nachuring story・・・0002 現在と過去
彼女には秘密がある。
肩柳美佐子。夜の海のような声を持つジャズシンガー。
彼女の歌声には時折光が差す。
まるで誰かを思い出しているかのような、届かない光を追いかけるような、そんな歌声。
"唄うこと"は美佐子にとって、生きることだった。"恋"は生きていくために諦めたものだった。もう何年も前のこと。
音楽と夢の挟間で揺れていた頃、舞台に立つ未来が不確かだった、あの季節、一人の男性に出会い、そして、恋に落ちた。
一度抱きしめ合った夜の港、風の音に囲まれたベンチで・・・
けれどその恋は、長く続かなかった。選んだのは夢。
「夢を選択したら、自動的に恋は抹消する」そう信じることで前に進むことができた。
それ以来、美佐子の中に男性は沈ませ「レプリカの恋」と名付け生きてきた。
記憶の奥底・水面のずっと下。名前も呼ばない、呼ばれないまま、美佐子の中に棲んでいる。
東三郎はその事実は知らないが、日に日に、美佐子への想いを募らせていた。
ライブハウスで聴いた歌声とプールで泳ぐ姿を自分の中で鎖のように結び付けていた。
言葉では説明できない確信のようなものが、胸の奥に根を這わせていた。
一カ月後の週末、東三郎は、もう一度ライブ会場へ足を運んだ。白いシャツ、チノパン、香水はいつもと同じブルガリで・・・
マイクを片手にステーじで、誰かを思い出すように唄っていた。
ふと美佐子が視線を下に向けた。東三郎は、目が合った気がした。でも、偶然なだけ。自分の都合のいいように、解釈すればそれは、それで、心がうれしい。心が熱くなる。
でも、美佐子の瞳の奥に、悲し気な雰囲気を漂わせていた。
東三郎は、もっと知りたい、そんな想いが一歩リードして、でも、躊躇する現実がそれを、引き留めているようだった。




