日常のある一日
江戸の建物は木造であり、火の不始末や放火で延焼しやすい状態にあった。
町火消し五郎衛門は、普段は大工の棟梁として育てた弟子達と家を建て、火事の際はその身軽さで纒を持ってやぐらや建物の上に立ち、火災の発生を周囲に知らせた。
火災の現場では、火の手を止めるために周囲の家を壊したり、水をかけたりして消火活動を行う。
その勇ましい姿は、親しまれ憧れの的だった。
※纒とは、火消しが持っている棒の呼び名。旗印の一種。この纏を持つ者は「纏持ち」と呼ばれた。
◇◇◇
町火消し五郎衛門の先妻の息子、弥助の大工仕事は次期棟梁として研鑽を積み素晴らしく、火消しの際は纒を持つことを許され、その大柄な体格は周囲から見ても群を抜く程の頑強さだ。
火傷や傷等ものともせず、多くの民を救助する人気者。
おまけに早世した先妻のお竹に似た、儚げな美貌も兼ね備えていた。
平民だけではなく下位の武家娘の親からも、優良な婿または嫁入り先として狙われていた。
次期火消しの頭と大工の棟梁は、確固とした地位にあったからだ。
けれど弥助は、得しかないであろう縁談を全て断っていた。
江戸時代の身分制度は「武士・百姓(農民)・町人」という3つの身分がある。
※武士はその上級者として社会の支配層で、全人口の7%。代々軍事を職務とする家系で、名字を名乗ることと、帯刀する資格を持つ。
百姓は農民を指し町の人口の8割以上を占める。
町人は、商人や職人、そして江戸や城下町に住む人々を指し、身分制度の外にえた身分やひにん身分があり最下層としていた。
普通ならば、上級者に望まれて断ることは到底出来ないが、彼に嫌われることを恐れて無理強いはされなかった。
もし無理を通せば、多くの民を敵に回すことも、もう一つの理由であった。
なんせ父親と共に、多くの支援者を抱えていたからだ。
父である五郎衛門も、身分や権力よりも好きな女と所帯を持つことを望んでいた。
「俺達火消しは江戸の花、けれどいつ命が消えるかもしれない危険な仕事だ。だから毎日、悔いなく生きられるように、愛する家族は必要なんだ。分かるか!」
「ああ。分かるぜ、親父。帰って来たい場所の為に、頑張ってるんだもんな! 俺も同意だ!」
にこやかな笑顔の二人に、回りの老若男女も楽しくなる。
「よっ、五郎衛門さん。粋だね!」
「お藤さんが羨ましいよ」
「後は弥助の番だね。あんまり選びすぎんじゃないよ!」
「早く子供の顔を見せてくれよ」
「それはいろいろ考えてっから。もう少し待っててくれよ!」
「良い子を選ぶんだよ。次の火消しの女将なんだからね!」
「わはははっ。そうだぞ、別嬪さんを連れて来い!」
「煩いぞ、みんな。まあ、お藤もお竹も美人だからな。期待するのは勝手だけど、弥助は顔で選ばねえぞ」
「勿論、優しい子が良いわよね。あたしがあと10年若かったら、こんな亭主と別れて結婚してあげるんだけど、残念だよ」
「馬鹿、お光。お前なんて端から選ばれねえよ」
「まあ、何て言いぐさだい。酷い男だね。弥助ならそんなこと、絶対言わないよ」
そこにチャチャを入れる、蕎麦屋の大将雅だ。丁度買い出しで見かけ、口を出してきた。
「夫婦喧嘩は犬も食わねえよ。嫉妬すんなって、万作。お前がお光に惚れてんのは、全員知ってるから」
「そうよ、お光さん。万作さんが可哀想だ」
二人は冷やかされて、盛大に照れている。
「……ごめんよ、万作さん。ちょっと気がきかなかったよ」
「俺もだ、すまねえ。年取ってもこんなに可愛いお光だから、もしもと思ったら、つい」
「まあ、万作さん。可愛いのはあの時のままだね。チュッ」
「うおっ、よせよ(照れて怒れねえ)」
「お熱いこった。そういうのは家でやれよ!」
「「「わはははっ」」」
呑気な声が響き渡る。
町民達は、火消しのみんなと家族のような付き合いだ。傷つけることなんて滅多にない。
その中には、源とお菊も含まれている。
「ねえ、お父ちゃん。お父ちゃんの奥さんも綺麗な人だった?」
「ああ。最高の女だったぜ。悪いがお菊より美人だったぞ! ちょっと恐い時もあったけどな」
空を見上げニヤニヤする源に、お菊は呟く。
「どうせお酒でも呑み過ぎた時でしょ? 変わんないね、お父ちゃんは」
「ぐぬっ、何故分かる。そうだよ、お菊。それで怒られてたんだよ。寝落ちするまで呑むなってな」
「もう、私だって心配だよ。気を付けてね」
「分かってるよ。でも清さんが呑ませる時は断れねえ。すまねえな」
「呑むのも仕事だっけ。危なくないようにしてね」
「ああ。そうするよ」
源は基本的に真面目な男だ。
玉に瑕は酒の事だけだから、怒られていた内容はすぐに分かった。
お藤さんから何気なく、亡くなったお富のことを聞いていたから。その当時の辛かったこと等も。
そんな最中に自分を救ってくれたことを、お菊は知っていた。
今のお菊は、源が何よりも大事だった。
出来れば岡っ引きなんて、危ないことをして欲しくない程に。
成長するにつれ、この感情が父へのものなのか、命の恩人への感謝なのか、それ以外なのか分からなくなっていた。
清次郎に見込まれて、収入は良いが荒事も多い。
おまけに清次郎からの特別な報奨は、みんなには内緒なのだそう。その殆どを貯金しているから、周囲にはばれてもいないけれど。
けれど何故、源が選ばれたのかも知らないお菊。
(確かお父ちゃんは、腕の良い大工だったそうだけど。それを辞めて清次郎さんに付くって。何か理由があるのかな?)
女の勘が働いたせいか、それだけは聞いたことがなかった。
(いつか話してくれるよね、お父ちゃん)
◇◇◇
そんな思いを抱くお菊を、熱い視線で見つめる男がいた。
件の弥助である。
妹のように接していたが、最近になり意識し始めたのだ。
「気立てが良くて縫い物もうまくて、何より可愛いんだよ。でも源さんが恐すぎてよぉ。もう少し腹を決めるまで、待っててくれよな」
そんな息子を生暖かく見る五郎衛門だが、彼は応援していた。
(俺達ならお菊を、江戸一幸せな嫁にしてやるぞ。いつでも迎えてやれるんだけどな。男なら、行ってこい!)
それはお藤も同様だった。
(赤ん坊の時から育てたんだから、もう娘みたいなもんよ。あの子が嫁になるなら、仲良く出来るんだけどな)
様々な思惑の中、今日もお菊は幸せだった。