第一幕 現実か想像か
それから二日後が経った、この街で最も大きく、最も古い劇場のルーメンフォード大歌劇場は初日公演という事も相まってか、たくさんの紳士淑女で賑わっている。
三階建ての壮麗な建物の外壁は、道路のガス灯に照らされ、霧の中に金色の装飾がぼんやりと浮かび上がっていた。
馬車から降りたエレナは、思わず息を呑む。
「……わあ。いつ見ても素敵ね」
「建築様式は新古典主義だ。劇場の天井にはこの街出身の油絵師ハルツェンの“大天使の調べ”が描かれている」
「ヴィクトル、なんでそんなに詳しいの?」
「本で読んだだけだ」
隣のヴィクトルは、いつもの服装ではなく、正装している。
黒手袋のまま、建物をじっと見上げている。
「まあ、建築としては合理性に欠ける。だが——視覚効果は優れているな」
「褒めてるんだか貶してるんだか分かんないよ」
観客たちは、豪華なドレスと燕尾服を揺らしながら劇場内へ流れ込む。
劇場の中のシャンデリアの光や会話が重なり、ここだけ街の霧が薄く感じられた。
ヴィクトルはエレナの手を引きながら人の波を掻き分けて進む。
ホールに足を踏み入れた瞬間、エレナの視界に広がったのは、あまりに眩い光の海だった。
「眩しい…」
巨大なシャンデリアが幾つも吊るされ、その一つ一つがクリスタルの花のように輝き、観客の衣装に反射して虹色の光を散らしている。
曲線を多用したバルコニー、天井を縁取る金の文様、赤い絨毯の深い色合い、磨かれた大理石の床、天井に咲く壮麗なフレスコ画……すべてが非日常そのものだった。
「すごい……こんなに人が集まってるなんて」
エレナが目を丸くすれば、ヴィクトルは軽く周囲を観察してから言った。
「初日公演は常に満席だ。今日の演目の主演歌手、アマリリス・ヴェインは近年まれに見る才能らしい」
「また読んだのね?」
「そうだ、読んだだけだ」
さらりと返す口調はそっけないが、エレナの手を引く力は、混雑した場内でも絶対に離れないよう気遣っているようだった。
客席へ向かう通路は、人々の話し声で満ちていた。
金色の灯りが壁の鏡に反射して、すれ違う紳士淑女たちの顔を一瞬だけ照らす。周囲からはドレスの裾が擦れる音、舞台の下見に来た批評家たちの低い声、香水とワインの混ざった濃い香りが漂ってくる。
ヴィクトルは人混みを冷静に観察しつつ、エレナを人の流れから外れないよう軽く導く。
二階バルコニーへと続く階段は、フロアよりずっと静かだった。下から響くざわめきが遠くなり、代わりに天井近くの装飾の細部がよく見える。金の唐草模様、彫像の柔らかな陰影、壁に掲げられた歴代歌姫たちの肖像画。
「ほら、足元を見ろ。階段の縁が暗い」
「……ありがとう。ねえ、今夜の演目って“黒薔薇の誓い”でしょ?わたし初めて観るんだけど、どんな話なの?」
「革命時代の悲劇だ。主人公は無実の罪で捕らえられた青年。処刑前夜に恋人へ——」
そこでヴィクトルの言葉はふっと途切れた、そしてポケットからチケットを取り出してじっと見つめる。
「席は、ここだ」
やがて指定されたバルコニー席に到着し、二人は並んで座る。
赤いビロードの椅子はふかふかで、エレナが腰を下ろすとわずかに沈む。欄干には金の細工、そこから見える舞台はまるで宝石箱の底のようにきらめいていた。
「わあ……すごくよく見えるね」
「視界は完璧だ」
ヴィクトルも珍しく満足そうに言う。
場内のざわめきが少しずつ落ち着き、客席の照明がゆっくりと暗くなりはじめた。舞台の幕の向こうから、調律の音がわずかに聞こえる。
エレナが小声で尋ねる。
「さっきの続き、“黒薔薇の誓い”ってどういう話なの?」
ヴィクトルは姿勢を正し、声を抑えて語りはじめる。
「革命で混乱した時代、無実の罪で捕らえられた青年アリステルが主人公だ。彼は処刑前夜、恋人のリリィに最後の誓いを残す。——黒薔薇の紋章のついた指輪を託して」
「指輪……」
「二人は『必ず再会する』と約束する。だがその約束が、後半で予想外の真相に繋がっていく。劇場で詳しく話すとネタバレになる」
「なんで…」
エレナが言いかけた瞬間、後ろから大げさに腕を広げる影が迫ってきた。
「おっ、来たな探偵諸君!」
金髪をかき上げたライナス・ハーゼ警部が、無精髭をさすりながら笑っている。
「招待したのは俺だけど……まさか本当に来るとは」
「……チケットを使わないのは失礼だろう。」
ヴィクトルが淡々と答える。
エレナは呆れ気味に腕を組む。
「ハーゼ警部、相変わらず適当な挨拶ですね」
ライナスは肩をすくめ、にやりと笑った。
「ははっ、堅いこと言うなよエレナ嬢。こういう日は気楽に楽しむのが礼儀ってもんだ。……おっと」
彼は自分の胸元のブローチを直しながら、周囲をちらりと眺める。
人々の視線がちらちらと向くのは、彼が警察の制服に準じた礼服を着ているせいだろう。普段から存在感が強い男だが、今夜はさらに目立っていた。
「まあ、初日は何かと事件が起きやすい。仕事柄つい警戒してしまってな」
「じゃあ来なければよかったんじゃ……」
「いやいや!せっかくの初日公演だぞ?あのアマリリス・ヴェインの生歌が聴けるなんて滅多にない!」
ライナスは特別席の欄干に手をかけ、舞台をほれぼれと眺めた。
「それに…」
彼は意地悪そうに振り返り、ニヤッと笑う。
「ヴィクトルの正装姿を見るチャンスなんてもっと珍しいじゃないか」
エレナは思わず吹き出しそうになった。
対してヴィクトルは眉一つ動かさず、冷静に言い返す。
「他人の外見に執着するのは、警部の悪癖だ」
「褒めてるんだよ? お前さん、もうちょっと華を持て」
軽口を叩くライナスに、ヴィクトルは溜め息をひとつついた。
ヴィクトルが息を整えた、そのときだった。
場内に、低く長い鐘の音が一つ響く。
——開演五分前。
ざわめきは波が引くように静まり、囁き声がそっと折り畳まれていく。観客たちは席に身を沈め、視線は自然と舞台へ集まった。
ライナスは名残惜しそうに肩を竦める。
「さて、と。そろそろ邪魔はここまでだな、ちなみに俺は隣のバルコニー席にいる」
「そうか」
「せっかくの幕開けだ。事件も起きなきゃいいが……まあ、その時はよろしく頼む」
「縁起でもないことを言うな」
「俺は現実主義者でね」
意味ありげに言い残し、ライナスは静かに自分の席へ戻っていった。
舞台の縁に灯る小さな明かりが、一つ、また一つと消えていく。オーケストラピットから、低く張り詰めた弦の音が流れ出した。
「…始まるのね」
エレナが囁くと、ヴィクトルは欄干越しに舞台を見据えたまま答える。
「ああ、始まる」
その言葉通り、指揮棒が振り下ろされた瞬間、音楽が空気を切り裂いた。重く、そして気品を帯びた旋律。革命の時代を告げる不穏な序曲が、劇場全体を包み込む。
深紅の幕が、ゆっくりと左右に割れる。
舞台奥に現れたのは、荒廃した革命都市の広場。石畳はひび割れ、遠景には黒薔薇の旗がはためいている。照明が冷たい月光の色に変わり、観客席が息を潜めた。
舞台に立ち上る薄い霧の中、兵士たちの靴音が低く響いた。
規則正しいその音に重なるように、合唱が静かに入り込む。
怒りと不安を孕んだ民衆の声。革命という名の奔流が、音楽となって押し寄せてくる。
「……すごい」
エレナは思わず前のめりになる。
舞台上の光は冷たく、鋭く、まるで石のように感情を削ぎ落としていた。
中央に現れた青年。
それがアリステル。この舞台における男主人公である。
彼が口を開いた瞬間、劇場の空気が一段階、張り詰めた。
澄んだテノール。
それは嘆きではなく、抗いだった。
「……声、綺麗」
エレナの囁きに、ヴィクトルはわずかに頷く。
「そうだな」
舞台では、兵士たちがアリステルを囲み、無情な判決文が読み上げられる。
群衆の合唱が激しさを増し、オーケストラの音が脈打つように膨らんだ。
そのとき。
エレナは、客席の端に違和感を覚えた。
二階バルコニーの奥、柱の陰。
誰かが、身じろぎもせず舞台を見つめている。
(いや、違う、あれは舞台ではなく、舞台袖の暗がりを見ている)
「……ヴィクトル」
声を極限まで落として呼ぶと、彼はすぐに応えた。
「同感だ。視線の向きが不自然だ」
二人は、舞台を見るふりをしながら、意識だけを客席へ滑らせる。
だが次の瞬間、舞台上で音楽が一気に静まり返った。
アリステルが独唱に入ったのだ。
処刑前夜。
恋人リリィを想い、誓いを歌う場面。
照明が一点に絞られ、彼の指先で小さな光が瞬いた。
黒薔薇の紋章が刻まれた指輪。その瞬間、客席から、ほんのわずかに息を呑む音がした。
——エレナではない。
——ヴィクトルでもない。
ヴィクトルの瞳が鋭く細まる。
「……今の、聞いたか」
「うん。誰かが……反応した」
だが、舞台の魔力は容赦がない。
歌声は観客の感情を絡め取り、誰もが視線を逸らせなくなっていく。
指輪に誓い、再会を願う旋律、甘美で、そして不吉。
エレナは胸の奥が、わずかにざわつくのを感じた。
「ねえ……あの指輪、もしかして本物の宝石とか使ってるのかしら」
「そうかもな、物語の核になる小道具は、往々にして現実でも事件を呼ぶ」
舞台上で、灯りが落ちる。
アリステルが闇に沈み、合唱が不穏な和音を残して第一幕は終わった。
——拍手が、嵐のように巻き起こる。
その喝采の中で。
二階バルコニーの影が、静かに席を立った。
エレナは、その背中を見失わなかった。
「……休憩時間、追う?」
「無論だ」
ヴィクトルは立ち上がり、黒手袋をきゅっとはめ直す。
——第一幕終演。
嵐のような拍手がホールを満たし、赤い幕が完全に閉じると同時に、場内の灯りが少しだけ戻った。観客たちは息を吐き、ざわめきが一斉に蘇る。
「……今だね」
エレナが小声で言うより早く、ヴィクトルはすでに立ち上がっていた。
「ああ。人の流れに紛れた。動きは早くない」
二人は拍手の余韻に包まれたまま、さりげなく通路へ出る。興奮して立ち上がる観客、談笑しながら飲み物を求める紳士淑女。その雑踏は、追跡者にとっては霧であり、同時に隠れ蓑だった。
「さっきの人、どこへ行ったと思う?」
「二つ可能性がある。化粧室か、舞台裏へ近づく通路だ」
ヴィクトルの視線は、壁沿いの扉と階段の配置を瞬時に拾っていく。
「反応したタイミングが決定的だ。指輪が示された瞬間……感情を抑えきれなかった」
二階バルコニーの端。
赤絨毯の影に、ほんの一瞬だけ、黒い外套の裾が消えた。
「……あそこ!」
エレナが指さす。
その影は人混みを縫うように進み、ある扉を抜けた。
——一気に、音が変わる。
華やかなざわめきは背後に閉じ込められ、通路には靴音と遠くのオーケストラの調律音だけが残る。壁には古いガス灯、天井は低く、劇場の裏側がむき出しだった。
「劇場関係者用の通路だ」
「観客が入っていい場所じゃないよね」
「だからこそ、都合がいい」
追いかけてくるのに気付いたのか、黒い影は一瞬振り返り、ためらう素振りを見せたが、次の瞬間、非常階段へ飛び込んだ。
「逃げる気だ!」
鉄製の階段が軋み、足音が重なって跳ね返る。上か、下か。影は迷わず下へ。
「出口に向かってる」
「塞ぐ?」
「いいや……」
ヴィクトルは足を止め、階段脇の小窓に視線を走らせる。
「裏口は封鎖されている。警部がいるはずだ」
その直後、階下から、聞き慣れた声が響いた。
「おいおい、休憩時間に全力疾走とは感心しないな!」
「ハーゼ警部!?追ってきたの」
「うぉっ」と短い叫び声、そして物が倒れる音。
数秒後、階段下から現れたのは、ヴィクトルに腕を取られたさっき怪しいの人物だった。
「……離せ!」
フードが外れ、現れたのは意外にも、若い男。劇場の楽団員の腕章をつけている。
「楽団員?」
「偽装だな」
ヴィクトルが冷静に言う、ライナスは男の懐から、小さな布包みを取り出した。
「ほら、黒薔薇の紋章入り指輪。舞台小道具と同型だ」
エレナが息を呑む。
「じゃあ、やっぱり……」
「ああ。舞台と現実を重ねるつもりだったんだろう」
ライナスは肩をすくめる。
「第二幕で何か仕掛ける予定だったらしい。幸い、幕が上がる前に捕まえられた」
遠くで、開演を告げるベルが鳴る。
——第二幕まで、あと五分。
「……観劇は?」
「事件が終わったなら、観るべきだろう」
ヴィクトルはそう言って、エレナの方を見る。
「物語の結末を知らずに帰るのは、非合理だ」
エレナは小さく笑った。
「探偵のくせに、ロマン派だね」
三人の背後で、劇場は再び光を集め始めていた。




