゃないですし、なかなかぐっすりは寝られないでしょうね』
美結は文字を眺めながら、心の中でつぶやいた。そうじゃない。家でも、眠れない夜はあったのだ。広くて快適なベッドの中で、背中を向けて眠る夫を見ながら、何も言えないまま、自分の輪郭が溶けていくような感覚に怯えて夜を明かしたことが、何度もあった。眠れないのは、病院の環境のせいじゃない。ここには私を助けてくれる人間が自分一人しかいないからだ。蓮の痛みも、夜泣きも、アラームへの対応も、全部私一人が引き受けている。その孤独の重さが、眠りを遠ざけている。
でも、彼がこうしてリアルタイムで言葉を返してくれるだけで、美結は水面から顔を出して、深く息を吸い込むことができる。
『明日は旦那と交代なので、家でゆっくり寝ます。瀬戸さんも休んでください。おやすみなさい』
少しの間があった。
『そうですか。眠れないのは辛いですね。明日、家でゆっくりしてください。とっても大好きです。おやすみなさい』
美結はしばらく、その「大好き」という三文字の光を、網膜に焼き付けるように見ていた。
『私も大好きです。おやすみなさい』
送信した。画面が暗くなり、病室は再び完全な闇に包まれた。
輸液ポンプの「ジー……ジー……」という作動音だけが、一定のリズムで続いている。蓮は眉間の皺を解き、深く安らかな呼吸をしている。窓の向こうには、市街地の夜景が静かに広がっていた。美結はスマホを胸の上に置いて、天井の緑色の誘導灯を見上げた。手のひらに、長時間握りしめていたスマホの熱が残っている。
明日になれば、夫が病室にやってくる。エレベーターを降りて、廊下を歩いて、引き戸をガラリと開けるだろう。そしてスマホを見ながら「お疲れ」と一言だけ言うか、あるいはそれすら言わずに「で、何すればいい?」と聞くか。どちらでも、もう同じだ。夫との間には、愛も、期待も、絶望すらも、とうの昔に干上がっている。残っているのは「生活」という名の慣性だけで、誰かが止めるまで動き続けるだけだ。子どもの送迎、食事の時間。でも、この四角い画面の中には、夜更けに「大好きだ」と言ってくれる男がいる。美結はゆっくりと目を閉じた。それがどれほどいびつな関係であっても、今夜この孤独な病室で、気泡のアラームが鳴るたびに彼の言葉を待ちわびていた。血の通った一人の女として、生きていた。
ピー、という警告音は、もう鳴らない。硬いベッドの上で眠れそうにはなかった。でも、今夜は眠れなくても、いいかもしれない、と美結は思った。胸の上のスマホの熱が、心臓の鼓動と重なって、静かに、確かに波打っていた。




