井伊の姫様
片切進之介の母、あざみは、彦根藩(30万石)の大名井伊家の家臣に当たる庵原家の末娘である。
そのあざみの母、春菜は、井伊家の四女であったが、庵原家の嫡男雪之丈に一目惚れし、父、亮次郎を説き伏せて結ばれていた。
雪之丈は江戸まで、その美丈夫振りが轟く人気があった。
ただ雪之丈は春菜を熱望する要素はなかったし、彼の親も主君に逆らう気はなかった。
命令とあらば従う心積もりだった。
ただただ、あざみの気の済むまで、井伊家に呼ばれるまま赴き、井伊家の忠臣に囲まれ緊張のまま会話をする日々が続いていた。
しかし春菜は興味を失うことはなく、雪之丈と夫婦にならなければ自害するとまで言い出し、格差のある婚姻に至ったのだ。
彦根藩の譜代大名筆頭の姫と、部下の旗本の息子との結婚である。
その後に時の将軍に強く願いあげ、彦根藩の土地を分け与え、庵原家は1万石の大名へと昇格したのだ。
反発がなかった訳ではないが、亮次郎の愛する娘を思う気持ちを知り、他の家臣はそれに従った。
◇◇◇
その後、雪之丈は増えた土地の管理と、家臣達との結束を懸命に図り、夫婦仲も睦まじく暮らした。
春菜はいつも微笑み、亮次郎も満足していた。
子宝も二男五女と恵まれ、その息女の一人が片切家に嫁いだあざみである。
あざみの容姿は驚くほど春菜に生き写しで、亮次郎はことさら愛でた。
あざみの産んだ進之介にもその愛は注がれた。
それこそ内孫よりも多く会いに来た程に。
そう片切進之介には、井伊亮次郎の庇護がある。長男に家督を譲った後も、強い権限を持つ曾祖父の。
それに加え、庵原家も勿論彼を支えている。
こうした環境下で、進之介は次期老中を狙っていたのだ。ただ北町奉行、近江儀三郎も後ろ盾を持ち、正義を貫く熱い男である。
民の暮らしを考えれば、この男が上司となることを望む者も少なくないのだ。それには清次郎も含まれた。
◇◇◇
片切進之介は自分の生まれが不満だった。
自分の生まれがせめて庵原家の嫡男なら、大名家を継げたのに。ただの旗本だから、自由に振る舞えないと。
曾祖父である亮次郎様は、場合によっては俺に男児のいない庵原家を継がせても良いと言われた。
けれどそれには、周囲を説き伏せる功績が必要だ。
町奉行として華々しく活躍し、庵原家に嫡子として養子に入れば、老中になるのに不足はないだろう。
俺はこのまま、町奉行ごときで終わる男ではないのだ。
その為には清次郎を利用し、実績を作るしかない。
うまくいけば手柄を横取りし、下手をうてばあいつに押し付けて。
俺が老中になれば、あいつも片切家を継げるのだ。
次男としては僥倖だろう。
ただ近江儀三郎は、側室だが酒井家に母を持つ男だ。単純な親の格では俺の方が劣る。
他にも大名家で老中を狙う家も多いが、俺達の親族のことを考え、まだ候補として顔は出していない。
決めてとなる何かが、または近江の弱味が欲しいと思いながら、愚弟に期待している。
我が母あざみ亡き後、父、千寿郎と後妻ゆり、そして清次郎は幸せそうにしていたが、俺は怒りを抑えてそれを見過ごしてきた。
所詮ゆりは片切家の使用人のような者だ。
俺の一言でいつでも命はなくなる。
「だから父も清次郎も、せいぜい俺の役に立って貰うぞ。逆らった時はどうなるか、想像がつくだろう?」
薄く笑う進之介は、それを父と弟に告げていた。
逆らうことは許さないと言って。
それが父と清次郎が、彼に逆らえない理由である。
それでも清次郎は菊のことを告げずにいた。
性根の歪んだ兄に、大事な娘は渡せないと思い。