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サンクチュアリ

 夫婦関係の冷え込みと、それに伴う心の揺れ動きを描いたお話です。

 配偶者のモラハラや、不倫を仄めかすような描写が含まれます。苦手な方はご注意ください。

 二月。美結みゆは、冷え切ったキッチンで一人、コーヒーを淹れていた。旦那の好きなバルミューダのコーヒーメーカー。電源を入れるとピローンとやたら丸みを帯びた上品な音が鳴る。抽出ボタンを押すとチクタク、チクタクとメトロノームのような音が響く。リラックスしてコーヒーを飲みたいだけなのに、一糸乱れぬ演奏を要求されているような緊張感を強いてくる。

 棚にあるコーヒーカップに手を伸ばした瞬間、左手薬指にズキッとした痛みが走った。職場で機材を移動させる際に挟んでしまい、紫色に変色して腫れ上がってしまったのだ。

 夫はバルミューダのコーヒーメーカーを毎月欠かさず丁寧にメンテナンスを行う。少しでも傷がつけば不機嫌になるくせに、自分の妻の指が腫れ上がっていても一秒以上の関心を払わなかった。

 ズキズキと脈打つ痛みは、時間が経つごとに増していく。美結は看護師をしている。点滴の準備や患者さんの体位変換でさえもこの指ではまともにできない。師長には明日受診してきなさいとは言われたけれど、自分の不注意で起こしたことである。病棟に迷惑をかけてしまって申し訳がなかった。そんな痛みと病棟への申し訳なさで気落ちしていたのに、帰宅直後に夫に見せた時の反応はあまりにも冷ややかだった。

「うわ、すごい色」 

 夫は一瞥しただけで、視線をすぐにスマホに戻した。

「折れているかもしれないから、明日病院に行こうと思うんだけど」

「そんなん、俺に言われても知らんがな。自分で判断しろよ。大げさだな」

 それだけだった。夫の親指が滑らかにスクロールを続ける。スマホの画面には、どうでもいいゴシップ記事の見出しが映し出されていた。私の指は、その画面のピクセル以下の価値しかないのだと思い知らされる。何か言い返そうと開いた口からは声が出なかった。反論する気力すら、この数年ですっかり削ぎ落とされてしまった。

 心配の言葉も、家事の代行の申し出もない。

 チクタクという抽出音が止まった。サーバーからカップに注いだコーヒーからは芳醇な香りが漂っていた。夫に持っていくが何も言わない。夫の好みに合わせた深煎りの豆は、私にはただ苦いだけだ。冷めていくコーヒーを見つめながら、夫との関係も少しずつ熱を失っていったのだとぼんやり考えた。

 リビングのソファでは、夫が背中を向けてテレビを見ている。画面の中の芸人が大声を上げると、夫は手をたたいて笑っている。普通の家庭では平和で幸せな空間なのであろうが、今の美結にとって暴力のように頭に響いて変になりそうだった。

 夫にとって私は、家事と育児の「機能」でしかないのだ。機能が多少故障したところで、代わりを探せば問題ないのだろうか。そんなことはないと思いたいのだけれど。

 私たち夫婦は、離婚届という紙切れ一枚を出していないだけで、実際はシェアハウスの同居人以下なのかもしれない。

 二階の子供部屋では双子の子どもが仲良く眠っている。子供たちの前では、普通のお父さんとお母さんを演じきらなければならない。子供の寝顔を見るたびに、子どものために家庭を維持しなければならないと思う。けれど、その考えも言い訳にすぎないのかもしれない。今の私には離婚という膨大なエネルギーを消費する気力すら、残っていないのだと思う。

 ふと、胸の奥が乾く音がした。

 ぜいたくな暮らしがしたいわけじゃない。ただ、「大丈夫?」と自分を心配した顔で見て欲しい。ガラス細工を扱うように、大事にされたい。

 そんなふうに接してくれる資格が、私にはないのだろうか。

 ポケットの中でスマホが短く震えた。

 美結は洗面所へと移動し、鍵をかけた。画面には「瀬戸」という名前が表示されている。彼は同じ病院で働く事務職員だ。特別に頼り甲斐があるわけでも、完璧な男というわけでもない。むしろ不器用で優柔不断なところがある人だ。けれど、彼のその隙がなんだか安心できた。震える右手の指でパスコードを入力し、トーク画面を開く。

「指、大丈夫ですか?色が変わってるってLINEで言ってたけど、心配です。もしかしたらひびが入っているかもしれません。仕事なんて休んで。絶対に明日、整形外科に受診してください」

 夫が「知らんがな」と切り捨てた指を、こんなにも必死で心配してくれている。

(ああ、私は。)

 美結は鏡の中の自分を見つめた。

 私は、自分が誰かにとって大事な存在なんだという実感が欲しかっただけ。痛み止めよりも、この数行のテキストの方がよほど効く。

 これは不倫ではない。美結は自分に言い聞かせた。私が私として保ち続けるために必要なことなのだ。

 最後までお読みいただき、ありがとうございます。

 日常の中で少しずつすり減っていく心と、ふとした瞬間に差し伸べられた不器用な優しさ。その温度差を描きたいと思い、このお話を書きました。

 楽しんでいただけましたら、ページ下部より評価(★)やブックマークをいただけますと、今後の執筆の大きな励みになります。

 よろしくお願いいたします。

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