序章 事件への招待
夜の霧がいっそう濃くなり、ランタン通りの明かりがぼんやりと滲んでいた。
ヴィクトル・グレイ探偵事務所。
散らかった新聞と、冷めかけた甘い紅茶の香りの中で、探偵であるヴィクトル・グレイは機械仕掛けの懐中時計を分解していた。
「ねぇヴィクトル、それ本当に直るの?」
買い物から帰った助手のエレナ・フィオリは、コートを羽織ったまま、机の向こうから覗きこむ。
「直らなければ不便だろう。……ほら、ゼンマイが緩みすぎている」
相変わらず、抑揚のない声で淡々と答えるヴィクトル。
灰色の瞳は細かい歯車に集中していて、こちらを見る気配はない。
エレナはくすっと笑った。
「本当に仕事以外の時だけ器用なんだから」
しかし、ヴィクトルはその言葉に反応せず、時計の蓋を閉じると、ふいに顔を上げた。
「……エレナ」
「ん? なに?」
「あさっての夜、予定は?」
「え?」
エレナは瞬きをした。
彼から“予定”なんて聞かれることは滅多にない。
「特にないけど……事件?」
「違う。」
ヴィクトルは淡々としている。
けれど、ほんの少しだけ——本当にごくわずかに、頬が赤い。
「オペラ座に行く。」
「新作オペラの初日公演だ。警部から招待券をもらった。二枚。」
その手から差し出されたのは、深紅の封筒に入った金縁のチケット。
エレナは驚いて目を見開いた。
(結構そのチケット高いはずでは?ハーゼ警部、太っ腹)
「えっ……私の分も?」
「助手だろ。同行してもらう。」
言葉はぶっきらぼうなのに、その視線はどこか柔らかい、エレナは胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなるのを感じた。
「……もちろん行くよ。嬉しい。ありがとう、ヴィクトル」
「礼を言う必要はない。……どうせ放っておけば、勝手についてくるだろ?」
「それは否定できないかな」
二人は同時に小さく笑った。
窓の外から、遠くの劇場の鐘が、低く鳴り響く。
ルーメンフォード大歌劇場で起ころうとしている、“謎”と“影”は、まだ誰も知らない。
ただの招待——
そう思っていたのは、この瞬間だけだった。




