nachuring story・・・0005 記憶と水面
部屋の空気が薄く感じた。
催眠療法士の部屋は静かだった。東三郎は深呼吸をしながら、椅子にゆっくり腰を下ろした。
「どこまでの記憶を忘れたいのか、明確にしましょう・・・」
眼鏡をかけ、穏やかな声の女性が言った。
「故意にて、完全に記憶を消去することは不可能です ただ、記憶を曖昧にしたり、輪郭をぼかすことは可能です」
(輪郭をぼかす?)彼が忘れたいのは"美佐子"の微笑み、でも届かないあの一瞬の光・・・
思い出す度に胸に沈んでしまうこと。
何も言わず隣に座っている真理子は、ただ、東三郎の肩にそっと手を置いていた。
♢♢♦
・目を閉じると音が聞こえる。
・ホテルのプール
・夜の水面
・遠くで聞こえるジャズの残響
・白いキャップに青いワンピース
・水の中で滑るように泳ぐ姿
それを見ていた、あの日の自分が立っている。
「魅了したんだよな」
東三郎は、まるで映画のワンシーンを思い出すかのようにその記憶をたどった。
なぜ、こんなにも彼女の泳ぐ姿が残ったのか?
彼女を「自分の世界」に投影されていたからだろう。
誰にも触れられないひとりで泳いでいる姿、孤独・美しさ。そのすべてが、東三郎の心を締め付けていた。
♢♦♦
「ではここから記憶を緩やかにしていきます」
・女性の声が水の中に沈むように遠ざかっていく。
・美佐子は泳いでいる。
・顔はぼやけている。
・水の音は遠くなっていく・・・。
・名前を呼ぼうとすると、口は動かない。
その時、別の声が聞こえた。
「東三郎さん」
真理子の声だ。
ハッとするように、意識の底から東三郎の手にそっと触れる真理子。
「私はここにいるよ」
目を開けると天井がまぶしかった。
催眠療法は終了していた。
東三郎は額に汗をぬぐいながら、真理子へ視線を送った。
「あれ?美佐子の顔が少し霞んで、輪郭が曖昧になってる 声も遠いけど、苦しくないよ・・・」
真理子は頷いた。
「それでいいの、少しずつ・・・」
病院のカフェテラスで二人はコーヒーを飲んでいた。
東三郎が言った。
「現実逃避になるのかなぁ」
「違うわ・・・」
真理子はハッキリと否定した。




