みかくめさま
バイト帰りの帰り道は公園に差し掛かったあたりで街灯が少なくなり、一気に暗闇の濃度が濃くなる。私はいつもこのあたりで体調が悪くなってしまう。
いや、正確には心身の状態が悪くなる。
胸のあたりにどんよりとした感情が溜まり、どうしようもなく厭な気分になる。
今日の行動を思い返し後悔する。誰かの顔が頭に浮かんで、嫉妬とも自責ともつかないような感情が渦巻く。過去の失敗を思い出し、不安と羞恥に苛まれる。
ここは——悪い場所だ。
魔の通り道、とでも云うのだろうか。しかし、化け物のようなものに出くわすわけでもなければ、そうした霊的な気配を感じるわけでもない。
ただただ——厭な気持ちになる。
憂鬱で——自虐的で——破滅的な。
俯きがちに闇に溶けたアスファルトを見ながら早足で歩を進める。
——考えても仕方のないこと。
そう自分に言い聞かせながら。
逃げるように。
——何から?
いったい何から、そんなに逃げようとしているのだろうか。私は、いったい何に怯えているのだろうか。遠ざけたいのは——。
自分、なのだろう。そんなことは、わかっている。
カッカッカッカッと足音が響いて、やはりここには自分しか居ないのだという気持ちが強くなる。だんだん、音の間隔が短くなっている。吐く息は熱を帯び始めて、霧のようになる。駄目だ、眩暈がする。もう、家の近くまで来ていてもいい頃だった。
私は療養中の病人のように気怠く顔を上げた。
見たことのない、鬱蒼とした森がそこにあった。
途端に風の巻き上げるような音がして、木々が騒めき始める。この世界の音が唐突に生き返ったように、あるいは元からそうであったかのように乾いた音を響かせる。カラスがカアカアと鳴いている声が聞こえる。
おかしな現象のはずだった。だが、不思議なことに動揺はなかった。それどころか私にはこの森の先に目的地があるという妙な確信があった。地図アプリで設定した目的地の周辺まで来た時のように、微量な安心と達成感を内混ぜにした気持ちだけがあった。
もちろん家の帰り道を少し間違ったところでこんな森に行き着くことはあり得ないし、そもそもさっきまで私は家に帰りたかったというのにこんな気持ちでいることも不自然だった。
導かれるように、森の中へ入っていく。舗装された土の道に腰くらいの高さの丸太が二本、入り口を作っていた。何やら文字が書いてあるようにも見えたが、暗くてよくわからなかった。月明かりだけが頼りだったが、森の中はさらに暗い。木の匂いが濃く、むせかえりそうになる。
——小屋だ。この先に、小屋がある。
幽鬼のように前のめりに足を進めると、足元に小動物の死骸が増え、果たしてそこにはやはり煉瓦造りの小屋があった。
そこはまるで絵本にでも出てくる、およそ人が住むことはできない、動物たちが暮らすような小屋だった。
私はその小さな家の前に立ち、木製のドアを見つめた。
入っていいのだろうか。
私はこの先に進むことによって取り返しのつかない後悔に襲われることを予感していた。入ってしまえば最後、混迷と猜疑に満ちた、あるいは恐怖と絶叫に満ちた世界から帰還することは難しいのではないか。
ドアは異界の入り口そのものだ。
現実から非現実へ、実在から虚構へ、生から死へ、成人から赤子へ。すべてを奪われ無抵抗にされた後、生殺与奪の権利を自由に弄ばれてしまう地獄への一方通行である。
——しかし。
私はその先が見たい。
見たくて、知りたくて、仕方がない。知識の渇望とは違う性質の、ある種の下卑た好奇心。火災現場の野次馬のような、低俗で腐り切った怖いもの見たさ。
私はドアの取手に手をかけ、異界への扉を開くことにした。この先を見るために、私は私の命を、そのくだらない欲求のために賭けた。
カチリと小気味のいい音で扉が開く。
小屋の中は、拍子抜けなほど生活感に溢れていた。中央に勉強机があってそこに一冊のノートが置かれており、周りには赤いランドセルや兎の人形や本が散らばっている。窓は奥の壁際に一つ。シンプルな部屋だ。異形も怪異もそこには存在しなかった。
ノートを手に取る。表紙は肌色で何も書かれていない。手触りは若干の経年劣化によってざらつきがあるものの、何の変哲もない普通のノートのように見えた。
中を開くと縦書きで、右側の表紙の裏側こそ白紙だが、最初の一ページ目にはすでにびっしりと文章が書かれている。タイトルのように括弧で囲まれた書き出しは、「安永裕恵」という人名と思われる文字。
「安永裕恵」
裕恵ちゃんは出来損ないの子です。私の子ではありません。私が家から帰ってもただいまも言えないし、脱いだ靴を揃えることもできない、出来損ないの子です。料理は私が作ります。仕事を終えて慌ただしくカバンをダイニングテーブルの椅子に置き、そのまま台所に入って私はスマホでレシピを検索しながら料理をします。裕恵ちゃんは自分の部屋にいて、私を手伝おうともせず、かといって勉強をしているわけでもなくただ呆けたようにぼうっとしてばかりいます。私にはそれが耐えられません。なぜ、ここまで無関心でいられるのでしょうか。私は裕恵ちゃんに対して奉仕ともいえる献身を捧げています。なぜ、その恩返しをしようとしないのか。理解できません。私は私の子どもを理解できません。誕生日に、花束をもらったこともありません。裕恵ちゃんはやはり、私の子ではありません。みかくめさま、どうかよろしくお願いします。ばらかん、ばらかん、ばらきもん。
私は恐ろしさのあまり、ノートを手から落としそうになった。眩暈……。身体中の力が何者かに吸い取られていくような魂の虚脱の中、それでもその先を見ることを止められず、左手で紙を弛ませゆっくりと震えた手を動かす。
次のページも、文字で埋め尽くされていた。人名と思われる「葛木翔」という文字、見開き二ページにわたって母親と思しき書き手の悪意が連ねられた文字、最後に記されている「みかくめさま」「ばらかん、ばらかん、ばらきもん」という文字……。
文字、文字、文字……。まるで文字という形に凝縮された地獄を見ているようだった。
みかくめさまとは、いったい何なのだろうか?
そしてこの母親たちは、いったい何をお願いしているのだろうか?
呆然と立ち尽くした私は、部屋の片隅に立てかけるように置かれたランドセルを見た。赤。女の子のものだ。近寄って中を迷いなく物色する。倫理的に良くないことだとか、そういったことを考える余裕はもはや消えていた。
筆箱。下敷き。そして——六冊の教科書。そのすべての裏側に「安永裕恵」と書かれていた。
——それは。
それは、『厭だ』。
考えたくなくとも考えてしまう。
だって、ノートには母親の呪いのような言葉が綴られていて。
ここにはその子供のランドセルが。
——捨てられたんだ。
ああ。
考えてしまった。
考えてしまっては、駄目なのに。
考えてしまったら。
考えてしまったら、それは「あったかもしれない」ことになってしまうのに。気が付かなければ、気が付かないふりを完璧にしていれば、思考の蓋を閉じきりさえすれば、見たくないものをなかったことにできるのに。
——厭だ。
——自分の考えが、自分の言葉が厭でたまらない——。
安永裕恵は母親に呪いをかけられ、この小屋に迷い込んだ。恐らくここは、そうした呪術の家なのである。だとしたら——。
もう、やめよう。
これ以上は。
この先は、私が私でなくなる。
壊れてしまう。
そんな気がした。
勢いよくドアを開け、外に飛び出した。
私は捨てられてなどいない。私は捨てられてなどいない。私は捨てられてなどいない。私は、壊れてなどいない。
——ただ疲れているだけだ。
なのに、どうして。
真っ黒の木々が立ち並ぶ道へ、私はふらりとした足取りで歩き出す。
大丈夫。帰れる。
まっすぐに歩いていけば、いつかはお家に着く。
——帰り道など、わからないけれど。