「君は可愛げのない仕事人間だ」と婚約破棄されたので、残業代未払いの領地を捨てました。〜冷徹公爵様が「その有能さを俺にくれ」と執務室に監禁(溺愛)してくるのですが〜
「オルタンシア、君との婚約は今日限りで破棄させてもらう」
王都の屋敷、執務室。
書類の山に埋もれるようにしてペンを走らせていた私は、その言葉に顔を上げた。
目の前に立っているのは、婚約者であるジェラール・モンフォール次期伯爵。
その隣には、ピンクブロンドのふわふわとした髪をした少女が、彼の腕にこれ見よがしにしがみついている。
「……理由を伺っても?」
「君には『可愛げ』というものが致命的に欠けているからだ! 見ろ、このミミを。彼女はいつも俺を癒やしてくれる。だが君はどうだ? 会えば予算だの、治水工事の進捗だの、小言ばかりじゃないか」
ジェラールは勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
私はゆっくりとペンを置き、指についたインクを拭う。
怒りも、悲しみも湧いてこない。
あるのはただ、底知れぬ「徒労感」と、そこから解放されることへの「安堵」だけだった。
「そうですか。……承知いたしました」
「は……?」
「婚約破棄、謹んでお受けいたします。慰謝料は結構です。その代わり、今この瞬間をもって、私はモンフォール家に関する一切の業務から手を引かせていただきます」
私は立ち上がり、椅子にかけていたショールを手に取った。
あまりにあっさりとした反応に、ジェラールは拍子抜けした顔をしている。隣のミミと呼ばれた少女が「やっぱりお姉様は冷たいですねぇ」とくすくす笑った。
「ああ、せいぜい強がるといい。どうせ泣きついてくるに決まっている。お前のような無愛想な女、貰い手などないからな!」
「ご心配には及びません。では、お達者で」
私は一礼すると、一度も振り返ることなく執務室を出た。
机の上には、未決裁の書類の山。
そして、私が五年間かけて構築し、暗号化魔法をかけて管理していた『領地経営マニュアル兼魔導鍵』だけが残された。
――さようなら、私の青春。
そして、地獄へようこそ、ジェラール様。
***
屋敷を出て、辻馬車を拾おうと大通りに出たときだった。
一台の漆黒の馬車が、私の目の前で音もなく停車した。
王家の紋章である「双頭の鷲」と、アークライド公爵家の「氷狼」の紋章。
御者がうやうやしく扉を開ける。
「乗りたまえ、オルタンシア嬢」
車内から響いたのは、低く、鼓膜を震わせるようなバリトンボイスだった。
私は息を呑む。
そこに座っていたのは、現国王陛下の弟君であり、宰相を務めるヴィクトル・ヴァン・アークライド公爵その人だったのだ。
冷徹、冷酷、合理の化身。
社交界で『氷の公爵』と恐れられる彼が、なぜ。
「閣下……? なぜ、こちらに」
「君がフリーになったという情報を得たのでな。迎えに来た」
「は……?」
情報の伝達速度がおかしい。婚約破棄からまだ十分も経っていないはずだ。
ヴィクトル様は長い足を組み替え、赤い瞳で私を射抜いた。
獲物を狙う肉食獣の目だ。
「単刀直入に言おう。我が公爵家に来い」
「へ……?」
「君の事務処理能力、危機管理能力、そしてあの馬鹿の尻拭いを完璧にこなしていた忍耐力。すべて以前から評価していた。欲しくてたまらなかった」
彼は白い手袋をはめた手を差し出す。
「あの男には過ぎた宝だと思っていたが……ようやく捨ててくれたか。感謝したいくらいだ」
「あ、あの、それは雇用契約のお話でしょうか?」
「求婚だ」
思考が停止した。
きゅうこん。求婚。プロポーズ?
氷の公爵が? 私のような地味な女に?
「い、意味がわかりません! 私はただの事務屋のようなもので……」
「自覚がないのが君の唯一の欠点だな。……まあいい。まずは契約からで構わない。君の能力に対する対価は、君が望むだけ払おう。金も、地位も、平穏も。そして、あの男への復讐も」
彼の唇が、嗜虐的な弧を描く。
その美しさと迫力に、私は抗う術を持たなかった。
***
それからの三日間は、怒涛だった。
私はアークライド公爵邸の、最高級の客室を与えられた。
仕事をしなくていい、と言われたが、性分なので「何か手伝わせてください」と頼むと、ヴィクトル様は嬉々としてご自身の執務室に私専用の机を用意した。
驚くほど仕事がしやすかった。
ヴィクトル様は優秀だ。私の意図を一瞬で理解し、最適な判断を下す。
ジェラールのように「あとで読む」と言って書類をワインで汚すこともないし、「わからないから君がやっておいて」と丸投げすることもない。
「素晴らしいな、オルタンシア。君の要約のおかげで、今日の業務が午前中で終わってしまった」
「閣下の決断が早いからです。……あの、近すぎませんか?」
いつの間にか、ヴィクトル様が私の背後に立ち、椅子ごと抱き込むようにして書類を覗き込んでいる。
彼の体温と、高級なコロンの香りが包み込んでくる。
「君が優秀すぎて、離したくないんだ」
「仕事の話ですよね?」
「いいや。君自身のことだ」
耳元で囁かれ、背筋がぞくりと震える。
今まで「便利屋」としか扱われなかった私にとって、この甘い窒息感は劇薬だった。
その時。
執務室の扉が、ノックもなしに乱暴に開かれた。
「オルタンシア! ここにいるのはわかっているんだぞ!!」
怒鳴り込んできたのは、顔を真っ赤にしたジェラールだった。
服は着崩れ、目の下には濃い隈がある。
後ろから衛兵が慌てて止めに入ろうとするが、ヴィクトル様が片手で制した。
「……何の用だ、モンフォール次期伯爵。私の『婚約者』に対し、礼儀を欠く振る舞いだが」
「こ、婚約者だと!? ふざけるな! そいつは俺の婚約者だ!」
「三日前に破棄したと聞いたが?」
「撤回する! 今すぐだ! おいオルタンシア、早く戻ってこい!」
ジェラールは私に向かって手を伸ばそうとするが、ヴィクトル様がその前に立ちはだかった。
冷ややかな殺気が、部屋の温度を一気に下げる。
「ひっ……」
「理由を聞こうか。なぜ撤回するなどと虫のいいことを?」
ジェラールは脂汗を流しながら喚いた。
「しょ、書類が! 金庫が開かないんだ! 予算の承認印も、領地の結界魔導具の更新も、何もかも動かない! ミミには何もできないんだ! オルタンシアが何か細工をしたに違いない!」
私はヴィクトル様の背中越しに、冷めた声で告げた。
「細工などしていません。ただ、認証登録を解除しただけです」
「な、なんだと?」
「モンフォール家の重要書類や金庫、結界の維持には、魔力認証が必要なのはご存知ですよね? 当主であるお父様が病に伏せってから、その全ての権限を『代理』として私の魔力で登録し直していたんです。貴方が面倒くさがって、魔力登録の儀式をサボり続けたから」
ジェラールの顔が青ざめる。
「婚約破棄に伴い、私はモンフォール家の人間ではなくなりました。当然、セキュリティの観点から私の生体魔力情報は全て削除しました。……まさか、自分では何もできないのに、私を追い出したのですか?」
正論にして、致命的な事実。
ジェラールはその場に崩れ落ちた。
「そ、そんな……じゃあ、今溜まっている決裁は……明日切れる堤防の予算は……」
「全て貴方の責任です。頑張ってくださいね」
「待ってくれ! やり直そう! 愛しているんだオルタンシア! ミミなんてただの遊びで……」
這いつくばろうとするジェラールの頭上で、ヴィクトル様が冷酷に言い放った。
「衛兵。この不法侵入者を摘み出せ。……それから、モンフォール家の領地管理不備について、監査局へ調査命令を出しておけ。領民に被害が出る前に、国が一時管理とする」
「はっ!」
衛兵たちに引きずられていくジェラールの情けない叫び声が遠ざかっていく。
静寂が戻った執務室で、ヴィクトル様が振り返った。
その瞳は、先ほどまでの氷のような冷たさが嘘のように、熱く溶けていた。
「これで、邪魔者はいなくなったな」
「……容赦がないですね」
「君を守るためなら、国の一つくらい傾けても構わないさ」
彼は私の手を取り、その甲に口づけを落とす。
「オルタンシア。私は君の能力を愛しているんじゃない。その能力を持ちながら、誰にも評価されずとも歯を食いしばって立っていた、君の魂を愛しているんだ」
「っ……」
「これからは、私の隣で咲いてくれ。仕事も二人で、人生も二人で。……もう、逃がさないからな」
その強引で甘美な瞳に、私は初めて、仕事の達成感とは違う、胸の高鳴りを覚えた。
「……お手柔らかにお願いします、閣下」
「善処しよう。だが、覚悟はしておくように」
氷の公爵様が、太陽のように笑った。
私の新しい「業務」は、この独占欲の強い旦那様の愛を受け止めることになりそうだ。
それはきっと、あの書類の山よりもずっと、やりがいのある難題に違いない。
最後までお読みいただきありがとうございました!
「スッキリした!」「公爵様の溺愛最高!」と思っていただけたら、
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