重厚な扉の向こう
馬車が石畳の上を進む音だけが静まり返った夜に響く。
私は窓の外に目を向けていたが、そこに映るのは揺れる街灯の明かりと自分のぼんやりとした顔だけだった。
「婚約破棄された令嬢ね。」
そんな言葉が耳の奥で繰り返される。冷たい視線、軽蔑のささやき。
それでも、心のどこかでは妙な安堵が広がっていた。
「自由になれる……本当に皮肉だわ。」
思わず呟いた言葉は、馬車の中に溶けて消えた。
だが、解放感とともに胸に残る重みは何なのか、自分でも答えが出せないままだった。
◇
屋敷の門が近づくにつれ、心の奥に冷たい手が忍び寄るような感覚を覚えた。
アルベルト家――代々、王家の「影」として暗殺や諜報を担い、盤上の駒として動き続けてきた一族。
そして私は、その駒の一つにすぎない。
馬車が停まり、執事が出迎えた。
「お嬢様、お帰りなさいませ。」
彼の低い声は、屋敷に響く鈴のように静寂を破った。
「旦那様が、お嬢様にお話があるとのことです。執務室にお越しください。」
「……わかったわ。」
返事をすると、執事の背中が少しだけ硬くなったのがわかった。
屋敷の中はいつも通りに整然としていたが、メイドたちの視線が微妙に揺れている。
彼女たちが私をどう思っているのかはわからない。
だがその視線に含まれる感情は、同情か、それとも好奇心か――。
階段を一歩一歩上がるたびに、胸がぎゅっと締め付けられる。
「父は、私をどう思っているのだろう……。」
思わず足が止まりそうになるが、深く息を吸って冷静さを保つ。
執務室の前に立つと、扉の重厚感が圧し掛かるようだった。
――さあ、終わりを迎えましょう。
私は手を伸ばし、ノックをする音が廊下に響いた。
「入れ。」
扉の向こうから冷たく低い声が響く。
ゆっくり扉を開けると、父が執務机に座って書類をめくる音が耳に入った。
暖炉の火が静かに揺れているが、その光すら父の背を冷たく映しているようだった。
「ルナフィーネ。」
名前を呼ばれただけで、胸が苦しくなる。
「お呼びいただきましたので伺いました。」
抑揚のない声で答える。感情を見せてはいけない。
父はしばらく書類から顔を上げなかったが、やがてペンを置き、冷たい瞳で私を見た。
「婚約破棄の件、聞いている。」
「はい。」
「アルベルト家に泥を塗るような行為は、非常に遺憾だ。」
その言葉は、氷の刃のように胸に突き刺さる。
だが、その次の言葉が意外だった。
「だが、王子も愚かだな。アルベルト家を敵に回すというのはどういう了見か。」
その言葉に少し驚きながらも、私は静かに父の次の言葉を待つ。
「だが、お前も期待に応えきれなかった。お前にしては不甲斐ない結果だ。」
父の視線は私を射抜くようで、否定することすら許されない雰囲気を纏っていた。
「申し訳ありません。」
私はただ頭を下げるしかなかった。
「これからどうするつもりだ。」
父の問いは冷たく響いたが、その中に一瞬だけ揺らぎのようなものを感じた。
「お願いがあります。」
そう答えると、父の眉が動くのが見えた。
「……何だ。」
「この家を出る許可をいただきたいのです。」
父の瞳が僅かに細まる。だが彼の表情は冷徹さを失わなかった。
「そうか……。」
一瞬の沈黙の後、父は深く息を吐いた。
「アルベルト家の名を捨てるということだ。それでいいのだな。」
「はい。」
そう答えた瞬間、胸に冷たく広がる痛みと、どこか暖かさの混じった感覚があった。
「覚えておけ。アルベルト家の名に頼ることは許さない。己の力で生きろ。」
「承知しました。」
父の言葉に深く頭を下げると、扉に手をかけた。
だがその瞬間、背後から微かに声が聞こえた気がした。
「……気をつけろ。」
振り返ることはせず、私は静かに扉を閉めた。
◇
階段を降りるたびに足が軽くなる気がした。
これでいいのだ。
アルベルト家の檻から出る。それが今の私にとって唯一の「自由」だった。
玄関ホールに戻ると、専属のメイドであるマーサが待っていた。
「お嬢様……旦那様は何とおっしゃいましたか?」
「許可をいただいたわ。」
彼女はしばらく無言で私を見つめていたが、やがてため息をついた。
「本当に……行かれるのですね。」
「ええ。ここには、もう私の居場所はないもの。」
マーサの手伝いで荷物をまとめながら、私はふと窓の外を見つめた。
夜空に浮かぶ月が、私の進む先を照らしているように見えた。
「さようなら、アルベルト家。」
私は心の中で呟き、屋敷の扉を静かに閉めた。