ハーブの香りと鹿肉の宴
夕方の光が森をオレンジ色に染める頃、家の中で薬草の整理をしていたルナフィーネは、不意に扉をノックする音を聞いた。
控えめな音だったが、何かを知らせるような急ぎの気配を感じる。
「ルナフィーネ、扉を開けておやり。」
マティア婆さんの指示を受けて扉を開けると、そこにはサイラスが立っていた。
「やあ、また来たよ。」
サイラスは少し照れたような笑顔を浮かべ、腕に抱えた鹿肉を差し出した。
旅の埃が服に薄く積もり、剣の鞘に新たな傷が刻まれている。
「これ、近くの森で仕留めたんだ。せっかくだから夕食にどうかなと思って。」
「鹿肉……?ずいぶん立派なものを持ってきたのね。」
私は驚きながらも彼の提案に頷いた。
キッチンに移ると、マティア婆さんが鹿肉を見て笑みを浮かべた。
「ほう、これならいろいろ作れそうじゃな。ルナフィーネ、試しに調理してみなさい。」
「えっ、私が?」
突然の指示に戸惑いながらも、彼女の視線の真剣さに気圧される。
「初めての料理にしてはハードルが高い気もしますが……やってみます。」
鹿肉を台所のテーブルに広げると、サイラスが手伝いを買って出た。
「まずは下ごしらえだな。こういうのは経験があるんだ。」
彼は器用にナイフを動かし、肉をきれいに切り分けていく。その手際の良さに、私は少し感心した。
「冒険者ってこんなこともするの?」
思わず尋ねると、彼は笑いながら肩をすくめた。
「そうだな。仲間と旅をしてると、料理だって覚えるさ。少なくとも、焦げた肉ばかり食べるよりはましだろう?」
彼の軽口に、思わず笑いが漏れる。
マティア婆さんが棚からハーブを取り出してきた。
「これを揉み込むと肉が柔らかくなる。それからこの葉は香りづけじゃ。」
ハーブを手に取ると、指先にほのかな清涼感が広がる。
「この香り……ローズマリー?」
「ほほう、よくわかったのう。お前さん、覚えておるな。」
記憶をたどるようにしてハーブを鹿肉にすり込むと、その香りが空間に広がっていく。
鍋に火をかけ、野菜を刻んでスープの準備をする。
サイラスは私の隣で包丁を手に取り、手際よく野菜を切っていた。
「案外、頼れるのね。」
「これでも旅の仲間には信頼されてるんだぜ。」
冗談めかした口調だが、彼の動きには確かな熟練を感じる。
火にかけた鍋から湯気が立ち上り、ハーブと野菜の香りが部屋に満ちていく。
調理が進む中、カイがひょっこりと現れた。
彼の青い瞳がキッチンのテーブルをじっと見つめている。
「この子、肉が気になるみたいね。」
私が笑うと、カイは控えめに一声鳴いた。
「猫にしては大人しいんだな。」
サイラスが興味深そうにカイを見つめる。
「不思議な子なの。森で出会ったときから、どこか普通の猫とは違う気がして。」
カイはテーブルの足元で静かに座り、私たちの動きを見守っている。
その姿に、どこか守られているような安心感を覚えた。
夕食が完成した頃には、空がすっかり暗くなっていた。
テーブルには鹿肉のロースト、野菜たっぷりのスープ、焼きたてのパンが並ぶ。
「すごい……本当に料理ができるなんて思わなかった。」
自分でも驚きながら言うと、サイラスが大げさに拍手をする。
「これは立派だ!王宮のシェフも真っ青だな。」
「そんな大げさな……!」
頬を赤くしながらも、私はどこか誇らしい気持ちで料理を見つめた。
食事をしながら、サイラスが旅の話を始める。
「この辺りは獣も多いが、村の人たちは意外と逞しいんだな。森に入るのも慣れてる。」
「そうね。私もこの森でいろいろな薬草を見つけてきたけれど、まだ知らないことがたくさんある。」
「それなら、次は俺が案内してやるよ。薬草探しの冒険だ。」
彼の提案に驚きつつも、どこか楽しみな気持ちが湧いてきた。
◇
カイが椅子の下で眠りにつく頃、食事が終わり、静かな時間が流れる。
マティア婆さんが満足そうにテーブルを片付けながら言った。
「初めてにしては上出来じゃな。これからも少しずつ覚えていくんじゃぞ。」
「はい。今日は本当に楽しかったです。」
サイラスが立ち上がり、軽く伸びをする。
「それじゃ、そろそろ俺は行くよ。また何か獲物が取れたら持ってくるから。」
「気をつけてね。」
彼の後ろ姿を見送りながら、私は小さく手を振った。
暖かい光が灯る家の中で、心が静かに満たされていくのを感じていた。