源、産婆を運ぶ
江戸の治安維持(ここでは町奉行を説明)には、トップに老中が位置し。その下に町奉行が位置する。
そしてその下に並ぶ3つが、町年寄、与力、牢屋奉行である。
与力は、町奉行や諸奉行の事務を補助したり、同心を指揮したりする役職を指す。
同心は、侍大将や諸奉行の下に属し、与力の下で庶務や警備に従った下級の役人を指す。
岡っ引き(または小者)は、同心が私的に雇った、探偵や捕り物を手伝う者。平民と呼ばれる町民で、武士の身分ではない。
給料としては、町奉行の年収1億円以上に対し、岡っ引きは年収7万5000円ほど。 源はいろいろと多くの仕事が任されていた為、年収は20万近くあった。
◇◇◇
与力、同心にも、その権力を使って、町民に不利益を与える者(商人から賄賂を貰い、都合の悪いことを揉み消したり摘発しなかったり、逆に屋台の商売人にまで「ここを警備している手間賃をくれ」と小遣いを強請ったり、女性に痴漢行為をしても、やっていないと誤魔化したり)と、悪い者は一定数いる。
そんなことをするのは、わりと権力のある家の馬鹿息子達である。親に身分によるものを、自分のように振る舞うのである。放置せずに処せる親ならば、家族の恥を晒すことはないのだが。
武士の順列(江戸時代)として、
1位が、将軍:武家社会の最高権力者。
2位が、大名:1万石以上の領地を持つ藩主。
3位が旗本、4位が御家人:将軍の直臣。旗本は将軍のお目見えが許された上級家臣、御家人はそれ以下の下級家臣。
5位が足軽・中間:最下級の武士。
と、大まかに分類される。
当然のことながら、岡っ引きは武士ではないので、身分は低く、上の者の命令には逆らえない。
岡っ引きが町民に好かれるのも、嫌われるのも上司次第となってくる。
その点、清次郎に仕える源は、幸運と呼べるかもしれない。
大捕物がない時の彼らは、治安維持の為の見回りを行い、同心である清次郎はそれを日誌に記すことになる。
◇◇◇
「誰か、誰か来ておくれ、由美香が産気付いた。産婆を呼んできて! 取りあえず私の家に運ぶから!」
そう叫ぶのは、町火消しのお藤だ。産婆付いた妊婦は由美香で、寺で安産守りを買いに来た後に破水したようだ。
ここから由美香の家は5kmは離れている。それなら町火消しの広い家に運ぼうと、お藤は判断したようだ。
声を聞いた清次郎と源は、お藤に駆け寄った。
「おう、手伝うぜ。何をすれば良い?」
「丁度良いよ、清次郎さん。由美香さんに肩を貸しておくれ。道の真ん中で生まれたりしたら、可哀想だからね。しっかり支えておくれよ!」
「ああ、任せろ。お藤さんは湯の用意等を頼む。源は産婆の所へ行ってくれ!」
「す、すいません、みなさん。まだ1か月は生まれないと思ったのに……」
脂汗を流し、苦悶の表情を浮かべる由美香は、しきりんに謝罪をしている。
「良いのよ、そんなこと。子供もきっと、早く由美香さんに会いたかったのさ。あなたの子ならきっと可愛いわよ。頑張んなさい」
「はい、ありがとう、ございます、くっ、ふぅ」
「もう、気にするな。まずはあと少し歩くぞ。ほら、火消しの、お藤さんの家が見えてきた。頑張れ!」
「は、はい」
こうして由美香と清次郎は、お藤の家に到着した。
◇◇◇
「産婆の婆さん。急いでくれ、急いで火消しの家に急いでくれ!」
「煩い男だね。ばあさん、ばあさんと。声も大きいんだよ。ちっとは落ち着け」
「うん、ごめん」
この道40年のベテランは白髪で腰も曲がっているが、黄金の指と言われたその手腕は、江戸一と呼ばれていた。
彼女から見れば、源などまだまだひよっ子なのだ。
敵いようもない。
「火消しまでは遠い。あんた私をおぶりんしゃい」
「あ、ああ。分かったよ」
オイショと背中に、お七を背負う源。
「ええ、お七ばばあをか? がっしりしてるけど、何貫あるんだよ! 重てぇ!」
(1貫は3.75kg)
「煩いよ。女はいつまでも、体重なんて聞かれたくないんだよ! 余計なことくっ喋ってないで、急げ!」
ボカボカと源の頭を、作業鞄で叩くお七は容赦がない。
「痛い、本気で痛い。もう聞かないから、止めろ、ババア」
「分かりゃ良いんだよ、急ぎな」
真剣な声音に戻ったお七は、その後黙って源にしがみついていた。
◇◇◇
「待たせたね、さあ妊婦は何処だい?」
「ああ、来てくれてありがとう。お七さん。彼女は奥の部屋よ、来て頂戴!」
ズカズカと歩いていく二人を、火消しの男達は見送る。お藤から「男は邪魔だよ。恥に寄っときな」と、休憩室から廊下に追いやられたのである。
お産と聞いて遊びに行く気にもなれず、心配しながらウロウロとする強面の火消し達だ。
「大丈夫かな? 急に産気付いたらしいぞ」
「普通でも産気ってえのは、急らしいぜ」
「そうなのかい? 俺は嫁が居ないから、その辺は分からんさ」
「子供は可愛いぞ。早く所帯を持てよ、覚苑」
「こいつは振られまくりなんだよ。胸ばかり見て、可愛いとか気の利いたこと一つ言えねえから」
「ちょっと、余計なこと言うなよ。忠兵衛のアホ」
「そうかい。悪いことを聞いたな」
「誠吉さん。哀れんだ顔はしないで。全然、可哀想じゃないから」
休憩室では妊婦が唸り、廊下では火消しが騒ぐ中、妊婦を送り届けた清次郎と一仕事済んだ源は、心配したまま弥助に居間へと案内された。
火消し達も居間に移動し、満員御礼である。
「ありがとうございます。清次郎さん、源さん。丁度遣いに出ていて、手伝えなくて」
「用があったんなら、仕方ないさ。それより由美香さん、なかなか産まれないな」
「確か、初産はみんなそうらしいぞ」
「へえ、そうなんだ。物知りだな」
「それより、旦那に連絡はしたのかい? 米問屋の新衛門に」
「ああ。火消しの奴らが一走りして、もうすぐ引っ張って来るはずだ」
なんて感じで待つと、焦った新衛門が玄関に。
「すいません。由美香の夫の新衛門です。ご迷惑をお掛けします」
弥助が対応し、彼を居間にあげる。
「困った時はお互い様ですから、お気になさらず。まだ産気付いたばかりですから、こちらでお待ち下さいな」
「はい。ありがとうございます」
その後にお頭の五郎衛門と、源の心配をしたお菊が火消しの家に押しかけた。
「おう、会合から、今帰ったぜ。腹へったな」
「ちょっと、あんた。今それどころじゃないんだよ」
「何かあったのか? 今に人がぎっしりだしよ」
「お産だよ。もう少しで産まれるんだよ!」
「誰がだ? お前じゃねえな」
「馬鹿お言いでないよ。由美香さんだよ。近所で産気付いたで、連れてきたのよ」
「そうか。じゃあ、仕方ねえな。飯、どうすっかな?」
そんな時にお菊が現れた。
「こんなことだと思って、おにぎりを握ってきたよ。こんぶと梅しかないけどね。おみおつけ(味噌汁)も話を聞いた宿屋の奥さんが作ってくれたんだよ。みんな食べておくれ」
「ありがとう、お菊ちゃん。さすがの気遣いだぜ!」
「ありがてぇ、貰うぞ、お菊」
「お疲れ様です、お頭。たくさん食べて下さい」
「「「「ありがとう、お菊ちゃん。頂きます!!」」」」
「ええ、召し上がれ」
「こんなものですが、新衛門さんもどうぞ」
「ありがとうね、お菊ちゃん。両親は俺の代わりに仕事で、まだ来れないんだ。店を閉めたら来るはずだけど、空腹までは計算してなかったよ」
「さあ、どうぞ」
「お菊、ありがとうな。でもお金は大丈夫だったか?」
「うん。私にもヘソクリがあるから。伊達に仕事を頑張ってないよ」
「そうか、ありがとうな。後でちゃんと返すからな」
「いらないよ、お父ちゃん。八谷7番組の火消しには、いつもお世話になってるからね。少しばかりの恩返しさ」
「そうかい? 世話なら、俺の方がなっているんだけど。まあ、良いや。今度何か買ってやるからな」
「お父ちゃんは、もう。それより由美香さん、大丈夫かな?」
「ああ、たぶんな。お七婆さんが、もうすぐだって言ってたし」
「そっか。無事を祈ろうか」
「そうだな。そうするか」
◇◇◇
「オギャア、オギャア、オギャア」
祈りのせいか、その後すぐに生まれた赤ん坊は、元気一杯だった。生まれたばかりなのに、もう綺麗と分かる美人さん。
「元気なおなごじゃ。今後のお産も婆にお任せじゃ。た~んと生んでおくれ。ワハハッ」
長丁場だったのに、疲れ知らずのお七が笑って子供を夫婦に抱かせた。ありがとうございますと、恐る恐る赤ん坊を抱き上げる二人。
「ありがとうな、由美香。こんなに元気で可愛い子を」
「良かったわ。お寺でお守りを買ったお陰かしら。こんなに賑やかに祝福されて」
泣きながら自分を抱きしめる新衛門に、ますます幸福を噛みしめる由美香。疲労よりも喜びが勝っていた。
結局、火消しの男達も、清次郎も源も、お菊も生まれるまで待機していた。生まれる前には新衛門の両親も駆けつけ、盛大に喜びに沸いたのだ。
「「「由美香さん、新衛門さん、おめでとう!」」」
歓喜に包まれた空間で、源は昔の記憶が蘇った。
(ああ、お菊もこんな風に小さかったな。こんなに元気で気も使えるように成長して。大きくなったなあ)
源は改めて、自分はお菊の父親なのだと実感出来た。一時は弥助に奪われそうだと思った時、もしかしたら女性としてお菊のことが好きなのかと錯覚したこともあったが、違うようだ。
(花嫁の父親は、みんなこんな気持ちなのか? 新衛門さんも辛いなぁ)と、明後日のことを考えている源。
赤ん坊を抱かせて貰い「わぁ、ちっちゃいね。可愛いわぁ」と頬を染めるお菊に、清次郎、弥助、火消しの男達が顔を朱に染めていた。
(お菊ちゃんの子供は、きっと可愛いよな。結婚したい!)
そんな妄想が飛び交っているのだった。
◇◇◇
翌日。
「お世話になりました。このご恩は忘れません。ありがとうございました」
夫婦で頭を下げて由美香は駕籠に乗り、新衛門は心配そうに横を歩いている。それほど遠くはないが、産後の疲れを見ている為心配なのだろう。
御駕籠に乗った由美香は、ゆっくりゆっくりと丁重に移動され家まで戻ったのだった。
由美香は母方の祖父に、裕福な商人を持つ下級武士の娘で、新衛門とは恋愛結婚である。
家に戻った由美香からは、火消し7番組に大層な米や魚のお礼が届いた。お菊の家にも高級そうなお菓子が届き驚愕する。
「お、お父ちゃん。どうしよう、こんなの」
「良いんじゃないか、貰っておきなよ。このお花のお菓子、美味しそうだ」
「うん! 一緒に食べよう」
「ああ。今日は、俺がお茶を淹れてやるよ」
「そお。ありがとう、お父ちゃん」
お菊は嬉しそうに、箱入りのお菓子を選び口に含む。
源もその笑顔を眺め、ぱくっと一口で食べれば、「もう少し味わいなよ」と笑われていた。
近所に子供が増えて、ますます賑やかになっていき、笑顔が溢れる7番組の周辺。清次郎や源の対応に南町奉行所にも好感が集まり、片切新之助もほくそ笑んでいたと言う。




