月明かりの門出
冷たい夜風が頬を撫でる。
屋敷の重厚な扉がゆっくりと閉まり、その音が静かな庭に響く。
振り返らず歩き出した私は、背後に広がる庭園の花々がぼんやりと視界の端に映るのを感じた。
それでも、私の目は前を向いていた。
「これが自由……皮肉なものね。」
吐き出した言葉は、夜空に溶けて消えた。
月明かりだけが、私の歩む道を静かに照らしている。
◇
屋敷の門を越えると、質素な馬車が待っていた。
紋章のない馬車は、アルベルト家の誇りを切り捨てた私自身のようだった。
執事がランタンを掲げ、静かに一歩進み出る。
「お嬢様、こちらをお使いください。」
彼の声は穏やかで落ち着いていたが、その瞳の奥には微かな悲しみが宿っていた。
私は一瞬、彼の手元のランタンに目をやる。
その灯りは暖かく、冷えた私の指先まで届きそうだった。
「お父様のご意向ですか?」
私が問いかけると、彼は短く頷いた。
「はい。お嬢様の行き先までお送りするよう、旦那様からの指示です。」
馬車の扉に手をかけながら、一瞬足を止めた。
執事の顔には何の感情も浮かんでいない。それでも、長年仕えた彼の目が言葉以上に多くを語っているように感じた。
「……ありがとう。」
彼の手元のランタンが静かに揺れるのを見届け、私は馬車に乗り込んだ。
馬車が静かに動き出し、蹄の音が夜の静寂を切り裂く。
窓の外に映る景色は、ぼんやりと揺れ続けていた。
私の胸には、奇妙な冷たさが広がっている。
「婚約破棄……悪役令嬢……。」
冷たい言葉たちが、耳の奥で繰り返される。
王宮の華やかな光景と、そこに響く嘲笑が頭をよぎる。
あの夜、私は王子のそばで微笑む新しい恋人の瞳を見つめた。
怯え、戸惑うようなその瞳――。
(私は、何を間違えたのかしら……。)
王子のために尽くした日々。
裏で手を回し、彼に害をなす者を排除する。
それはアルベルト家の務めであり、私の婚約者としての役割だった。
だが、その努力が彼の心に届くことはなかった。
「結局、私は彼にとって冷たく非情な存在だったのね。」
静かに吐き出した言葉は、馬車の中に吸い込まれた。
胸に押し寄せる痛みは、冷たく、どこか空虚だった。
◇
街の外れに差し掛かった頃、馬車が緩やかに停まった。
御者が振り返り、短く言う。
「ここでよろしいので?」
「ええ、大丈夫です。」
静かに答えると、御者が荷物を降ろし始めた。
その手つきは丁寧で、まるで私の心を気遣うようだった。
「お嬢様、どうかお気をつけて。」
その言葉に、私は少しだけ微笑んだ。
「ありがとう。」
感謝の言葉が自分の声に乗ったのを感じた瞬間、胸に小さな暖かさが生まれた。
御者の馬車が遠ざかり、夜の静けさが戻ってくる。
私の目の前には、ひっそりと佇む小さな宿屋が見えていた。
宿屋の扉を開けると、温かな光が私を出迎える。
受付に座っていた年配の女性が顔を上げ、柔らかな笑みを浮かべた。
「いらっしゃい。旅のお方かい?」
「ええ、一晩泊めていただけますか?」
女性は快く頷き、鍵を渡してくれる。
「寒かっただろう。部屋を準備してあるから、ゆっくりしておいき。」
その優しい言葉に、胸の中に溶けるような暖かさを感じた。
鍵を受け取り、案内された部屋に入る。
シンプルな木製のベッドと小さな机。
窓の外には、澄んだ月明かりが広がっている。
「……これで、本当に自由になったのね。」
呟く言葉に、どこか虚しさが混じっている。
それでも、ベッドに腰を下ろした瞬間、全身の力が抜けるような安堵が広がった。
しばらくして、軽いノックの音が響く。
扉を開けると、女将が湯を張った桶を持って立っていた。
「うちには風呂はないけど、身体を拭くだけでもさっぱりするだろう。」
その気遣いに、胸がじんわりと温かくなる。
「ありがとうございます……お世話になります。」
部屋に戻り、桶の湯にタオルを浸して顔を拭く。
湯の温かさが、冷え切った体を少しずつ癒やしていく。
窓辺に立つと、月明かりが私の顔を照らしている。
今の私は、どこへ向かえばいいのだろうか――。
その問いが浮かんでは消えた。