薬師としての第一歩
翌朝、私は新居に移るための荷造りをしていた。
リュックに必要なものを詰め込みながら、これまで過ごしたマティアの家を見渡す。狭いけれど温かいこの空間が、私をどれだけ安心させてくれたか――言葉にするのは難しい。
「リナ、本当に引っ越すんだな。なんだか寂しくなるよ。」
マティアが笑いながらそう言った。彼女には本当に世話になった。この家がなければ、私は今頃どうなっていたかわからない。
「マティアさん、今まで本当にありがとうございました。これからは自分の力で頑張ります。でも……また会いに来てもいいですか?」
「もちろんだよ。困ったことがあったらいつでもおいで。そうだ、これを持っていきな。」
そう言って、彼女が手渡してくれたのは乾燥させたハーブや貴重な薬草が詰まった大きな布袋だった。
「これ、私にはもう使い切れないから、あんたが持っていきなさい。」
「ありがとうございます。大事に使います。」
私は深く頭を下げた。そのとき、足元でふわりと黒い影が動いた。振り返ると、カイがこちらをじっと見つめている。
「カイも連れて行くのかい?」
マティアが微笑みながら問いかける。
「ええ、私だけ新しい場所に行くなんて、カイが納得するはずないですから。」
カイは黒い毛並みと深い青い瞳を持つ猫だ。
マティアの家で暮らしている間、ずっと私のそばにいてくれた。
彼を置いていくなんて考えられない。
「そうだね、カイならきっと新しい家でもリナを守ってくれるよ。」
玄関を出ると、サイラスが軽く手を振って待っていた。
「よし、出発だな。カイも一緒か。」
「ええ。新しい場所でも、カイがいてくれたら安心です。」
そう答える私に、彼は柔らかく微笑んだ。
◇
新居に到着し、玄関を開けた瞬間、ひんやりとした空気が流れ込んできた。古い建物特有の冷たい空気だが、そこには確かに「私の場所」があった。
カイはすぐに部屋の中を探検し始めた。薬棚をひとつひとつ確認するように歩き回り、時折私を振り返る。
「荷物を置いて、少し片付けるか?」
サイラスが言う。
確かに、1階の店舗スペースにはまだ古い薬瓶や器具が散らばっていた。
「そうね。せっかくだから少しずつ片付けて、1階を整理しておこうかしら。」
「その意気だ。よし、俺も手伝うぞ。」
埃っぽい空気の中、私たちは掃除を始めた。かつて薬屋だったこの場所には、懐かしいような温かさがある。カイも興味津々で棚の上や調剤台を飛び回り、毛が陽の光を浴びて輝いている。
「ここ、本当にいい場所だな。リナにピッタリだ。」
サイラスがそう言いながら、埃まみれの手を払っている。
その言葉に私は小さく微笑んだ。
◇
掃除を終えたころ、夕日が窓から差し込み、店舗スペースを暖かな光で包み込んでいた。
薬棚には空っぽの瓶が並び、まるで「再び使われるのを待っている」ように見えた。
「ありがとう、サイラス。本当に助かったわ。」
「気にするなよ。俺も楽しかったよ。」
その夜、カイと2階の部屋で過ごしながら、私は今日一日を振り返っていた。
まだ片付けが残っているけれど、こうして新しい家にカイと一緒に住む生活が始まったのだ。
「カイ、これからここが私たちの家だよ。」
彼は私の言葉を理解したかのように小さく喉を鳴らし、私の膝の上で丸くなった。
◇
数日後、薬の瓶などの整理をしていると
「近所の人に聞いたんだけど、ここって薬屋さんになるの?」
現れたのは近所の女性だった。
「ええ、まだ準備中ですけど……。」
「そっか。実は子どもが最近風邪をひいちゃってね、病院まで行くのも遠いし、もし簡単な薬があればと思ったんだけど……。」
その言葉に、私は自分がこの場所でできることを改めて考えた。
冒険者として依頼をこなすだけでなく、街の人々の役に立つ場所を作ること――それがこの家でできることかもしれない。
「少し待っていてください。すぐに準備します。」
私はそう答えて、調合を始めた。
2階の部屋に駆け上がり、マティアからもらった布袋を手に取った。
袋を開けると、ほのかに漂う優しい香りに安心感を覚える。これを使う時が来たのだ。
調剤台に戻り、風邪に効く薬草を選び出す。
エルダーフラワー、ペパーミント、カモミール、ジンジャー。これらを慎重に組み合わせ、鍋で煮立たせていく。
「これで十分……。」
10分ほど煮出した液体をこし器で濾し、黄金色の薬をカップに注ぐ。女性に薬を手渡すと、彼女は安堵した表情を浮かべた。
「この薬をぬるめに冷まして飲ませてください。喉の痛みが和らぐはずです。」
「本当にありがとうございます。あなたがいてくれて助かるわ。」
私は照れくさそうに微笑んだ。
その夜、私は布袋を見つめながら思った。
今日はこの薬草のおかげで、初めて「薬師」として人の役に立つことができた。
これからは冒険者としてだけでなく、薬師としてもこの街での生活を支えていきたい――その思いが胸に広がった。
「少しずつでいい。私にできることをやろう。」
そう決意を新たにしながら、私は次の調合に向けて準備を始めた。