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お菊との出会い

「こ、この子を、お願、い、ま……す………………」


「ちょっと、待て。俺には無理だ。おい、おいっ!」



 源に幼い赤ん坊を託し、上等な小紋の着物を着た若い女は息を引き取った。


「だって俺は、これから…………。ああぁっ、」




◇◇◇

 その日源は、崖に続く山道を歩いていた。

 ヨロヨロと力なく、けれど歩みを止めることはなく。


 病に倒れた恋女房お富を数日前に亡くした彼は、絶望の淵にいた。腕の良い大工だった源はお富の薬代の為に、その身の軽さで度々豪邸に忍び込んで器用に金庫を開け、薬代だけを頂戴していた。


 出来る限り彼女の傍で看病をしたいが為に、犯罪に手を染めたのだ。


 痕跡なく場を去る為、盗みに入られたことさえ知られずにいた。

 ある時までは…………。

 けれどその甲斐なくお富は亡くなり、生きる希望を失った源は、落ちたなら間違いなく命がなくなると言う断崖を目指していたのだった。


「……お富は俺に生きろと言ったが、お前が居ないと無理だ。だからすまない。墓守りもせずに…………」


 最期の願いを叶えないことに罪悪感を抱えながらも、葬儀から数日飲まず食わずの身を引き摺りながら。


 そうして漸く目的地に着く直前、木の陰から女の声が聞こえたのだ。

 それは静寂が支配する、訪れる者が少ない山道だから奇跡的に聞こえたのだろう。


「だ、誰か、助けて下さい、誰かいませんか? お、お願い誰か、助けて下さい、誰か………………」


 それは聞き逃しそうな吐息のような音。

 けれど途切れることのない必死さがあった。


 思わず声の先を探して、その主を見つけた源。


「あぁ、あんた、血だらけじゃないか? 大丈夫じゃ、ないな。しっかりしろ!」


 あまりのことに自分の境遇さえ忘れ、横たわる女を抱えて声をかけていた。女の腹には刀で切られたような着物の破れと、それを中心に滲んでいく赤い染みが痛々しく彩っていた。


 源に気付いた女は、抱えていた赤ん坊を源に渡し、か細い声で告げ始める。


「この子は老中、伊折将勝様の……隠し子です。私は老中様の家で女中をしていた神楽と申します。

 老中様の奥様の手の者に命を狙われ逃げておりましたが、とうとうここまで追われこの傷を負わされました。

 この子は菊と申します。

 どうやら追っ手の者は、老中様の子を手にかけることを躊躇ったようです。

 ですが…………。

 このまま私が死ねば、この子は餓死か動物に食い荒らされる未来しかありません。

 どうか、この子を連れていって貰えませんか?

 地位も名誉もなくても、この子には生きていて欲しいのです。

 まだ生後3か月のこの子は動くものを追うくらいで、はっきりこの世のものを見えてはいないのです。


 どうかこの世に生まれた素晴らしさと、楽しさをこの子に教えてあげてくれませんか? 

 ここで会ったのも、何かのご縁だと思うのです。


 この出血では、私はもう、助からないでしょう。

 ですから……お願い……します…………


 優しそうな、貴方様なら、きっとお菊は、幸せに、なるで、しょう、お願い、しま、す、どうか、この、子

…………を、おね、が………………」


「うぎゃー、うぎゃー、ほぎゃー、ふぎゃー、」



 最期まで力を尽くした女は、赤ん坊に微笑みながら瞳を閉じた。その瞬間に今まで大人しかった赤ん坊は、火のついたように泣き始めた。


 まるで母の死を悲しむように。


 俺は女が歩く支えとして使っていた杖で穴を掘り、女の亡骸を埋めた。出来ることなら、遺体を動物達に荒らされないことを願って、静かに手を合わせた。


 その様子を赤ん坊は泣かず、まるで最後の別れのようにその方向を見守っていた。


 周囲には人の気配はなく、刺客達はもうここを去ったのだろう。




 赤ん坊のおくるみには、老中のものと思われる印籠と銀貨が入った巾着が入れられていた。

 印籠もそうだが、賃金とて普通の女中が到底用意できないものだ。

 目立つ金貨ではなく、逃亡用の路銀を銀貨にしたのも旅立つ準備をしていたように思えた。


 きっと老中様も、この事態(逃亡)になることを知っていたのだろう。


「俺はどうすれば良いんだ。…俺はお富の所に行こうと思っていたのに……。でもまずは、お前を安全な場所へ連れて行かないとな。

 でもこの印籠と結構な額の銀貨が公になれば、お前が生きていると知った奥方にまた狙われるだろうな。


 ほとぼりが冷めるまでは、俺が育てるしかないのか?

 あぁ、俺の指を吸っている。

 お腹が空いたのだろうな。


 しょうがない、一度山を降りるとするか」



 赤ん坊の顔を覗き込むと、不意に笑顔を俺に見せた。

「うきゃ、あぶぶ、くふっ」


「そうか言ってることが分かるのか、賢い良い子だな。……お母ちゃんは死んじまったが、頑張って生きるんだぜ」

「あぶぶっ、あうっ!」


 何だか返事をするような赤ん坊の様子が愛らしく、自分が死のうとしたことを忘れかけていた。


「まあ死ぬのは、この子を誰かに託した後でも良いか?」


 大事にその子を胸に抱えながら、急な勾配も負担をかけないように駆け抜ける。登る時とは明らかに気持ちも足取りも違っていた。


 長屋町に着いた源は、長屋を仕切る火消しの五郎衛門とお藤のもとに直行した。五郎衛門は源の上司でもある。

 彼らは家を構え、その辺りを仕切っている長のような役割も持っていた。


 八谷7番組を率いるお頭、五郎衛門は、普段は大工の棟梁をしている。恵まれた鋼鉄の筋肉を持つ体躯の持ち主で、人望も厚い男。

 自分の子供が居ないお藤は、偏見なく子供を大事にするしっかり者の優しい女だ。


「ちょっと源さん、フラフラなあんたが何処に行ってたんだい? みんな心配して探してたんだよ!」


 いつも通り優しい二人に、源は偽りも交えて赤ん坊の保護を求めた。


「ああ、すまん、悪かったよ。気分転換しようと散歩をしていたら、赤ん坊が置き去りにされていたんだ。

 そのままにしていたら死ぬと思って拾ってきたんだが、どうやって育てたら良いのか分からなんだ。

 頼む、助けてくれねえか!」


 到底自分()に子育ては出来ない。

 けれど秘密のあるこの子を、そのまま誰かに投げることは出来なかった。

 預けるにしても秘密を守ってくれる人でないと、この子は命さえ危うくなるだろう。


「あんた、何言ってんのさ。猫の子や犬の子じゃないんだよ!」

「お藤!」


「だって、お前さん。子育ては簡単には出来ないんだよ。おまけにまだ乳飲み子じゃないか?」

「良いから、あいつを見てみろ!」

「っ!」

「なあ?」


 声をあげるお藤を五郎衛門が止めた。

 女房を亡くしたばかりの源に、子育ては無理だ。

 そう心配した五郎衛門夫婦の思いは妥当なことだった。


 けれど赤ん坊を見つめる源とその赤ん坊を見ていると、何だか他人には思えなかった。

 まるで本物の父子のように、穏やかだったからだ。


 ずっと抱いて疲れるだろうと、お藤や五郎衛門が変わって赤ん坊を抱こうとしても、激しく泣き喚き、源に戻すと穏やかになる。


 乳を長屋に赤ん坊のいる女に貰う時も、赤ん坊は源の手を握りしめていないと泣いて不安がっていた程だ。


 それを見た五郎衛門は、赤ん坊を暫く源に預けてみることにした。


「源、大工仕事は暫く休んで良いから、その子を育ててみろ。駄目だと思うならすぐに言えよ。

 どうやらその子は、お前といると安心するようだから、出来るまでやってみろ。良いな」


「はい。お頭、ありがとうございます。俺、頑張ってこの子を生かします」


 そう言って源は菊を抱きしめた。

 菊も楽しそうに笑い声をあげたのだ。


「きゃう、きゃあ、にゃは」



 その声は源の心を包み込むようで、長屋にも幸福感を与えたのだった。


 

 それから源は懸命に頑張った。

 日中の乳は長屋の仲間の女房に貰い、夜間は牛の乳を匙で掬って飲ませた。

 おむつ替えも最初はわたわたして、手に排泄物をかなり付けたり拭き取れず四苦八苦していた。

 入浴は樽に沸かした湯を入れ、丁寧に洗う。

 湯の準備に衣類や手拭いの準備、やることは盛りだくさんだ。


 だが決して手を抜かず頑張る源に、長屋の住民は手を貸し出すのだ。


「ほら源さん、私が乳あげてる間にご飯食べてきな」

「お湯は俺が沸かしてやる。薪の燃え見とくから、着替えの準備せえ」


「洗濯物出しな。今回は一緒に洗ってやるから。次回は自分でやってな」

「少し俺が抱いとくから、仮眠してろ。もうだいぶん泣かんくなったから、大丈夫じゃ」


 みんなのそんな気持ちに触れ、源はありがたさで泣いた。安易な気持ちではなかったが、子育ては大変だったから。


 けれどこの子の母親の無念さと、この子の笑顔で突き動かされて頑張っていた。けれどそれでは足りないくらい不安で未知で、みんなの力がなければ育てられなかったと思った。


「ありがとう、みんな。俺、勝手したのに、協力してくれて。感謝してるよ」


 そんな源にみんなが微笑んだ。

 

「この長屋の子だもの、気にすんな」

「そうよ、困った時はお互い様よ」


「源に任せて腹空かせてたら、この子が可哀想だからな」

「あんただって偉いよ。他人の子なのに一生懸命にさ。だったら、協力するしかないでしょ」


「本当そうだ。お前を見直したぞ」

「なよっちいが、意外と男気のある奴だ」



 もう褒めてんだか悪口だか分からないが、心配していることだけは伝わった。


 そして名前を付けようとなった時、源は少し躊躇した。

(この子の名は菊だ。けれど老中の奥方に、この名で狙われたりしないだろうか? もう死んでいると思われているだろうか?)


 暫し考え、源は名を口にした。

「この子は菊と言う名にするよ。可愛いだろう?」


 この場で決めたとなれば、疑う者も居ないだろうと思って。


「ああ、良いね。お菊ちゃんかい。可愛いこの子にぴったりだ」

「良い名前だ。普段の源からしたら、ピカ一の名じゃろう」


「ちょっと、長介さん。それは酷いよ。それじゃあ俺が、センスがないみたいじゃないか?」

「ないよな」

「ないよ、源は。今さらかい?」


「もうみんな、でもありがとう、ありがとうございます」


 源が頭を下げて感謝しみんなが微笑むと、お菊もニコニコ顔でとても嬉しがった。




◇◇◇

 けれど………………。

 お富の為に豪邸で行った盗みを、()は知られていた。


 同心の浅賀清次郎と言う男に。

 告発しないことを条件に、俺はそいつの岡っ引きになった。


 表面上は良い奴だが、底が知れない。

 けれど俺はお菊が嫁に行くまで、頑張り通すつもりだ。


 俺の心を救ってくれた愛娘の為に。

 逆らえない辛さより、お菊の方が大事だから。




◇◇◇

 同心の浅賀清次郎。彼の本名は片切清次郎。

 南町奉行である兄、片切進之介の異母兄に仕える与力だ。


 彼は兄より、老中伊折将勝の愛人である女中の神楽とその子供の捜索を命ぜられていた。


 けれど全てを知った清次郎は、兄進之介には知らせず源を岡っ引きにしたのだ。


 清次郎は知っていた。

 お菊の存在が、兄片切進之介の利権争いの餌になることを。

 それを清次郎を嫌った。


 だからずっと、お菊はお菊のままでいられたのだ。



 その平安がいつまで続くかは、まだ分からないが。



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