揺らぐ王宮の影(王子と男爵令嬢レイナ)
秋の柔らかな日差しが庭園を照らし、木々の紅葉が風に揺れる。噴水からは水しぶきが上がり、その音が静寂の中で響いていた。澄んだ空気には涼やかさが漂い、誰もが心を落ち着けるには最適な日だと感じるだろう。
けれど、レイナ・ヴァレンティアにとって、この美しい庭園も噴水の音も、今はほとんど意味をなしていなかった。
「最近の王都は、少し騒がしいですね。」
ふわりとドレスの裾を揺らしながら、彼女は目の前の王太子カイルに微笑みかけた。その声は柔らかく、どこまでも上品に響く。
だが、カイルの返答は冷たかった。
「……そうだな。」
噴水を見つめたまま、彼は短くそう答えるだけだった。その表情には陰りがあり、どこか心ここにあらずといった様子だ。
(また、あの女のことを考えているのね――ルナフィーネのことを。)
その名を心の中で呟くたびに、レイナの胸には焦燥感が広がる。
ルナフィーネ・アルベルト――かつて王宮の華と呼ばれた伯爵令嬢。彼女は美しさと気品を兼ね備え、誰もが羨む存在だった。しかし、その裏では悪事を働き、民を苦しめていた――少なくとも、そう裁かれた。
彼女を断罪したのは自分だ。真実を暴き、カイルに証拠を示し、彼女を追放させたのも全て自分だ。
(なのに、なぜあなたはまだ彼女を引きずっているの?)
「ルナフィーネ様がいなくなってから、王宮は随分と清々しくなりましたね。」
わざと明るい声で話しかけながら、レイナはカイルの表情を観察する。
しかし、返ってきたのは小さな頷きだけだった。その反応に、レイナの笑顔はかすかに引きつる。
(どうしてそんな顔をなさるの?私たちの選択が間違っていたとでも言うの?)
レイナは噴水の水面を見つめるカイルを睨むように見上げた。自分の中に渦巻く苛立ちを抑えるように深呼吸し、柔らかな声を保ちながら再び問いかける。
「カイル様?もしかして、ルナフィーネ様のことをお気にされているのではありませんか?」
その言葉には、わずかな棘が混じっていた。
「そんなことはない。」
即座に返された答え。しかし、その視線は依然として噴水の向こうを捉えたままだった。
(嘘だわ。)
レイナは心の中で唇を噛んだ。
「王宮にとって害でしかなかったあの方――今となっては、私たちがどれほど正しい選択をしたかがよくわかります。」
彼女の言葉には力がこもっていた。けれど、その意図が伝わったのか、カイルは短く「そうだな」と呟くだけだった。その曖昧な反応が、レイナの中の怒りに火をつける。
(まだ忘れられないのね。彼女がここにいたときのことを……。)
カイルのそっけない態度を前にしても、レイナは笑顔を崩さなかった。むしろ、その笑顔を保つことに全神経を集中させていた。
「カイル様、どうか思い出してください。」
彼女は一歩彼に近づき、噴水の音にかき消されないよう、やや低い声で続けた。
「私は、あなたとこの王国のために全てを尽くしてきました。そして、これからも――どんな困難があろうと、私はあなたを支えます。」
彼の反応を期待して言葉を繋げたが、カイルは彼女を見つめることなく、庭園の出口に向かって歩き始めた。
「お話はまだ終わっていませんわ、カイル様!」
思わず声を張り上げたレイナ。しかし、彼は立ち止まることなく去っていった。
噴水の音だけが庭園に響く中、レイナはぎゅっと拳を握りしめた。その瞳には冷たい光が宿っている。
「どうして……。」
声に出さずに呟き、彼女は空を仰ぐ。この美しい庭園の中に、自分ひとりだけが取り残されたような感覚に襲われた。
(ルナフィーネ……あの女がどこで何をしているのか知らないけれど、もうこの王宮に戻ることは許さないわ。絶対に。)
カイルの心を自分のものにするためなら、どんなことだってやり遂げてみせる。彼の未来に自分以外の誰かがいることなど、決して許せない。
レイナは深く息を吸い、静かに誓った。
「カイル様が私を認める日まで――私は全てを手に入れてみせる。」
冷たい秋風が吹き抜ける中、彼女の微笑みは薄く歪んでいた。