浮舟歩美とキミと僕
彼女を見たとき、僕は体の震えが止まらなかった。震えが止まらないと同時に、自分の力で動かすことができない。彼女と目が合っている間、僕は全ての意識を目に集中させ、彼女の姿を目に焼き写し、どうにかして現像できないものかと、本気で考えていた。
京都研究会、このサークルに入ろう。彼女は既に入会を決めているらしい。躊躇する理由は一つもない。今夜の新歓で、仮に同回生、上回生全員に嫌われたとしても、僕は京都研究会に入る。彼女にさえ、彼女にさえ嫌われなければ、僕はどれだけ陰口を叩かれようが、痛くもかゆくもない。好きという気持ちは、それほどまでに心をコーティングし、強いものにするのだ。
四月。同志社大学の正門をくぐる、若々しい男女たち。その中に僕はいた。経済学部は今出川キャンパスだが、入学式は京田辺キャンパスで行う。せっかく今出川に下宿先を借りているのに、初日に遠いキャンパスへ行かなければならないのは、少し不満だ。
入学式が行われる体育館の周りには、こわいこわい上回生がハントをする目で新入生を品定めしている。
「君、テニスやってみない? うちのサークルは、部活と違って、楽しめればそれでいいって感じだから、軽い感じで皆やってるよ! 飲み会も多いし!」
金髪の背が低く、胸の大きい、いかにも男から好かれそうな可愛い先輩が、僕に声を掛けてくる。
「そうですねぇ。テニサーもいいかなって考えてます」
「やったっ! この日とこの日とこの日とこの日と、あとここらへんも毎日新歓やってるから、絶対に来てねっ! 先輩の奢りだし、無料でご飯食べられるよ!」
やりすぎだろ。このテニサーの資金源はどこから来てるんだ。ビラを貰って、会釈してその場を後にする。
その後も有象無象のサークルから勧誘を受け、体育館の席に座る頃には、もうクタクタになっていた。
「経済学部ってここ?」
うなだれている僕に、男が話しかけてくる。もっと他にピンピンしている子がいるだろう。
「ええ、ああ、はい」
ダンベルを上げるような遅い速度で顔を上げ、男を確認する。男は金色の短髪で、耳には小さな赤色のピアスをしている。春休み中に茶髪にしている僕も人のことは言えないが、大分横着そうだ。
「俺、東屋頼道、よろしく」
東屋は、会って早々僕に握手を求めてくる。
「総角光喜。よろしく」
「め、珍しっ!」
差し伸べた僕の手は空振り、東屋は手を叩いて笑っている。失礼な!
「いやあ、四月に入って一番笑ったよ」
つまらない四月、ご苦労様です。
「俺も経済学部だから、仲良くしてよ。光喜でいい?」
あれだけ笑っていた総角の部分は省くんかい。
「いいよ。僕は東屋って呼ぶよ。名前呼びはいままであまりしてこなかったんだ」
「おっけい。新歓も一緒に回ろうぜ。こういうのは早く仲間を作って、そいつとローリングするのがいいんだよ」
確かにその通りだ。それが理由で隣に座っている僕を友達認定したのは、魂胆がスケスケ過ぎるが、裏表がないと分かったことで、僕は東屋の性格を買い始めた。
新歓。一般的に新入生歓迎会の略称として使われている。これがまた、楽しくもあり面倒でもあり、胸に期待と欲望を詰め込んだ一回生には、第一の関門となる。ここで選んだサークルが、大学生活四年間を大きく左右することになる。楽しすぎて四年以上在籍するノー勉人間も多数生まれているらしい。正直、僕はそれでもいいと、心の内に少しだけ思っている。『大学生活は人生の夏休み』と、誰かが言った。この言葉に、大人は何言ってるんだと一蹴するだろう。大学で、将来を見据えた勉強をしろと。でも、当人の多くは、それを理解できない。一八~二二の、自己顕示と自由に溢れた自立と保護の間の人間は、『今』が大事なのだ。そう考える僕も、もちろん今が一番大事だ。四年後に就職を控えている? 四年後じゃないか。今は遊びたい。本気でそう考えている。そしてそれが間違っているとは、思いたくても思えない。
「光喜、今日はここに行こうぜ」
東屋が進めてきたのは、テニサーだった。入学式で声を掛けられた、可愛い金髪の巨乳先輩がいるところだ。
「東屋」
僕は東屋の肩を掴む。
「お?」
「分かってるねぇ」
「いえーい!」
僕と東屋は、テニサーに蔓延する、ピンクの噂に胸を躍らせながら、夕方、新歓会場に向かった。
「ああ! 入学式の! 来てくれたんだっ! 嬉しいなぁ!」
金髪巨乳先輩は、僕の手を引いて、居酒屋の席に案内してくれる。ああ、覚えててくれたんだ。幸せだなぁ。
「ちょいちょい! 置いてかないでくれぇ」
東屋が後ろに付いてきた。僕と金髪巨乳先輩の時間を邪魔するなよ! そう思った矢先、予想に反して、金髪巨乳先輩は、僕を席に座らせると別の場所へそそくさと行ってしまった。
「また後で来るねっ」
「は、はい!」
鼻の下が伸び切っている僕に、東屋が「へへへ」と笑った。
「あの先輩、エロいよなぁ」
僕の彼女でもないのに、なぜか少し嫉妬した。
「そ、そうか?」
本当は激しく同意したいが、東屋の気を抑えるために否定する。
「そうだろ。絶対わざとリブニット着てるぜ。あんなにおっぱいが協調されて。どうしても目がいっちまう。あの先輩、見られることを楽しんでるんだ」
金髪巨乳先輩の周りの男を見てみると、全員が、三秒に一度胸に目線を落としていた。
「なるほど」
そう言って、僕は金髪巨乳先輩の胸を凝視する。距離が離れているのも、意外といいかもしれない。
「このサークル入ったら、あんな子とやれるのかなぁ」
東屋が気の抜けた声で妄想している。僕は返事をせずに、つばをごくんと飲み込んだ。
新歓も一時間半が経過し、成人を迎えた先輩方は、しっかりと酔いが回ってきていた。
「よぉし! 一気いっちゃいますかぁ!」
「いえええええいい!!」
四回生が、三回生を煽り、三回生が一気にジョッキを飲み干す。
「ふうぇぇぇぇいい!!」
「じゃあ、次は、れなちゃんいこうか!!」
「はぁーい」
金髪巨乳先輩が立ち上がり、ジョッキになみなみ注がれた、ライムサワーをほっぺに当てる。
「れな、いっちゃいまーす」
「ふうぇぇぇぇい」
男たちは、ごくごくと飲む金髪巨乳先輩の顔を見ることはなく、胸と、ショートパンツから露わになるムッチリした太ももを交互に楽しんでいる。
「ぷはぁ。気持ちいい~」
「ひゃほおおおおいい」
……。
僕の中で、熱いものが一気に冷めていくのを、確かに感じた。違う。これは違う。ある程度は予想していた。テニサーと言いながら、さほどテニスをやらないサークルの飲み会。今目の前にしている光景を目当てに来た節もある。でも、実際に体験すると、僕に合っていないと、この気持ちの悪いほどに欲と自由にまみれた空間にはついていけないと、そう分かった。
僕はもっと落ち着いたサークルがいい。健全な活動に、健全な飲み会。勉強もやっぱり落ちぶれない程度にはしよう。せっかく難関大学に入れたんだ。このサークルのおかげで、少しだけ正気を取り戻せた気がする。
「東屋、僕はもう帰るよ。東屋はどうする?」
僕は、彼がどう言おうが、席を立つつもりだ。東屋は、頬を引きつらせ、僕に言う。
「俺、これは無理だわ」
東屋とは、長い付き合いができそうだ。その日の二一時頃、二人で牛丼を食べ、僕らはそれぞれの家に帰った。
その後も、毎日違う新歓に顔を出しては、自分がどのサークルに入るべきか、吟味する期間が続いた。
「いやぁ、むずい! むずすぎるだろ! サークル選び」
昼休みの食堂で、東屋が頭の後ろで腕を組んだ。
「ちょうどいいサークル、なかなか見つからないね」
僕は胸の前で腕を組む。
「パリピ過ぎてもついていけないし、地味サーに行くと芋ばっかりだ。真ん中、ちょうど真ん中にビタッと来て欲しいわけよ」
「激しく同意」
二人で「うーん」と唸る。
「今日行くところは決めてるの?」
僕は東屋に尋ねた。
「もう弾は尽きた。適当に良心館前をうろついて、やってる新歓に行こう」
「了解」
一緒に履修している四限目を終えて、新歓のプラカードを持った上回生を探す。
もう新入生を囲い込むスタートダッシュ期間も終わり、新歓を大々的に開くサークルは少なくなっていた。そんな中、今出川キャンパスで最も大きな校舎、良心館前には、背の高い筋肉質な上回生が、プラカードをでかでかと掲げていた。そのプラカードの字を、目を細めて読む。
「京都研究会……か」
少し離れた場所で、僕と東屋は検討する。
「良いかもしれない。イケイケドンドンな人は少なそうだし、僕らみたいな地方出身者も多そうだ」
「でも、全然人集まってないぞ。普通、ああいうのは優しそうな見た目をした人が勧誘するのに、なんであんな強面のキン肉マンなんだよ」
東屋はあごに手を当て怪しんでいる。
「もしかして、女子があんまりいないんじゃないか? だったら、俺は嫌だぞ」
「行ってみないと分からないじゃん。僕は行くよ」
「ちょ、待って」
京都研究会のプラカードを掲げる、筋肉質の先輩に近付いていく。
「あの、すみません……」
男は、僕とすぐ後ろにいる東屋に気付くと、距離感を忘れた、とびきり大きなバグった声を出した。
「おお! 一回生!?」
「はい、新歓に参加したいんですけど」
「おっけーおっけー! いやあ、今年は思ったより人が集まらなくて困ってたんだよ! よかったよかった!」
おそらくあなたのせいですよ。
「店に直行している一回生もいるから、今日は全部で一〇人くらいかな? 女子もいるぜぇ。楽しみだろ?」
先輩は肘で僕の肩を突いた。後ろへ数歩下がってしまうほど、力がある。東屋は、女子もいるという発言で、瞬間的に前のめりになっていた。
「いやぁ、楽しみです! 先輩は、会長ですか?」
東屋が先輩に尋ねる。
「おう! 京都研究会会長の、蜻蛉正則だ。正則先輩でいいぞ。こわくないからな」
正則先輩は、そう言って、大胸筋をピクピクさせた。それがこわいんだよ。
新歓会場の居酒屋に着くと、既に飲み会は始まっていた。半個室に入った瞬間、僕は意識の全てを、一人の女性に奪われた。
彼女の姿が目に入ったとき、僕は体の震えが止まらなかった。震えが止まらないと同時に、自分の力で動かすことができない。彼女の姿を目に焼き写し、どうにかして現像できないものかと、本気で考えていた。
「おーい! 光喜、そこ空いてるぞ。おーい」
まだあって間もない正則先輩に、いきなり名前を呼び捨てにされたことで、ハッと意識が正常に戻る。彼女の隣の席が空いていることを確認する。
「あの、そこじゃなくて、あそこでもいいですか?」
僕は正則先輩の指定した席を断り、彼女の隣を直談判する。
「おお。もちろんいいよ。なんだ、歩美が気になる感じか?」
正則先輩はニヤリと笑った。
「はい」
僕は嘘をつかず、堂々と宣言する。それほどまでに、彼女がタイプだった。
「歩美はもう入会を決めてるぞ。なら京都研究会に入らない手はない。一人確保で考えておくからな」
正則先輩は、ポンと僕の背中を叩いた。優しい怪物が、じゃれあっているつもりでも、相手はめちゃくちゃにダメージを受けているように、僕は背中がヒリヒリする。
「どうも」
正則先輩に、歩美と呼ばれていたその子は、扇子の模様をあしらった小紋を着ていた。新歓に着物で来るなんて、他とは違う異質で妖艶な雰囲気に、どんどんと惹かれていく。
「どうも。同回、ですかね?」
彼女は、前髪の揃った黒髪ボブの片方を、耳へかきあげながら、話しかけてきた。
「は、はい。経済学部一回生の、総角光喜と申します」
「申しますって、丁寧すぎます」
ふふふと口に手を当て笑う彼女に合わせ、僕も緊張で引きつっている口角を、強引に上げる。
「あなたの名前は?」
「私ですか? 浮舟歩美と申します。経済学部です。あ、私も申しますって言っちゃった」
か、可愛い!!!
「なんてお呼びすれば?」
「そうですね。浮舟さんですかね」
浮舟さんは、ウーロン茶をちぴちぴと飲んだ。ああ、飲んでいる姿、その喉ぼとけまで可愛い。てか、名前も可愛い!
「浮舟さんは、普段からそのお恰好なんですか?」
「そうですね。小紋が着やすいんです。慣れってこわいですよね。あ、もっとくだけた話し方で大丈夫ですよ。この見た目ですから、皆さんそんな感じの接し方なんですけど、私はもっとラフにいきたいです」
「そうですか。じゃ、じゃあ、タメ口で。同じ歳ですし」
「はい。私も、徐々にタメ口に変えていければと思ってます。仲良くしていきましょう」
浮舟さんからフランクに行こうと提言してきたのに、浮舟さん自身は最初は敬語なあたり、可愛い。
「そのチープカシオ、良いですよね」
浮舟さんは、僕が左手にはめている腕時計を指さした。
「ほら、私もつけてますよ」
僕は衝撃を受けた。小紋にばかり気を取られていて、気付かなかった。僕と浮舟さんがしている腕時計が、同じだったのだ。
「ええ、えええ!?」
「えへ? そんなに驚くことじゃないじゃないですか」
浮舟さんはふふふと微笑んだ。
「軽くて壊れないし、何よりデザイン性が良いですよね。電卓がついてるなんて。まあ、この小さなボタンで計算するなんて、相当切羽詰まっているときくらいでしょうけどね」
僕は、驚きの後に、大波で嬉しさが襲ってきた。
「だよね! 僕がこのチープカシオを知ったきっかけは、バックトゥザフューチャーのマーティマクフライが着けてたからなんだけどね。それがとにかくかっこよくて! で、調べてみたら、三〇〇〇円もしないんだよね! これは良い買い物だと思って、すぐにポチッたよ。後々調べてみると、ダークナイトのジョーカーも着けてるみたい。ハリウッドと切っても切り離させない時計なんだよね」
浮舟さんは、黙ってにこやかに、僕の話を聞いてくれている。
「総角くん、映画好きなんですか?」
「一人っ子だから、小さいころから家で見てたかな。暇だったからさ」
「そうなんですね。私も好きですよ。同じく一人っ子です」
ああ、嬉しい。嬉しいなぁ。共通点が多すぎる。
「どんな映画が好きなの?」
「それこそ、バックトゥザフューチャーなんかは、私もそれがきっかけでチープカシオを買いました。後は、邦画も好きですね。サマータイムマシンブルースとか、同じタイムトラベル系なんですけど、日本のコメディ力が出ていて、面白いです」
今この瞬間、奇跡が起きている。サマータイムマシンブルース、僕もめちゃくちゃ好きな映画だ。
「分かる! めちゃくちゃ分かる! 伏線とその回収が見事だよね! シャンプーとか、河童伝説とか、あとやっぱり未来人が自分の子供だったとかね。ああ、浮舟さんとは、楽しい話がたくさんできそうだ」
僕は、ビールを飲むように、コーラをグビグビと飲み干し、机に勢いよく空のジョッキを置いた。
「もう一杯!」
「いや、どっちの意見も分かるよ。アクションとかはさ、画に集中したいっていうのがあるじゃんか。だから吹き替えの方がいいとか、演技で魅せる作品は、字幕じゃないとその本質は伝わらないとかさ。でも、どっちも正解だよ。そこでいがみあっても仕方がないじゃん」
「そうですね。その通りです」
「でも、小さい画面で映画を観るのは反対だな。今やVODでテレビで映画を観られるけどさ、二四型とか、三二型とかさ、そんなんで観てもちっさいちっさいでしょう。五〇は欲しいかな。今下宿してるけど、両親に頼み込んでなんとか五五型を買ってもらった。おかげで部屋のほとんどがテレビだよ。嬉しい悲鳴だ」
「そうなんですね。分かります。画面は大きければ大きいほど良いですよね。私は、家にミニシアターがあります」
「……え?」
新歓が始まって二時間ほど経っていた。僕と浮舟さんは、夢中で会話を楽しんでいた。いや、僕が一方的にペラペラ喋っているだけかもしれない。それでも、浮舟さんの相槌はとても心地よく、時折浮舟さんのターンになると、興味がそそられる話を短くしっかり出してくれる。
「ミ、ミニシアター?」
「はい。本当に小さいですけどね。六席しかない小さなものです。でも、音響は拘ってるんですよ」
僕は、会話の節々で出てくる、浮舟さんの尋常ではないエピソードと、普段から小紋を着ていることを、照らし合わせた。
「浮舟さん、とんでもない名家の人とか、そういうのなの?」
浮舟さんは、小首を傾げた。
「どうでしょう? 家にミニシアターがあって、お手伝いさんが三人いて、お風呂は四つあって、サウナは三つあって、トイレは五つあって、庭には鯉が泳いでる、そんなところですよ」
「金持ちじゃんっ! 庭に鯉飼ってるのは金持ちだから!」
「まあ、そう言われればそうかもしれませんけどね」
浮舟さんは、目を細めてクシャッと笑った。その笑顔は、嘘偽りない純粋そのものだ。自慢するでもなく、本気で、自分が金持ちかどうかは、相手の判断に任せますと、そう思っているように感じる。金持ちもいくところまでいくと、気持ちがいい。僕はますます浮舟さんのことが好きになる。
「はーい! もうそろそろお開きだ! みんな仲良くなれたかー!?」
正則先輩が、立ち上がって締めの挨拶をし始めた。
「例年よりは少ないが、今年もまずまずの人数の一回生が入ってくれる。何回も新歓に来てくれている子もいて、俺はすごく嬉しい」
急に、手のひらで目を覆い始めた。
「会長、泣かないで。もう、泣き上戸なんだから」
他の先輩が横から突っ込む。
「俺が会長になって、初めての新歓。どうなるかすごく不安だった。誰も来ないんじゃないかって。でも、このサークルに入りたいっていう子は確かにいて、それが、それが俺は嬉しんだよ!」
「はいはい。もうそれは聞いたから。みんな、店から出て。店前で一本締めして解散で」
先輩が正則先輩を座らせ、背中をさすっている。なんだか雰囲気も良いじゃないか。正則先輩も見た目に反して優しそうだし、このサークルに入ろう。浮舟さんがいる時点で確定事項だが、自分の中で、入会を再確認する。
「おう、どうだった?」
店の外に出ると、東屋が話しかけてきた。
「楽しかったよ。僕はこのサークルに入るよ」
「俺も。結構女子可愛いよな。やっぱり、京都が好きな人はおしとやかな子が多いよ。タイプばっかだ」
東屋の入る理由を、僕は否定しない。
「光喜、お前、着物の子とずっと喋ってたよな。良い感じの子なの?」
「さあな」
「なんだよ。教えてくれよ。どんな話した? エロい?」
東屋とは友達でいたい。同じ人を取り合うとか、そんな昼ドラ展開は避けたい。
「まあ、普通の子だよ。服装以外は」
本当は終日かけてべた褒めしたいほどに、魅力に溢れているが、その魅力は僕の胸の内にしまっておこう。
「さあ、一本締めするよ」
まだ泣いている正則先輩の代わりに、副会長の女性先輩が、掛け声を上げる。
「よーおっ」
パチン。
「ありがとうございました! 入会希望者は、この後わたしのところまで来てね」
見渡すと、浮舟さんの姿はなかった。まあ、既に入会を決めているらしいし、手続きも済ませているだろうから問題ないのか。門限とかありそうだし、ささっと帰ったのか。
副会長の下に行き、入会手続きをする。
「じゃ、入会費は確かに受け取ったから。後で招待するから、グループライン入っておいてね」
浮舟さんに、最後に一言挨拶したかったな。
いや待てよ……挨拶、そうか。直接言う必要はない。というか、これは逆にチャンスなのではないのだろうか!
「おい、なんかキモいぞ」
妄想が膨らみニヤける僕を見て、東屋が怪訝な顔をした。
鉄は早いうちに打てという。一方、駆け引きが大事だともいう。恋愛において、それはどちらが正しいのであろうか。いや、どちらが正しいのかのものさしで測るべきではない。どうしたいのかなのだ。僕は、今すぐにでも、浮舟さんと繋がりたい。
『今日はありがとう。たくさん喋れて楽しかった』
送信ボタンに近付ける指が、震える。この期に及んでビビってるのか、自分! 送らない選択肢はないだろう! ボタンをタップすれば、繋がれるんだ。
でも、既読無視されたら?
心の中のリトル総角が語りかけてくる。くうう! それはきつすぎる! スタートラインに立つ前に失格になっているようなものではないか! どうする!? やっぱりやめとくか!? 次会ったときに、話しかけるか? でも、次の散策で浮舟さんが確実に来るとは限らないぞ!? 鉄は熱いうちに打て、だろ!?
ピコン。
そのとき、通知画面に映った四文字が、目から脳みそに伝達され、ハッピーホルモンがドバドバと分泌された。「浮舟歩美」の四文字。世界で一番好きな四文字だ。
『今日はありがとうございました。いろんなお話ができて、楽しかったです。総角くんは、京都研究会に入るんですか?』
……どうする!?
ここでまた一つ、問題が発生した。すぐに返信するべきか否か! 人類永遠のテーマといっても過言ではないだろう。すぐに返信すれば、「うわ、この人がっついてるな。キモッ」とか思われそうだし、返信が遅ければ、「この人とのやりとりつまんなーい」とか思われるだろう。これは、これは大事だぞ。新歓での会話の印象は上出来だったと思う。ラインの印象も高評価を貰いたい!
……一五分だ。一五分後に返信しよう。それがベストだ。早くも遅くもない。自分に言い聞かせる。
一五分後。僕は大失態を犯した。何て返信するか、考えていなかったっ!! まずい! 返信内容を早く考えないと、三〇分にも四〇分にもなってしまう! 脳みそをギュインギュインと回して思考する。
結局、浮舟さんからのラインの三〇分後、ようやく返信をすることができた。
『こちらこそ! めちゃくちぇ楽しかった! もちろん入るよ! これからも仲良くしてくれると嬉しい!』
『正則先輩、泣き上戸だったんだね笑。ギャップがすごい笑』
ふう。これでいい。無難だ。僕も楽しかったということを伝えつつ、連投で別の話題を投げることによって、会話を終わらせないようにしている。僕だって彼女くらいいたことある。ノウハウは分かってるんだぞ。そのときは、デートもしないまま一ヵ月で振られたけど。
ここで、また一つミスに気が付いた。誤字っ!! めちゃくちぇって何だよ! めちゃくちゃだろうがっ!! これはどう響く!? 誤字をどう捉えるかは、それこそ相手次第! 「この人、可愛い部分もあるのね」か、「フリック入力もまともにできない人なんだ」か、もしくは、「私とのラインは、適当に打つくらいに、重要じゃないんだ」かもしれない! 最悪のパターンは、三つ目だ。最も事実からかけ離れている。ああ、この時間がもどかしい。むずかゆい。早く返信よ来てくれ。
二時間後。来ないっ!! 返信が! 来ない! もう二四時になりそうだぞ。寝てるのか!? 寝てしまったのか!? ああ、誤字ったまま朝を迎えるのは嫌だ。寝つきが悪くなりそうだ。勘弁してくれ。なんでこんなに上手くいかないんだ。
ピコン。
そのとき、ラインの通知が来る。僕は瞬間的な速さなら、五輪メダリストにも勝てるのではないかと思うほどの速度で、ベットに置いてあるスマホを取る。
『明日って、二限休講だったよな? 一乗寺のラーメン屋行かね?』
東屋!! くそがっ!!!
僕は思い切り暴れ、足の小指を側の机にぶつける。
「ぐわああああ」
大きなテレビのある、小さなワンルームで、さえない男が一人叫ぶ。ベッドに背中から倒れ、目をつむる。
……映画でも見るか。何か、深く考えなくていい、適度に笑えるやつを。そうだ。ハングオーバーがちょうどいいか。あれは失敗話だし、今の僕は他人の失敗を微笑ましく楽しめそうだ。
VODをつけると同時に、スマホで正確な時刻を確認する。ん? 僕が叫んでいた間に、通知が来ている。僕は体の内からどんどんが熱が上がってくるのを感じた。
『返信遅くなってごめんなさい。お風呂に入った後に、ちょっとお庭で涼んでいました。蜻蛉先輩は、新歓の度に、理由をつけては泣いています笑。この前の新歓は、一回生が蜻蛉先輩の筋肉を褒めたら、号泣していました笑』
つ、繋がったあああ!! 会話が! 会話が繋がったああ!!
僕は渾身のガッツポーズを決める。というか、お風呂? ちょっとちょっと、そんな言わなくてもいいこと、言っちゃう? これは僕に気があるんでないか!? ああ! なんかムラムラしてきた!
映画はやめだ! 他にするべきことがある! 僕は、テレビを消し、逸る気持ちでパソコンを開いた。
京都研究会の活動は、週に一度、主に土曜日にある。その名もごとく、京都の寺社仏閣を巡ったり、風情も歴史もない、カラオケやボウリングをする日だってある。その統一性のなさ、一つに固執していない感じが、僕には心地いい。
四月末。一限目の朝早い講義。新入生は、段々と大学のシステムと雰囲気を理解し、自分のスタンスを作り出す。前に座っている学生は、教授の一言一句を逃すまいと、耳で聞き目で見て、シャーペンを走らせている。真ん中あたりに座っている学生は、ただただ板書を写す機械と化している人と、板書は最後に写真を撮ればいいやと、机の下に隠したスマホでソシャゲをしている人に分かれている。教室の後方には、堂々とスマホを出している人、周りを気にしない声量で話しているグループ、ただ寝ている、出席点だけを取りにきている人でごった返している。その光景はさながら動物園。僕は、ああはなりたくないと思いながらも、真ん中より少し後ろに陣取り、東屋と話したり黙ったりの時間を一〇分ごとに繰り返していた。
昔から、授業を集中して聞くという事は、得意ではなかった。それでも上々の成績を残してきたのは、家で一人で勉強する、ということができたからだろう。人の話を聞くより、自分で教科書を読んで理解をした方が、頭に入ってくる気がするのだ。それが出来ている限りは、大学でも単位を落とすなんてことは、考えられない。
「光喜、きょうけんのグループライン見てみろよ。次の活動の告知が貼ってあるぞ」
東屋が、僕にラインの画面を見せる。僕はそれを確認し、さっと自分のスマホで詳細を見る。
「東寺か、ようやく京都っぽいところへ散策へ行ける」
「今までは新歓イベントが軸だったからな。居酒屋とかカラオケばっかだったな」
案内を下にスクロールしていくと、僕は「うげっ」と顔をしかめた。
「今回は日曜日かい。僕、バイト入れちゃったよ」
「あーあ、残念。俺は行くぜ。せっかく京都の大学に来たんだ。こういうイベントこそ参加しなきゃ」
東屋は、参加のボタンをタップした。
「うわぁ、行きたいなぁ」
「なんだよ光喜、そんなに寺社仏閣が好きなのか」
違う。そうじゃない。いや、寺社仏閣はもちろん歴史を感じられてとても良いが、僕が懸念しているのはそこじゃない。浮舟さんが参加する可能性が高いということ、その一点を考えている。なんてったって、普段から小紋を着ているような人だ、カラオケや食事会は、顔を出したり出さなかったりだったが、今回は来る。そんな気がしてならない。
「ああ。好きだよ」
何を、は言わず、事実だけを省略して述べる。
「そうか、同志社受かって良かったな!」
僕の胸の内も知らず、東屋は僕の肩をポンと叩いた。
次の日、二限の経済基礎論。僕は神々しい光を発する、小紋姿の黒髪ボブの女性を、同じ教室で見つけた。浮舟さんだ。
なぜ今まで気付かなかったのか。その理由はただ一つ。浮舟さんは、僕たちのさらに後ろに座っていたのだ。かと言って、騒がしくしているわけではない。動物園に入園しながらも、一人黙々と板書を写している。なぜわざわざ後ろに座っているのか。その謎が、僕を浮舟迷宮の深いところへいざなっていく。
二限の終了のブザーが鳴ると同時に、僕は席を立った。
「ちょい、光喜どこ行くんだよ。食堂行こうぜ」
「先行っててくれ」
片手であしらいながら東屋に伝える。浮舟さんは、ささっとノートを鞄にしまい、教室を後にする。なかなか早足だ。急いで追いかけて、小さな声量が届く範囲まで近付く。
「浮舟さん」
僕の声に、浮舟さんはビクッと肩を上げる。振り返り、僕だと分かると、こわばった表情が一気に柔和になる。可愛い。
「総角くん、どうしたんですか?」
「ええと、さっきの時間、経済基礎論受けてるんだね。たまたま見かけてさ」
浮舟さんは、僕が話をしたいのだと勘付くと、ちょいちょいと手招きしながら、他の人の邪魔にならないよう、廊下の端に移動した。なんて気配りができる子なんだ。
「はい。必修ですからね。いくつかコマがありますけど、総角くんと一緒のコマだったんですね」
浮舟さんは、純白の歯を見せて、はにかんだ。それは一緒のコマで嬉しいってことなのか!? そう捉えさせていただきます!
「なんで後ろで受けてたの? うるさいんじゃない?」
僕は気になっていることを尋ねる。
「ああ、私、視力が良いので」
……微妙に答えになってないっ!
「いや、それでも、前で受ければいいんじゃない?」
僕は食い下がる。
「私は、そんなに真面目じゃないですよ。正々堂々生きるのは、大変じゃないですか」
「どういうこと?」
「いや、いいんです。この姿ですから、あまり前に座って、注目を集めたくないってことです」
なるほど。それは理解できないでもない。
「そっか。もし聞き取れないところがあったら、いつでもノート貸すからね」
「本当ですか? ありがとうございます」
よし、これでまた一つ繋がりができた。僕は、最後に本題を出す。
「きょうけんのライン見た? 東寺散策の」
「はい。見ましたよ」
「浮舟さんは、行くの?」
浮舟さんの回答次第で、僕の今後の行動が変わる。
「はい。行きますよ」
決まった。僕は日曜日に、熱が出る予定だ。うん、きっと出る。スマホを開き、東寺散策の参加ボタンをタップした。
日曜日。午後一時に京都駅集合。五分前に着くと、二〇人ほどのサークルメンバーがそこにいた。なかなかの出席率だ。
「おっと、バイトサボリマンじゃん」
東屋に、面白くもないあだ名をつけられる。
「誰がバイトサボリマンだ!」
一応乗ってみる。
「ははは」
東屋は返すでもなく、空笑いをした。投げたボールは責任取って処理しろよ!
「おう! 歩美! 今日も決まってるねぇ」
正則先輩の声のする方を向くと、桃柄の小紋を着た浮舟さんがいた。ああ、今日も美しい。
「よし! 全員集まったな! じゃ、今から歩いて東寺まで行くから。みんなついてきてくれ!」
二〇人の大所帯で、せっせせっせと歩いてく。浮舟さんは前の方で先輩方と話している。僕と東屋は、後ろの方で、贔屓の球団がどうだとか、楽に単位を取る方法だとか、とりとめのない会話をしている。なんとかして、浮舟さんと距離を縮めたいが、いかんせん物理的な位置が離れすぎている。道中は諦めるか。東寺に入ったら、誘って一緒に回ろう。焦ってはいけない。
東寺、正式名称を教王護国寺と呼ぶそのお寺は、平安遷都と共に建立された、官寺だ。日本一の高さを誇る木造建築、五重塔がシンボルで、その他にも歴史的価値のある建築物がずらあっと並んでいる。もちろんその価値と美しさから、世界遺産に登録されている。
「ようし! じゃあ、今日は好きなグループで回ってくれ! 一人になる人が出ないように、ちゃんと周りを見て作ってくれよ!」
正則先輩が、僕の予想していた通りの発言をする。よしよし、来たぞ! 浮舟さんはどこだ!?
浮舟さんが視界に入ると、僕は行動の遅さを痛感した。仲睦まじげに、女子と歩き始めている。ああ、道中の段階で、声を掛けておけばよかった。なんという失態。バイトを休んでまで来た意味がなくなってしまう。まだ相手が女子だったのが救いか。いや、待てよ、向こうは女子二人。
「光喜、誰か誘うか? 結局この二人じゃ、サークルに入っている意味ないだろう」
東屋が周りを観察しながら僕に言った。
「その通りだ。東屋、あそこの二人を誘ってくれ」
「ええ、俺が?」
東屋は、僕よりコミュニケーション力に優れている。それに、彼の軽い感じで誘えば、向こうも壁を作らないだろうという予想があった。僕たちは駆け足で二人の下へ向かう。
「浮舟さんと、宿木さんだよね?」
東屋が後ろから声を掛けると、二人は振り返った。
「ええと、誰と誰?」
宿木さんは、僕たちに剛速球を投げてきた。なかなかにショックだ。結構イベントには参加してるはずなんだけど。
「ちょっと朱莉、失礼だよ」
横から浮舟さんが注意する。浮舟さんのタメ口、初めて聞いたかも。可愛い。
「総角くんと、東屋くん。見たことない?」
「うーん? あるようなないような。二人とも顔薄いからねぇ。覚えてないや」
ぶはっ!! 僕は心で吐血する。ダメージは深いぞ。東屋を見ると、もう死にかけだった。精神ゲージが赤になっている。耐えろ! 耐えるんだ!!
「あのさ! もしよかったら、一緒に回らない? 二人よりも四人のが楽しくない?」
なんとか奮い立った東屋が、誘いを押し込んでいく。
「どうする? 歩美」
浮舟さんと宿木さんが、目を合わせる。浮舟さんはその後に、僕を見た。少しタレ目の、吸い込まれるような大きな瞳に、僕はバカみたいに口を開ける。
「いいんじゃないかな。私も人数は多いほうが楽しいと思う」
「そっか。ならわたしもいいよ。良かったね。お二人さん」
宿木さんは、背中に背負った大きなリュックを揺らした。たまにいる、謎に荷物が多い人だ。
四人で散策することになった僕たちは、五重塔と並ぶ、東寺のメインスポットである、講堂を拝観した。
弘法大師空海の指導の下作成されたとされる、立体曼荼羅。普通は紙や布に描かれるものだが、この立体曼荼羅は、その名の通り、仏像で立体的に、曼荼羅の世界を表したものだ。静寂の講堂の中に並ぶ二一体の仏像。その迫力とパワーに、僕たちは息をすることさえ忘れてしまう。ふと、隣にいる浮舟さんを見る。彼女は、目を閉じていた。僕が浮舟さんを見ている五秒間、ずっとだ。立体曼荼羅を目の前にして、『見る』のではなく『感じて』いる。顔の筋肉から、感情の全てを拭い去ったような浮舟さんの表情は、神々しささえ感じ取れ、立体曼荼羅と一体化しているようだった。感化されてか、僕も一つ息をして、ゆっくりと目を閉じた。
「はい! みんな、東寺はどうだったか? 東屋、どうだ!?」
正則先輩の締めの挨拶で、急に指名された東屋は、ビクッと目を見開いた。
「す、凄かったです!」
「おお! そうかそうか! よかったな! えーと」
正則先輩の声のトーンが、急に落ちる。
「本当、あんなに神聖な空間にいられたことが、俺はめちゃくちゃ幸せだよ」
目から大粒の涙を流している。
「もう、あんたまともに挨拶できたことないよね」
副会長が、正則先輩をどかして、みんなが見える位置に立った。
「今日はここで解散です。それぞれでご飯を食べに行くもよし。そのまま帰るのもよし。好きにしてください。それと、ゴールデンウイークが開けたら、早めの夏合宿をするので、みんな是非とも参加してね。場所は、今のところ滋賀の琵琶湖付近を考えているから。なかなか行く機会ないでしょ? 楽しみにしておいてね」
夏合宿、サークルでお泊りしにいくあれだ。ほとんどのサークルは、合宿と言いつつ、その要素はない。大学の七不思議の一つだ。そんな疑問はさておき、浮舟さんと一つの屋根の下で寝られることを想像するだけで、もう待ちきれない。
「では、今日はありがとう! 解散!」
それぞれ散り散りになっていく。僕は、浮舟さんをご飯に誘いたかった。今日半日、一緒に東寺を拝観して、今までより距離が縮まった気がする。しかも、今は四人だ。二人よりも随分と誘いやすい。これは、東屋に任せるべきではないな。僕が言うべきだ。
遊びが終わった後特有の、誰が最初の一声を出すか、探り合っている時間が流れる。
「あのさ」
僕は緊張の中、先陣を切る。
「この後、四人でご飯とかどうかな?」
東屋に目で訴える。
「ああ! そうだな! もう夕方だし! 家に帰って飯食うの、面倒だもんな!」
よし! 僕の誘いに便乗してくれ、という訴えは、見事に通じたようだ。
宿木さんが、茶髪の胸元まである髪を、くるくると指に巻きながら渋る。
「ええ、わたし、お母さんに、ご飯いるって言っちゃったよ」
何してるんだよ! 言うなよ!
「いいなー実家暮らし。俺と光喜は下宿だから、飯がないんだよ」
東屋が休めのポーズで、首を斜めにだらける。
「歩美は行きたい?」
宿木さんが、浮舟さんに尋ねる。浮舟さんは「うーん」と唸った後、答えた。
「行きたい、かな」
よおおおぉぉぉし!!!
「そうなんだ。男二人に歩美一人委ねるのはこわいなぁ。分かった。お母さんに連絡するよ」
浮舟さん、僕とご飯を食べたいってことなのかな。別に、二人だっていいんだけどな。調子に乗る僕は、すぐさま近くの店を調べ始めた。
京都駅近くの定食屋チェーンには、予約なしですんなりと入れた。
「……凄い……」
メニューを見て、浮舟さんがポツリと呟く。
「何が?」
宿木さんが尋ねると、浮舟さんは、目を輝かせて、彼女に顔を近付けた。
「こんなにたくさんのメニューがあるなんて、さぞかし腕のあるシェフが奥にいらっしゃるんだなと思って、私感動してる」
僕たち三人は、一瞬顔を見合わせ、「あはは」と笑う。
「シェフ……ね。そんなたいそうな人はここにはいないんじゃないかな。おそらく自給一〇〇〇円の、僕らと同じくらいの歳の子ばかりだと思うよ」
僕の訂正に、浮舟さんは悲しそうな顔をする。
「若いからって、低賃金で働かされて……。せっかく腕はあるのに、なんだか嫌な気持ちになりました」
合っているような合っていないような。あながち核心をつく指摘かもしれない。
僕と東屋が頼んだ、量が多く値段が安い、肉野菜炒め定食が運ばれてきた。少し遅れて、宿木さんが頼んだ味噌かつ煮定食、浮舟さんが頼んだ和風おろしハンバーグ定食が来る。
「やっぱり俺らはコスパが命だよな」
東屋は、口いっぱいにご飯を詰め込みながら、僕に話しかける。
「食べるか話すかどっちかにしてくれ」
普段は僕も食べながらぺちゃくちゃと喋り、とても行儀が良いとは言えないが、浮舟さんの前では、ついかっこつけてしまう。
「うん。やっぱこれこれ」
「宿木さん、元々は名古屋の人なの?」
僕が尋ねると、宿木さんは箸でピッと僕を指さした。
「味噌かつ好きは名古屋人だけって思わないで欲しい。わたしはずっと京都育ちよ!」
そんな語気を荒げんでも。
宿木さんから浮舟さんに視線を移すと、ほっぺいっぱいにハンバーグを頬張り、リスのようにして、顔を赤くしている。
「浮舟さん! 大丈夫!?」
僕は慌てて、空になっているコップに水を注ぐ。
「水飲んで! ああいや、吐き出した方がいいか!?」
ごくん。
一気に飲み込んだ浮舟さんは、数秒の間の後、眩しいくらいの満面の笑みをした。
「本当に美味しいです! 肉汁がぶわあっと出てきて、でもソースがくどくなくて、箸が止まりません!」
彼女の驚きと喜びに、僕も嬉しくなる。
「でしょ? 安くても美味しいお店、たくさんあるんだよ」
浮舟さんは、もう一口パクリと食べて、味わいしめたところで、呼び鈴で店員さんを呼んだ。ご飯のおかわりかな。それならセルフサービスなんだけどな。僕が教えてあげようとすると、彼女は店員さんに嬉々とした表情で告げた。
「あの、バイトシェフの方は中におられるんですか? 是非ともこの美味しい料理を作ってくださったことに、感謝をしたくて」
浮舟さん!? 店員さんは、非常に困った顔をして、「あは」と苦笑いをしている。
「大衆チェーン店でシェフ呼ぶ人がどこにいるのよ。歩美、面白いこと言うね」
宿木さんが、すかさずカバーをしだした。
「店員さん、ごめんなさい。お手拭きいただけますか?」
「あ、は、はい。かしこまりました」
店員さんは、困惑しているのか、笑いを堪えているのか、その間の表情でお手拭きを持ってきた。
「歩美ちゃん、こういう店あんまり来ないんだ」
東屋が話を広げる。って、歩美ちゃん!? いつの間に!? 一緒にご飯を食べたら、それはもう名前呼びに値する関係性ということか!?
どうにしろ、後で一発殴っておこう。
「はい。基本は家で食べることが多いですかね。家に和、洋、中の、専属のシェフがいますので」
ぎょええ。テレビの中でしか見たことないぞ。
「うわすっご! 今度遊びに行かせてよ!」
お前っ!! 五発殴るぞ!!! いや、これは好機か? 僕も一緒に、の流れになるのではないか? 僕は固唾を飲んで返答を待つ。
「それはちょっと……。私、人を家に呼んだことがないので……」
「ちょっと頼道くん、人の懐にずけずけと入りすぎ」
宿木さんが、今度は東屋に向かって箸を向けた。
「ごめんごめん。だって食べてみたいじゃん。お金持ちの家の料理」
「お金持ち……なんですかね?」
浮舟さんは、少し首を傾げた。そう。彼女にとってはその生活が普通で、他の人の生活に関心がないのであれば、自分がお金持ちかどうかのものさしは、ないのだ。
僕は少しほっとしている。浮舟さんの家に伺うということは、ご両親に会うということ。それはまだ早くないか? 心の準備ができていない。こういう家は、親に嫌われたら一巻の終わりだ。対面は準備万端で臨みたい。それに、ほっとしているのにはもう一つ理由がある。「人を家に呼んだことがない」この一言にどれだけの意味があるか。これは、浮舟さんに、高確率で、今まで彼氏ができたことがないことを表している。少なくとも、深い仲にはなっていない。敷居が高い家柄こそ、彼氏ができれば、その事実を家族に伝え、「一度連れてきなさい」の流れになる。それが人生で一度もないということだ。そしてつまりは、浮舟さんは高確率でバージンということに繋がる。嬉しい。嬉しくて涙が出そうだ。僕は、浮舟さんの初めてになれるのだろうか。いや、なるしかない!!
「おい光喜、お前だけ遅れてるぞ。早く食べろよ」
僕が妄想を広げていると、その間にみんな食事を進めていた。急いでペースを合わせる。
「そういえばさ」
一番早く食べ終わっている宿木さんが、横にいる浮舟さんに話しかける。
「この前、高校時代の歩美の友達っていう子に会ったのよ」
「そうなんだ」
浮舟さんは、うんうんと頷きながら、何も掴んでいない空の箸を口に運んだ。
「それでね、わたしが『毎日来ている着物可愛いよね』って言ったら、その子は、『着物を着ている姿なんて見たことない』って言っててさ、歩美、もしかしてなんだけど」
宿木さんが間を空けるのと同じくして、浮舟さんは箸を止めた。
「大学デビューしてる? いや、全然恥ずかしいことじゃないし、これからもわたしは歩美の友達だけどさ、ちょっと気になって」
浮舟さんは、ニコッと笑って答える。
「高校時代は制服だしね。そりゃ、着物を着る機会なんてないよ」
「でも、『休みの日に遊ぶときも、いつもミニスカートとか、そういう、着物とは遠い服装だった』って言ってたよ。多少は大学デビューって気持ちもあるんじゃない?」
宿木さんは、不思議なくらいに食い下がっているが、僕は肉野菜炒めを減らすのに必死で、話半分で聞いている。
「まあ、そうかな。うん。ちょっとキャラ付けしちゃったかも」
浮舟さんは、宿木さんの目を見ずに笑った。
「そっか! やっぱそうだよね!」
宿木さんは、途端にテンションが上がる。
「よかったぁ! わたしね、実は高校時代、今みたいな茶髪のサラサラロングじゃなくて、ボッサボサの、まともにセットしていない地味な黒髪だったの」
サラサラって、自分で言うか。
「しかも、ぶっとい黒縁の眼鏡ね。友達もいなかったし、つまらない人間だから、いじめの対象にすらなっていなかった。『そこに存在しない』人間として扱われていたの」
三人は、宿木さんの話を黙って聞いている。
「嫌だなって。大学では変わりたいなって、そう思って、髪は染めて、美容院で綺麗にしてもらって、眼鏡からコンタクトにして、そうするとね、性格も変わるんだよ。典型的すぎる大学デビューかもしれないけど、わたしは大成功したの」
宿木さんは、浮舟さんの腕を組んだ。
「え!? 何!?」
「歩美も大学デビューしたって分かって、わたしは嬉しい。歩美と出会ってまだ一ヵ月だけど、わたしにとって歩美は、顔も、その身なりも、性格も、完璧なんだよ。まあ、顔は生まれつきのものだけど、それ以外は変えられるじゃない? だから歩美が大学デビューしたのなら、以前の自分と変わりたいって気持ちが少しでもあるってことじゃない? ああ、歩美も最初から完璧なわけではなかったんだって。そう思うと、わたしはさらに歩美のことが好きになるよ」
そうか、宿木さんは、仲間が欲しかったのか。だから、浮舟さんに大学デビューを認めさせたかったのか。
「朱莉の気持ち、すごく分かるよ」
浮舟さんは、この話題で初めて、宿木さんと目を合わせた。
「変わりたいって気持ち、抑えられないよね」
「うん。わたしたち、大学デビューっ友だね!」
語呂わるっ!
「僕だって、茶髪にしたのは大学からだよ。これじゃちょっと弱いか」
ようやく食べ終わった僕は、話に入る。是非とも、その大学デビューっ友とやらに入りたい。
「ううん。変わりたいって気持ちがあるなら、立派な大学デビューだよ。光喜くんも、大学デビューっ友だ!」
「ありがとうございます!」
「それなら俺なんか、金髪にしてるし、ピアスだってつけてる。もちろん俺も大学デビューっ友だよな?」
僕は東屋の肩に、手をポンと置く。
「いや、お前は高校時代サッカー部で、カースト上位のイケイケドンドンなグループにいたって言ってたじゃん。性格も何も変わってないだろ。ピアス開けた? そういうことじゃないんだ」
「そうだよ。大事なのは内面の問題。外見はそれに付随するもの。頼道くんはちょっと違うかな」
僕と宿木さんから、NOを出される。
「なんだよ! 俺だけ仲間外れにしやがって! 激おこぷんぷん丸だぞ!」
「なんの躊躇もなく、ちょっと古い、しかも主に女子高生の間で流行った言葉を使えるあたりが、大学デビューじゃなくて、根っからのイケイケな人なんだなということを、分からせてくれるよ」
宿木さんが、首が落ちるんじゃないかと思うほど、大きく頷いて同感の意を伝えている。
「あ! もうこんな時間!」
浮舟さんが、僕とお揃いのチープカシオを見て慌てだした。
「もう帰らないと。お母さんに大目玉をくらいそうです」
「ああ! それはだめだな。ささっと解散しよう」
東屋が腰を浮かせる。やっぱり、浮舟さんのところは、厳格なんだな。店を出て、京都駅に行くまでの道中、東屋がみんなに尋ねた。
「そういえば、夏合宿って行く?」
ナイス! 僕も聞きたかった。浮舟さんは、泊まりは行かないと言いかねない。それなら僕だって行かなくていい。
「わたしは行くよ」
ドキドキ。ドキドキ。
「そうですね。私も行きます」
よしっ! 参加決定っ!!
「光喜はもちろん行くよな?」
「当たり前すぎる!」
僕は、朗らかな表情で帰路についた。
五月中旬の夏合宿までの間にも、三度ほど散策の機会があった。
一回目は鹿苑寺、別名金閣寺。室町幕府時代、三代将軍・足利義満が居住していたことで知られる、金ぴかのお寺だ。
その日は、散策のグループをランダムで決めることになった。雑多に集まっているサークルメンバーを、円にし、一から四の番号を順番に言っていく。そうして、同じ番号を言った人たちでグループになるといった具合だ。これで、浮舟さんと一緒のグループになったら、それはもうマジもんの運命ではないだろうか。金閣寺の前で、雑多な視線の中、告白したっていいくらいだ。
結果は、僕が二グループ。浮舟さんが三グループだった。くそっ! そう簡単にはいかないか。いつも隣には東屋がいるので、グループ分けの性質上、彼とも違うグループになった。そして、彼は三グループ。こっそり入れ替わってもらうか? いや、そんな姑息な手を使って仲良くなっても、嬉しくない。正々堂々、神様の気分のままに戦おう。
金閣寺の散策は、その圧倒的な輝かしさに目を引かれながらも、ちらちらと三グループを目で追う、どっちつかずな状態となった。
二回目は伏見稲荷大社への散策だった。五穀豊穣や商売繁盛のご利益がある稲荷神社の総本山であり、その歴史は一三〇〇年以上前にも遡る。江戸時代以降には、願い事が『通る』ようにという願いを込めて、鳥居の奉納が多くされ、千本鳥居の名所が生まれている。
「今日は自由にグループを作ってくれ! 山を登るのがしんどい人は、そこらへんのカフェでお喋りするのもよし。四時間後にこの場所に集合! 解散!」
正則先輩、ありがとう。僕はすぐさま浮舟さんに話しかける。
「浮舟さん、一緒に回らない?」
「はい。いいですよ。誘ってくれてありがとうございます」
浮舟さんは、赤の小紋を着ている。今日は可愛い髪飾りつきだ。花の名前に疎いので、何
の髪飾りかは分からない。
「その髪飾り、可愛いね」
浮舟さんは髪飾りを手で隠し、少し下を向き照れ笑いを浮かべた。
「アネモネの髪飾りです。私、結構お気に入りなんです」
響きからして上品だ。浮舟さんにこそ似合っている花だ。
「おいおい、二人で抜け掛けですか?」
東屋が少し遅れて割って入る。まあ、想定済みだ。元々二人で回ろうなんてたいそうなことは考えていない。
「宿木さんも一緒に四人でと思ってたけど、見当たらないね」
僕はあたりを見渡す。
「あ、朱莉は今日はバイトでお休みです。三人で問題ないですよ」
「そうなんだ。おっけい」
……となると、話が変わってくる。東屋! お前邪魔だぞ! どっか行ってくれっ!
そんな気持ちを汲み取るわけもない東屋は、ヘラヘラしながら浮舟さんに尋ねる。
「着物じゃちょっと、伏見稲荷大社を登るのはきついかな? ここらへんでお茶でもする?」
「そう、ですね。一応、歩きやすいブーツを履いてきてはいますが、上まで行くのは難しいかもしれません」
「うんうん。じゃ、ちょっと調べるわ」
東屋がスマホで検索を始めたとき、正則先輩が近付き、東屋の肩に手を回した。
「頼道、お前はてっぺんまで行くよな?」
「うえ!? ああ、ええと」
そういえば、最近東屋は、正則先輩がきょうけん内で発足している『蜻蛉筋トレ会』に参加している。目に見えて、一回り体が大きくなっている。
「筋トレの基礎はランニングだぞ。ダッシュで上まで登っていくぞ」
「いやあ、今日はそういう気分じゃ」
「このぉ! サボりは許さん!」
正則先輩は肩に回した手を利用して、東屋の首を絞めにかかる。
「痛い痛い! 分かりましたっ! 分かりましたよっ!!」
正則先輩は「がはは」と笑った。肉体改造にはとことん拘る人だ。
「ごめんな、光喜、歩美ちゃん、一緒に行けないわ」
「いやいや、全然大丈夫。本当に。正則先輩、東屋をよろしくお願いします」
僕は深くお辞儀した。顔を下にし、嬉しさからくる笑顔を堪えている。
「よし! 行くぞ! 頼道! みんなもう準備万端だ!」
「はぁーい」
東屋は引っ張られながら、名残惜しそうに走っていった。一度入ったら最後、簡単には抜けられない。筋トレの世界というのは、そういうものなんだよ。
「……二人になっちゃったね」
僕は、ゆっくりと横を向く。
「そうですね。どうしましょうか?」
浮舟さんは、唇に手を当てて、数秒考えた。
「私は二人でもいいですよ。総角くんとお話しするの、楽しいですし」
突然の口撃に頭がクラッとする。そんなこと、サラッと言わないで欲しい。
「とりあえず、喫茶店に入ろうか」
僕と浮舟さんは、近くのコメダ珈琲に入った。
「ここ、好きなんだよね。ボックス席だし、ソファだし、くつろげる」
おしぼりで手を拭きながら、僕は言う。
「私もコメダは来たことあります。シロノワール、好きなんですよ」
「そうなんだ! じゃ、頼もう」
シロノワールと、珈琲二つを注文する。浮舟さん、意外と庶民的なところもあるんだな。チェーン店は基本的に行かないのかと思っていた。
浮舟さんは、ぐうと背伸びをする。
「総角くんは、自分の自信がある部分って、どこですか?」
「え?」
唐突な角度の質問に、思わず眉を上げる。
「いや、総角くんはいつも明るくて、接しやすいので、その明るさはどこから来ているのかなと思いまして」
「それは、東屋に聞いた方がいいんじゃない?」
「東屋くんは、いきすぎです」
浮舟さんもそう思ってるのか。
「うーん。別に自信のあるとろなんてないけどな。明るく振舞おうという意識もしていない。結果的にそうなってるだけじゃないかな?」
「そうなんですね」
どうやら、欲しい答えを、僕は言っていないようだ。
「浮舟さんは、周りに明るく振舞いたいの?」
「できればそうしたいですね」
「でも、今の浮舟さんもおしとやかな雰囲気でとても魅力的だよ」
さらっとアプローチを紛れ込ませる。
「私、自分に自信がないんですよね。あまり主張ができないと言いますか」
「ええ、その見た目で? すごく綺麗で、長所の塊じゃん」
「そう……ですかね。そう言ってくれると、嬉しいです」
ちょっと褒めすぎてるか? いや、これくらいはいいだろう。通常アプローチの許容範囲だ。
「総角くんのおかげで、少し自信がつきました。私の見た目は、長所なんですね」
浮舟さんは、ジッと僕を見つめた。その瞳に吸い込まれそうだ。
「う、うん。浮舟さんは、可愛いよ」
浮舟さんは、二度うんうんと頷く。なんだ? こんな会話人生でしたことないぞ。
店員さんがシロノワールを持ってきた。
「美味しそうですね。食べましょう」
シロノワールは、想像している一・三倍大きい。というか、コメダのメニュー全てがそうだ。僕がコメダを気に入っている理由の一つでもある。
浮舟さんは、大きな口を開けて、パクリと頬張る。
「うん! ほっぺが落ちそうです!」
か、可愛い……。僕が『浮舟さんの見た目は長所』と言ってから、気のせいがテンションが上がっている気がする。やっぱり、女性は、綺麗と褒めると喜ぶものなんだな。褒めて損することはない。
僕は珈琲をすすりながら、目を細めて食べる浮舟さんを眺める。最高の光景じゃないか!
「総角くんも食べてください。私一人じゃ到底完食はできないです」
「ああ、そうだね。いただきます」
温かいとデニッシュと、冷たいソフトクリームの融合、ああ、至福の味だ。二人とも、口に運ぶ手が止まらなくなり、あっという間に皿には何もなくなる。
「……やっぱり、総角くんに『食べてください』なんて、言わなきゃよかったです」
浮舟さんは、舌でペロッと唇につくソフトクリームを舐めて、冗談交じりの顔をした。
「ははは」
可愛すぎて爆発しそうだっ!
「ちょっと、登りますか? 食べて座ってるだけじゃ、太っちゃいますし」
「浮舟さんがいいなら、もちろん」
僕たちは、運動がてら伏見稲荷大社へ登っていくことにした。千本鳥居を一つ一つくぐっていく度に、心が綺麗に洗い流されていく気がする。でも、浮舟さんと仲良くなりたい、浮舟さんと付き合いたいという、ヨコシマも入り混じった気持ちだけは、洗い流されることはない。それは、千本鳥居の狭い通路を歩いているが故に、どうしても体同士の距離が近くなっていることにも関係があるだろう。だから神様、あなたにも責任があるんですよ。
「なんか、神秘的ですね。世界中探しても、こういった光景はなかなか見つからないんじゃないですかね」
浮舟さんは、少し息を切らしながら、それでも感動している。
「そうだね。夜に来たらまた違った感動が襲ってきそう。畏怖が混ざったような、より神様に近い世界のような」
「素敵な表現ですね。覚えておきます」
浮舟さんの脳内に僕の言葉が留まっていれるなんて、光栄です!
しばらく歩き、チープカシオを確認すると、もう集合時間が迫ってきていた。
「ああ、もう戻った方がよさそうだ。頂上の一ノ峰までは行けなかったね」
「仕方ないですね。スタートが遅かったですし。またゆっくり来ましょう」
Uターンして帰っていく。え? 今なんて? あやうく聞き流しそうだったが、『また来ましょう』って、そう浮舟さんは言ったのか!? えええ? 登山のせいか、浮舟さんのせいか、鼓動が苦しいほど早くなる。
家に帰った後、浮舟さんとの時間を思い出し、悦に浸った。ふと、何気なく、浮舟さんがつけていた髪飾り、アネモネの花言葉を検索する。
『あなたを愛しています』
その文字を二度見する。……誰を!? 誰を愛しているんだ!? 僕なのか!? そう捉えていいのか!?
僕の浮舟さんへの想いは、既に最高潮に達し、舞台さえ整えば、いつでも告白できる体制になっていた。
三度目は、蓮華王院散策だった。蓮華王院、別名、三十三間堂。日本一の長さを誇る一二〇メートル本堂の間に、三三本の柱があることから、そう名付けられている。
「今日の散策は、くじ引きで決める! 同じグループになった人たちで、三時間楽しんでくれ。三十三間堂だけだと時間が余ると思うから、周辺を好きなように周ってくれればいい」
正則先輩は、くじ引きでのグループ分けを提案してきた。大丈夫、そんなこともあろうかと、一から四の番号を振ったときに、僕と浮舟さんが同じグループになるよう計算して位置を取っている。
「じゃ、ラインのグループにくじ引きリンクを送るぞ」
!? なんだそれ!?
「会長、普通に番号で振ったらどうですか?」
副会長が、正則先輩にいつもの方法を打診する。
「見つけたからやりたいじゃないか。こんな便利な機能があるなんて」
「もう、流行りもの好きは面倒くさいなぁ」
副会長は、「やれやれ」という顔で、スマホを開いた。もうちょい粘ってくれ! くそっ! これじゃ対策のしようがない! 周りも反対するものはおらず、ラインでくじを引く。
強運を呼び込めることもなく、浮舟さんとは別のグループになった。
「いやぁ、見てくれよ光喜」
体が一回りも二回りも大きくなっている東屋が、上腕二頭筋に力を入れ、こぶを見せつけてきた。運を持っていなくても、こいつとは一緒になるんだな。
「東屋、お前はどこを目指してるんだ」
僕は、少し呆れた顔で尋ねる。
「目指す場所なんて分からないさ。その過程を楽しんでるんだ。みるみる自分が変わっていくのが分かる。努力が目に見えるものなんて、筋トレと勉強くらいだろ? だから俺は筋トレをしてるんだ」
ちょっとかっこいいじゃないか! 東屋にそんなことが言えるとは。
その後、僕たちは三十三間堂の中に入り、中央に位置する千手観音座像と、その周りを囲む、千体の千手観音立像を拝んだ。千手観音立像には、その一体一体に名前が付けられており、表情も全て違う。自分に似た像や、友人に似た像、そして、愛する人に似た像が必ずあると言われている。
僕は、自分に似た像を探す前に、浮舟さんに似ている像を探していた。それほど彼女への想いは強くなっていた。自身の何よりも優先するほどに。
視野を広げていると、ビビビと体に衝撃が走った。浮舟さんに似ている! そっくりだ! と思ったら、真っすぐに仏像を見つめている、浮舟さん本人だった。それほどまでに、美しく、清く、神々しい。僕と浮舟さんの距離は、五メートルほど離れている。この距離で見惚れるのも、また一興だな。
「光喜、坐像だぞ」
横から東屋が小声で話しかけてくる。見上げると、三メートルはゆうに超えるであろう千手観音坐像がそこにあった。思わず息をのむ。この観音様に、今までどれだけの人が祈ってきたのだろうか。どれだけの人の祈りを、観音様は見届けているのだろうか。『祈り』というのは、『お願い』じゃない。仏様に図々しくもお願いをするなんて、僕にはできない。『祈り』は『感謝』。そして、感謝に上乗せした『決意』。ここで僕は、仏様に決意を表明する。
僕は、浮舟さんと付き合います。どうか見守っていてください。
二礼二拍手一礼をし、その場を後にした。
「この後どうする?」
東屋が、僕を含めたグループに向かって話す。
「なんか食べたいな」
早川がお腹をさすった。
「嫌だ。私は、博物館に行きたい。すぐそこでしょ?」
矢部さんが、早川の提案を却下する。
「いや、もういいって。文化体験は三十三間堂でしたじゃん。ラーメンでも食おうや」
「せっかくここまで来たんだから、周れるところは周りたい! ラーメンなんてどこにでもあるでしょ?」
「はあ!? 一店一店、麺の太さ、スープの味、具材のこだわり、何から何まで違うんだよ! なんも分かってないな!」
「分かりたくもない! あんな体に悪い食べ物っ!!」
早川と矢部さんの喧嘩を、僕たちは終わるまで見届けている。
「二人、付き合ってるんだよな?」
東屋は、僕に確認を取る。
「うん。なんか、カップルにもいろんな形があるんだなって思うよ。これで全然別れる気配がないのが凄い」
結局、矢部さんの口撃が勝ち、京都国立博物館へ向かった。その道中、道路沿いのラーメン屋を早川がもの欲しそうに覗くと、突然声を荒げた。
「ああ! ほら! 他のグループはラーメン食ってるじゃん! ここ美味しいんだって!」
僕も店内をガラス越しに覗くと、そこには、黄色の小紋を着た浮舟さんが、ラーメンをすすっていた。
くそおおお!!
僕は心の中で叫ぶ。早川、何負けてんだよ! お前が彼女との喧嘩に勝てば、今頃、浮舟さんと「あれ?偶然ですね」「そうだね。今日も着物似合ってるよ」みたいな会話ができたかもしれないのに! 男なら、ラーメン欲をもっと前面に押し出せ! じゃなきゃラーメン好きを語るな!
「ほら、行くよ。もう決まったんだから」
矢部さんに、耳を引っ張られ、強引に前に連れていかれる早川。その早川以上に名残惜しそうに、僕は後をついていった。
博物館には、京都を形づくる歴史品の数々が展示されていて、なんやかんや楽しめた。正則先輩の、いつもの泣き挨拶で散策は締められた。今日は、浮舟さんと一言も話せなかった。だけど大丈夫、この気持ちはバネのように力を溜めこみ、次回発散すればいい。そう、次回はいよいよ、夏合宿だ。
琵琶湖付近には、雄琴温泉という温泉地域がある。そこは、大学生でもある程度の贅沢を楽しめる価格帯で、関西中の若者がこぞって宿泊する。
例に倣って、きょうけんも雄琴温泉の旅館で夏合宿を行う。一泊二日の旅路だ。
一〇時に京都駅に集まる。
「みんな! 今日は夏合宿に来てくれてありがとう! 全部で三〇人も集まって、絶対に楽しい思い出になること間違いなしだ!」
正則先輩は、今日も気合を入れてランニング姿だ。
「電車で雄琴まで行って、昼食はバーベキュー。午後はフリーで、夜は旅館の会席料理だ。明日は、午前中がフリーで、昼にはこちらに戻ってくる。それじゃあ、出発するぞ!」
京都駅から雄琴温泉までは、在来線で三〇分弱。こんな近くに、温泉があるのはありがたい。三〇人が扉を分けて、電車に乗り込む。今回の僕はいつにも増して気合が入っている。しっかり浮舟さんの後ろをキープし、同じ車両に乗ることに成功する。
「浮舟さん」
僕は節度を持った声量で、話しかける。
「あ、総角くん。なんだか会うの、久々ですね」
ああ、二週間ぶりの浮舟さんの声は、体がとろけてしまいそうだ。今日の彼女は、オレンジ色の小紋に、桃の柄が入っている。
「桃と浮舟さんって、なんだか相性がいいね」
「どういうことですか?」
喋りたいということが先行して、ついおかしなことを口走ってしまう。
「え、いや、桃って可愛いじゃん。浮舟さんもそんな感じってこと」
「褒めてくれてるのは分かります。ありがとうございます。ところで」
僕のぎこちなさを察した浮舟さんは、自ら話題を作ってくれた。
「温泉って、初めて行くんです。すごく楽しみです」
浮舟さんは、少しだけ目を大きくする。
「そうなの? もう何百回も行っているのかと思ってた」
「なんですかそのイメージ」
「浮舟さん、お金持ちだからさ」
その言葉を言い放って、「まさか」と思う。
「家のお風呂が大きすぎて、温泉に行く必要がないとか、そういうこと?」
「なんで分かったんですか?」
ああ! 羨ましい! こちとらワンルームの、ほぼ正方形のお風呂に、毎日体育座りで浸かってるんだ! なんという差。浮舟さんの生活レベルの背中は、到底見えない。
「お風呂四つあるって言ってたよね。その全てが、足を伸ばせるの?」
浮舟さんは、言い方を少し考える。
「伸ばせるというか、泳げる?」
くはっ! 精神に大ダメージを受ける。でも浮舟さんと付き合って、あれよあれよと結婚までいったとしたら、そんな巨大風呂にも日常的に浸かれるということか。いやいや、そんな性欲とは別のヨコシマな感情で動いてはだめだ。純粋に好きという気持ちの下行動しよう。
楽しい時間はあっという間で、浮舟さんと話していると、すぐに雄琴温泉に着いた。これが東屋と話していたら、「もう何回目だよ」っていう話をして、永遠に感じたんだろうな。
昼食用に予約しているペンションで、バーベキューの準備をする。
「事前にラインで共有しているグループごとに、網とか、食材とか、自分たちの場所に持っていってくれ。あと飲み物も一杯目を準備。乾杯をしたいから飲んじゃだめだぞ。始めるタイミングは一緒にしよう。後は各々自由にやってくれ。あ、未成年はソフトドリンクだぞ! 最近他のサークルが、未成年飲酒がバレて大学公認から非公認に降格したからな。俺らはコールなし! 強制なし! の健全サークルだから、ちゃんとそのルールを守るように!」
サークル幹部で決められた、バーベキュー、そして午後のフリー時間のグループは、浮舟さんとは別のグループだった。でも、僕はそこまで悲観的ではなかった。今回はやる気が違う。チャンスは必ず訪れる。その一瞬を見逃すな。
「光喜くん、最近どう?」
同じグループの、宿木さんが話しかけてきた。
「どうって?」
「恋愛に決まってるじゃん」
決まってはないだろう。
「いや、取り立てて話すようなことはないけど……」
浮舟さんの親友である、宿木さんに、「僕が浮舟さんのことを好き」ということがバレたら、なんだか小っ恥ずかしい。
「歩美のこと好きなんでしょ?」
「え!?」
急に声を大きくするという、図星ということがバレバレの反応をしてしまう。
「観察してれば分かるよ。光喜くん、暇さえあれば歩美のこと見てるじゃん」
そんなところまで見られていたのか。恥ずかしすぎる!
「ああ、まあ、まあ」
「協力してあげようか?」
宿木さんは、後ろで腕を組み、肉を焼く僕を下から覗き込んだ。
「協力……?」
僕と宿木さんが、少し悪い顔になる。
「わたしを味方につけるかつけないかで、この先の難易度は大きく変わるよ。どうする?」
確かに、そういう考えがあったか。好きなことを知られるのは、デメリットばかりかと思っていたが、そうではない。上手く連携すれば、協力というメリットを得られるではないか。
「この二日間で、できるだけ二人になれる時間を作りたい。宿木さん、協力してくれる?」
「その言葉を待ってた」
か、かっこいい……。
「正直、バーベキューが始まって、もうグループはぐちゃぐちゃになり始めている。例えばほら、あそこ見て」
宿木さんが指さした方向には、早川と矢部さんがいた。
「あれ? あの二人は別のグループだよね」
「そう。会長は、色んな人と仲良くなって欲しいのと、一人になる子ができないように、ランダムでグループ分けしている。特にぼっちについては、サークルの長として救ってあげたい。そこが上手いこと回っていれば、あの人はとやかく言わないわ。基本放任主義だから」
「なるほど、じゃ、僕が浮舟さんのところに行っても、問題ないわけだ」
「そう。でも、一人で行くにはハードル高いでしょ。わたしについてきている体で来なよ」
宿木さんは、スタスタと歩いていった。
「ちょちょ! すみません先輩、ちょっと肉焼き交代してくれますか!?」
「ええ?」
同じグループの先輩にトングを渡し、襟をキュッと整え浮舟さんのグループへ向かう。
浮舟さんは、自分のグループのグリルから少し離れた場所で、ちょこんとペンションの階段に座っていた。
「歩美、何? はぶられてるの?」
宿木さんのデリカシーはどこかへ消えたのか。
「いやいや、だとしてももう少し気を遣って聞いてくれる?」
浮舟さんは、僕たちを見ると笑顔で出迎えた。
「私、この服装だからさ、みんなが気を遣って、グリルの側にいなくていいって。臭いとか、ソースとか付いたら、なかなか取れないし」
「そうなんだ。光喜くん、歩美に肉持ってきてあげてよ」
宿木さんから、僕にパスが回る。
「おっけい」
浮舟さんのグループ、つまり自分の陣地じゃないところから肉を取るのは気が引けるので、陣地に戻り、僕の分を取って持っていく。
僕が浮舟さんの下へ戻ると、宿木さんはいなかった。
「宿木さんは?」
「お手洗いに行くって言ってましたよ」
ナイス! こうも簡単に二人の時間が作れるとは。持つべきものは協力者だな。
「はい、お肉。柔らかそうなやつ取ってきたよ」
「ありがとうございます。美味しそうですね」
大きな肉を、浮舟さんはちびっと噛み切る。
「うん! 美味しいです! 外で食べるお料理も、良いものですね」
弾けんばかりの笑顔に、思わず卒倒しそうになる。
「バーベキュー、初めて?」
「はい。なんか、大学生になってから、世界はこんなに楽しいことが溢れているんだって、分かってきました」
僕は、浮舟さんのことをもっと知るため、踏み込んだ質問をする。
「高校までは、結構親御さんが厳しかったんだ?」
「そう……ですね。両親もそうですし、私自身の問題もあったんだと思います。なかなか外へ踏み出せないと言いますか。内気だったんですよね」
「そうなんだ。今は積極的にサークルにも参加していて、とてもそうは思えないけどね」
「私は生まれ変わったんです。そんな気持ちです」
「またたいそうな」
僕は「ははは」と笑った。浮舟さんの紙皿が空になったので、再度肉を取りに行く。
「ああ、そんな、大丈夫ですよ」
「いやいや、初めてのバーベキュー、たくさん食べなきゃ」
浮舟さんのために、奉仕する自分が気持ち良くなっていた。
「今度は、肉と野菜も取ってきましたよ。ほら、バーベキューソースをたっぷり塗ってこんがり焼いたとうもろこし、これがまた美味しいんですよ」
重さに耐えられるよう、二枚に重ねた紙皿に、たんまり乗った具を見て、浮舟さんは笑みがこぼれる。
「じゃ、とうもろこし食べてみますね」
高貴で上品な姿の女性が、とうもろこしにかぶりついている。……なんか良いな。ずっと見てられる。
「美味しいです! 甘いけど、ちょっと焦げてるので、その部分は苦い、その二つがバーベキューソースを仲介してマッチしていますね」
浮舟さん、食レポもいける口かっ!
「総角くん、私に持ってきてばかりで、食べていないですよね?」
「え?」
浮舟さんは、食べかけのとうもろこしを、僕に差し出す。
「食べますか?」
「えええ?」
特大猛烈ビッグチャンスに、脳のCPUが処理しきれない。
「い、いいの?」
くそっ! こんなときに童貞感を出してしまうっ! 自分で自分を殴りたい。
「はい」
僕は、心臓の鼓動を隠しながら、浮舟さんの持つとうもろこしに、かぶりつく。
「ああ、幸せの味がする」
「なんですかそれ」
浮舟さんは、僕の姿を微笑ましく見ている。
「全然良いんですけど、直接食べられて、ちょっとびっくりしました。全然良いんですけどね」
「え?」
……しまった! 痛恨のミスっ! てっきり、僕にとうもろこしを差し出したその手は、『あーん』の手かと思っていた! そうではなく、僕に渡す意味合いの手だったのか! なんという勘違いをっ!!
「ごめんなさい! ちょっと浮舟さんの手も、舐めてしまった」
「そんなこといちいち言わないでください」
そう言って、彼女は頬を膨らませた後に笑った。どうやら、浮舟さんは、本当に『全然良い』と思ってそうだった。僕は、ギリギリで好感度陥落の危機を耐えたと、肝を冷やす。
二人での談笑を楽しんでいると、バーベキューの時間が終わろうとしていた。
「それぞれのグループで片づけを始めてくれ! この場所は時間借りしてるから、オーバーすると延長料金がかかる! みんなの会費から出したくはない!」
延長料金が、僕たちが払っているサークル費から捻出されることが分かると、途端に全員の動きが早くなる。誰も無駄遣いはして欲しくない。
「じゃあ、僕も戻るよ」
名残惜しいが、同じグループの人に冷たい目で見られるのは参る。
「総角くん、私が寂しくならないように、ずっといてくれたんですよね?」
浮舟さんは、僕の去り際に尋ねた。正直、そういった相手本位な考えは、微塵もない。僕が浮舟さんと話したかっただけだ。
「いやいや、僕が話したかっただけだよ。楽しかった。ありがとう」
そして、そのことをありのまま伝えた方が、異性には効果的だと、僕はそう判断した。
浮舟さんは、通常時は大きなタレ目を、ムッと細めて笑い、手を振って僕を見送った。ああ、毎日こうやって送り出されたい。
グループに戻ると、宿木さんが、腕を組んで待ち構えている。
「どうだった?」
短く、だが明確に意図が分かる質問を、僕に投げかける。
「宿木さん、ありがとう」
僕からも、ただ一言、それだけであの時間は良い方に転がったと、そう分かる返答をする。僕と宿木さんは、固い握手を結び、周りの人から不思議がられた。
午後からの琵琶湖散策は、グループごとのフリー時間だ。そして、くじ引き大好きな正則先輩は、このグループも、新たに振り分けた。その結果、僕は、浮舟さんと違うグループになっただけでなく、頼みの綱の宿木さんとも離れてしまった。東屋は、まあ、いいや。
琵琶湖散策でみんなが必ず向かうのが、びわ湖バレイだ。琵琶湖を一望できる山頂に作られたリゾート施設で、オシャレなカフェから、体験型アクティビティまで、そこだけで一日中遊べるスポットだ。冬はスキー場として開かれているが、今は五月なので、山頂にある解放感豊かな遊具や、ジップラインで楽しめる。
僕たちのグループも、もちろんそこへ向かおうとしている。しかし、あたりを三六〇度見渡すと、浮舟さんのグループは、びわ湖バレイとは逆の方向へ歩いていくのを確認できた。
「ちょっと待ったぁ!」
僕は、歩を進めるみんなを止める。
「びわ湖バレイは後にしない? 散策時間は長いし。今行ったら、他のグループとぶつかって混むかもよ」
「確かに、それもそうだな」
早川が僕の意見に乗った。よし、四人中二人が同意見なら、もう決まったも同然だ。僕たちは、僕が主導となって、浮舟さんのグループの少し後ろをついていった。だからどうなるとか、先のことは考えていない。ついていけば、もしかしたら話せたりするかもしれないという淡い期待の下行動している。
しばらく後をつけていると、浮舟さんのグループは、ピタッと立ち止まり、折り返してきた。僕は何の気になしに、口笛を吹いているふりでもしながら、すれ違う。すれ違いざま、浮舟さんと目が合い、軽く会釈をする。それと同時に、そのグループから僕の耳に入ってきた言葉は、頭の中をグルグルと回った。
「間違えてたね」
……どういうことだ? 歩いてきた道を折り返してきて、間違えてた? まさか、このグループは、びわ湖バレイに行きたかったのか? 道を間違えていたということ? まずい、まずいぞ。そうなると、僕が先ほど提案した『びわ湖バレイは混むから後回し』という方針を一八〇度変えなければならないことになる。どう言い訳する? どう理由付けする?
そのとき、グループの女子が、起死回生の一言を放った。
「ねえ、あんまり離れると、戻るの面倒にならない?」
僕はすかさず同調する。
「やっぱりそうだよね。びわ湖バレイに戻ろう。疲れちゃうもんね」
早川は唖然としている。
「でも、混むのを避けるために後回しにするんじゃ……」
僕は早川を無言で見つめ、首を横に振る。
「えええ……」
ごめんよ早川。主張というのは、その時々の状況によって、真逆に変わることがざらにあるんだ。
僕たちはくるりと反転し、びわ湖バレイに向かった。
びわ湖バレイに着くと、多くの人でごった返していた。特に人気なのは、びわ湖や京都・大阪の街並みを一望できるびわ湖テラスだ。天気が悪く、曇りだったとしても、雲海に包まれた空間は、非日常を演出し、至福の時間を作り出す。
浮舟さんのグループは、テラスカフェで休憩をしていた。周りには他のお客さんが座っており、とても近くに陣取れる状態ではない。浮舟さんは、ロイヤルミルクティーを飲んでおり、僕はその美しい横顔を、ただただ見つめることしかできなかった。
「どうする? ジップラインする?」
暇を持て余した早川が、僕に尋ねてくる。
「ちょっと、後にしてくれ」
「ええ……」
早川は唖然とした。僕は、ロイヤルミルクティーを飲む浮舟さんを眺めるこの時間を、大切にしたい。
二〇秒眺めていたそのとき、浮舟さんと目が合った。彼女は、口角を上げ、カップを置き、口パクで「おいしい」と僕に伝えた。
僕はその行動が視界に入った瞬間、悶え死にそうになる。体中がそわそわと震え、全身が愛で溢れた。なんなんだあの可愛い生き物は。人を幸せにするためだけに生まれた存在にさえ思える。邪心のないあの笑顔を、僕は守りたいと強く思った。
その後も、ジップラインを滑る友達を、楽しそうに見上げる浮舟さん。声を出しながら、そりで無邪気に坂を下る浮舟さん。アルプスの女の子のように、大きく体を伸ばしてブランコを漕ぐ浮舟さん。同じグループの人の冗談に、思わず吹き出すように笑ってしまう浮舟さん。を、僕はただただ眺めていた。周りの人は、完全にそれに気付いていたと思う。でももうそんなことは関係ないという思えるレベルにまで、僕の気持ちは高まっていた。
早く想いを伝えたい。今までのことを考えれば、告白は成功する可能性の方が高いんじゃないか。恋は盲目と言うが、客観的に見て脈アリだろう。
どこが客観的かと問われれば、それは答えられないが、とにかく、武装を何もしていない強引な理論的思考で、僕は自分を鼓舞し、自信をつけていた。
雄琴温泉の旅館に到着し、男女に分かれた各部屋で少々の駄弁りをし、大学生には十分すぎる会席料理を堪能する。そして、いよいよメインである温泉に入浴する。
「いやぁー、足伸ばして入れるの、最高だな!」
東屋が全身を伸ばして湯船に浮いている。僕も「かぁー」と、五〇代のような声を出しながら、ゆっくりと湯船に浸かる。
隣から、女性陣の盛り上がる声が聞こえてきた。男どもは、一斉に静まり返る。
「えー、あおいちゃん、結構おっきいー」
「やめてよー。恥ずかしいじゃない」
「……」
男どもは、無言で目を合わせ、力強く頷く。
「お前ら、こんなこと人生で一度あるかないかだぞ。鼓膜に焼き付けておけ」
正則先輩が、響く重低音でみんなに告げる。大胸筋と、下半身がピクピク動いている。
「おお! 歩美も結構いい身体してるじゃん」
「そうかな?」
「どれどれ」
「きゃっ」
壁を隔てた隣で、浮舟さんがあれやこれやをされていると妄想すると、僕はいてもたってもいられなくなった。
「ごめん。無理だ僕」
「おいおい。どうしたんだよ。って、顔真っ赤だな」
東屋にくくくと笑われる。
「もう出る。みんなゆっくり浸かっていて!」
僕は早足で大浴場を出た。こんな場所にいたら、どうにかなってしまいそうだ。体が冷えないうちに着替えを済ませ、更衣室を出たとき、隣の女子更衣室からも、一人同時に出てきた。
「あれ、総角くん」
それは浮舟さんだった。彼女は、いつも着ている自前の小紋ではなく、旅館で用意されている牡丹柄の浴衣を着ている。
「浮舟さん!? 早いね」
「温泉は気持ち良かったんですが、なんだか落ち着かなくて」
そりゃ、高貴な浮舟さんには、あの赤裸々な雰囲気は耐えられないだろう。
「そうなんだ」
僕は三秒の間を置く。
「ちょっと外で涼まない?」
休憩所のさらに外には、外気浴用の涼み処がある。
「はい。いいですよ」
浮舟さんは、僕の後を静かについてくる。横並びのベンチに腰掛ける。
「ふぅ。いやぁ、温泉はやっぱり良いね」
「そうですね。お肌がスベスベになった気がします」
浮舟さんは、自分のほっぺをムニムニと触った。
「会席料理も美味しかったね」
「はい。近江牛のすき焼き、また食べたいです」
……。しばらく無言の時間が続く。いざ告白するとなると、準備時間が数分必要だ。
「あのさ」
愛の言葉を装填し、告白の発射準備が完了する。
「浮舟さんって、好きな人とか気になる人とか、いるの?」
「なんでですか?」
浮舟さんは、横を向いた。目が合う。
「え、まあ、ちょっと気になって?」
くそ! シミュレーションでは何回もかっこよく決めているのに! どうしてこうなる!
「総角くん、私のこと好きですか?」
浮舟さんから出た思いがけない言葉に、僕の黒目が大きくなる。
「え?」
浮舟さんは、一〇センチほど僕に寄った。
「私のこと、どう思っているんですか?」
これは、いいのか? 言っていいのか? こんなフリーパス、願ってもないが、これでゴールは決まるのか? いや、言おう。変な間はだめだ。
「僕は、浮舟さんのことが好きだよ。大好きだ」
それを聞いた浮舟さんは、そっと僕にキスをしてきた。僕は何がなんやら、脳みそがどこか遠くに転送されている。思考することができない。
「私も好きです。総角くんのこと。私を好きでいてくれるところが、大好きです」
脳みそが僕の頭の中に復帰すると、もう抑えきれなかった。今度は僕から浮舟さんの唇に向かい、長いキスをする。お互いに腕を腰に回し、二人の体はホールドした。
その日の月は、いつにも増して輝いて見えた。
夏季合宿の後、僕と浮舟さんは、付き合い始めた。その事実を知っているのは、東屋と、浮舟さんの親友、宿木さんだけだ。元々同じサークルだから、大学内を二人で歩いていても、さほど目立たないのが幸いだった。なぜ、交際の事実を広めていないかと言うと、いくつか理由はあるが、大部分を占めるのは、浮舟さんの意向だった。彼女が、付き合っていることは広めたくないと言っているので、僕もそれに倣っている。本当は、僕はバンバンに言いふらしていきたい。こんなに可愛い子と付き合っているんだぞと。だが、その意向の相違で喧嘩になって別れでもしたら、元も子もない。付き合ってしばらくは、気を遣わなければ。
お昼は、食べられるときは一緒に食べると決めている。僕は東屋を、浮舟さんは宿木さんを誘ってはいるのだが、僕たちに気を遣ってか、来ないことも多い。良心館の大食堂で、二人向かい合せで座る。
「浮舟さん、今日は何にしたの?」
「ハンバーグだよ。想像できる味がいいの」
付き合い始めてからは、浮舟さんは、僕にタメ口で話すようになった。そのことが、僕はとても嬉しかった。気のせいか、少しだけ口が悪くなった気もする。おしとやかさは兼ね備えているが、ときたま冗談も言うようになった。
「総角くんは?」
「カツカレー。美味いんだよこれが」
「いつもそれじゃん。飽きないの?」
「飽きない。カレーはそういう次元の食べ物じゃないんだよ」
僕はスプーンいっぱいにミニカレーを作り、あむっと口に運ぶ。
「私、カレー嫌いなの」
「それが不思議なんだよ。カレー嫌いな人なんて、初めて見たよ」
浮舟さんは、眉を曲げて顔をしかめた。
「昔一度食べたんだけどね、その後も数時間ずっと味が口の中に残って、夜ご飯のお寿司がすごく不味かったの。そこから、私はもうカレーを食べることはしないと心に決めた」
「うーん。後味が残るのは分かるけど、そこまでかなぁ」
僕は、浮舟さんの方へ皿をずらす。
「一口食べてみて。カツと一緒に。今食べたら、イメージが変わるかもよ?」
浮舟さんは、「どうだか」と一度首を傾げた後、僕のスプーンで小さくカレーをすくい、口に運んだ。もう二人の間で、間接キスはどうとも思わなくなっている。
「うん。私やっぱり好きじゃない」
五度ほど噛みすぐに飲み込み、皿を僕に突き返した。浮舟さんのような金持ちの人は、濃い味が合わないのだろうか。いや、それなら、濃い味のハンバーグをにこやかに食べているのが辻褄が合わない。
「ちなみに、ハンバーグカレーはどう?」
僕はなんとなく尋ねる。
「愚問だよ。無理。カレーがハンバーグを飲み込んじゃう」
なるほど。それはそうだ。もう浮舟さんにカレーを勧めるのはやめよう。喧嘩になりそうだ。
被っている講義があれば、一緒に受けるようになった。東屋と被っていれば三人横並びだ。浮舟さんは目立つのが好きではないので、できるだけ端の方で受けている。目立ちたくないなら、なんで小紋を着てるんだということは、聞かないようにしている。
浮舟さんと一緒に講義を受けて分かったことは、彼女はなかなか字が汚いということ。その美貌からは想像を絶する汚さだ。一万歩譲って、ようやく『味のある字だね』の言葉を出せるかどうかのライン上にいる。講義が終わった次の日に、
「私のノートの字が判別できないから、総角くんのノート見せてくれる?」
と言われることがしばしばある。
そして、浮舟さんは、九〇分の講義中に、必ず一〇分ほど睡眠の時間を取っている。これもまた驚きだった。ついウトウト寝てしまったということではない。睡眠用に、小さな枕を持ち歩いているのだ。その間は、僕がノートを取ってあげている。浮舟さんの寝顔を一〇分間拝めると思えば、これは悪くないルーティンだ。
僕が浮舟さんと付き合って、一番驚いたのが、『僕が思っている以上に、浮舟さんは僕のことが好き』だということだ。ラインは毎日欠かさずしているし、会えない日は必ず電話が掛かってくる。話すことがなくても、「今何してる?」だの「私はこんなことしてる」だの、強引に話題を作っては話をしてくれる。
二人でデートをするときも、必ず向こうから手を繋いでくる。それも紛うことなき恋人繋ぎで、腕と腕を絡め合い、身体同士が密着した状態になる。大学内でも、さすがに手は繋がないが、距離感は近く、彼女は本当に付き合っているという事実を隠したいのだろうか? と思うことが多々ある。
初体験は、付き合って一ヶ月もしないうちに、浮舟さんから誘ってきた。僕は、彼女がいたことはあっても、Hはしたことがなかった。聞くと浮舟さんは、彼氏もできたことがなければ、Hももちろん未経験らしい。それで積極的に来たのは驚いた。こういうのは男からいかなきゃなとも思ったが、一度始まってしまえば、もう衝動を抑えることはできなかった。
狭いワンルームの僕の家でことを行った後、浮舟さんは僕に抱きつきながら、何度も「好き」と言ってくれた。その時間がとにかく幸せで、普段は見せない色気のある顔と、艶のあるトーン、浮舟さんの感触を、僕は一生忘れることができないと思った。
付き合い始めて二ヶ月半ほど経った、八月の初旬。浮舟さんの元気がなくなっていた。一緒に講義を受けていても、二人でデートをしても、空返事が続いている。大学近くの中華屋で夜ご飯を食べていたとき、僕は、恐る恐る尋ねた。
「最近元気ないけど、何かあった?」
恐る恐るというのは、僕の知り得ないところで、僕が彼女に嫌われるようなことをしているのではないかという一抹の不安があったからだ。もしそうであれば、原因を聞くのが得策かどうか、僕には分からなかった。聞かずに、なあなあに流れるのを待つのがいいのではないかとも思えたからだ。理由を彼女が口に出して話すことによって、表面張力ギリギリで堪えていたものが爆発し、「もう別れる!」とでも言い出されることが、僕にとって、最悪の展開だ。それは避けなければならない。そんなことを頭の中でグルグルと考えながらも、それでも僕は彼女に、元気がない理由を聞いていた。それは、僕の不安以上に、浮舟さんへの心配が勝ったからだと思う。
「うーん。総角くんには、いつか言わなきゃいけないと思ってたんだけど……」
ああ、しくったかもしれない。やはり、僕の何かが原因で、別れ話に持ってかれるのか。
「最近ね、親と喧嘩してるの」
予想とは違った角度の話に、僕は胸をなでおろす一方、今まであまり話に出てこなかった両親のことが、気になった。
「そうなんだ。なんで喧嘩してるの?」
「それは……」
浮舟さんは、テーブルに置いてある、乾いた酢豚を見つめている。
「言えない……」
酢豚を見つめる浮舟さんを見つめて、僕は、ここが男の見せ所だと気付いた。
「そっか。無理に言わなくてもいいよ。でも、僕はいつだって浮舟さんの味方だから、助けになれることがあるかもしれない。だから、言いたくなったら言ってくれればいい」
「……ありがとう」
浮舟さんは、鼻をすすって、小粒の涙を流し始めた。僕は、夜ご飯を早々に切り上げ、下宿先に浮舟さんを連れていき、何度も抱いた。
次の日の朝、僕が気だるそうに目を開くと、浮舟さんはすでに起きていて、僕を凝視していた。
「おはよう」
「うん、おはよう」
僕は、彼女の頭の下に、腕を敷く。
「総角くん」
浮舟さんは、自身の鼻を、僕の鼻にピトッとくっつけてきた。
「一緒に住みたい」
僕はその言葉を聞き、一気に身体が熱くなった。
「いいよ」
理由を尋ねる前に、まず返答をする。というか、大方の予想はついていた。それは浮舟さんと両親の喧嘩だろう。であるならば、鉄は熱いうちに打て、浮舟さんが僕と同棲したいと思っているうちに、瞬間的に承諾するべきだ。
「僕も、浮舟さんとずっと一緒にいたいと思ってた」
それは紛うことなき事実だ。
「嬉しい」
彼女は僕にキスをしてきた。ギュッと抱きしめることによって、お返しする。
「理由は聞かないんだね」
「うん。理由なんてなんだっていいよ。一緒に過ごせるという事実がそこにあるなら、もうどうだっていい」
「そっか」
浮舟さんは立ち上がり、下着を履いた。
「今日、家に戻って言ってくるね。彼氏の家に住むことにするって。きっと勝手にしなさいって言われる」
両親との喧嘩は、そこまで根が深いものなのか。原因はなんだっていいと思っていたが、さすがに少し気になってきた。が、今更尋ねるのはダサい。
「うん。でも親はいつまで経っても親だから、仲直りできるなら、しときなよ」
「ありがとう。……善処する」
浮舟さんは、しっかりと着付けをせずに、少しはだけた小紋で、自宅に帰っていった。
次の日から、浮舟さんと僕は、八畳のワンルームで同棲することになった。彼女が来て扉を開けたとき、大量の小紋を抱えているのが視界に入り、「それは実家に置いていってくれよ」と思ったが、口には出さなかった。
八畳のワンルームでの二人暮らしは、正直苦しいものがあった。元々、強引に五五型のテレビを置いているような、計画性のないレイアウトだ。浮舟さんの荷物を置くために、僕の荷物を半分ほど減らした。服なんて、もうほぼ三パターンほどしかない。それでも浮舟さんは、
「総角くんが何を着ようが、私は好きだよ。だって、裸だって何回も見てるんだから、服装なんてもう関係ないよ」
と言ってくれる。
部屋が狭くなればなるほど、生活しづらくなる一方で、二人の愛が強くなっていくようで、僕は嬉しかった。寝るときは、もちろんシングルサイズの布団で一緒に。テレビで映画を観るときも、二人で肩を寄せ合って。料理は、僕のほうができた。でも、浮舟さんは僕に料理を振る舞いたいらしく、一所懸命にレシピを調べて作ってくれた。死ぬほど幸せな時間が続いた。
一点、浮舟さんと同棲し始めてから、気になる点があった。一緒に暮らすにあたって、お互いに鍵付きのボックスを持つことにした。それは、いくら同棲すると言っても、相手に見せたくないものはあるだろうということで、二人の同意の下買ったセキュリティボックスだ。そのボックスの中に、僕は、浮舟さんと付き合う前に買ったアダルトビデオや、前彼女との想い出の品を入れていた。要は、『捨てるべきと分かっていながらも、捨てられないもので、且つ浮舟さんに見られるべきではないもの』をしまっていた。これは彼女への気遣いの表れでもある。前彼女との想い出の品はともかく、アダルトビデオは、おそらく僕が所有していることを浮舟さんは知っている。何回も僕の家に来ているのだから。それを見えるところには置かないというのは、せめてもの優しさと自衛だ。
一方、浮舟さんがボックスに入れているものは、財布や学生証だった。財布はまだ理解できる。僕が信用されていないと考えると、不服だが、いちいちそんなことを彼女へ突くようなことはしない。だが、学生証をボックスへ入れる意図はなんなのか。顔写真の映りなんて、僕は気にしないのに。
同棲して改めて気付いたことは、浮舟さんは本当にお金持ちで、僕とは住む世界が違うのだということだ。それが二人で暮らしているのだから、日々驚愕と衝撃の連続だ。
浮舟さんは、水とお湯が分かれているタイプの蛇口に慣れておらず、使いこなせない。なので、最初はちょうどいい温度のお湯を出す調整に手こずり、軽いやけどをし、すぐに僕に泣きついてきた。
また、今まではカシミアの高級ベッドで寝ていたので、量販店で買った布団一式セットで眠るのは、今だに慣れないらしい。毎晩二時か三時になると、僕を起こして暇つぶしの会話を始める。
「結局『シン・ウルトラマン』観に行くの?」
「悩んでる。僕はあんまりウルトラマンを通ってきてないから。でも庵野作品は観たいという気持ちもある」
「ふーん。エヴァンゲリオン、総角くん高評価だったもんね」
流れとトーンを鑑みるに、どうやら、浮舟さんは、ウルトラマンを観る気はあまりなさそうだ。
「うん。よく分からなかったけど、面白い。後で色々調べたくなる面白さだね」
「それって、褒めてるのか褒めてないのかよく分からない」
「褒めてるよ。なんの印象にも残らない作品が多い中で、グッと心を掴んでくる作品は素晴らしい。その掴み方は、なんだっていいんだ」
僕は、勝手な持論を深夜三時に語る。
「そういえば、この前のミクロ経済の前期試験、どうだった?」
八月に入り、大学では単位取得に関わる前期試験期間に突入している。履修科目によっては、試験結果を公表するところもある。浮舟さんは、答案が返ってくるタイプの科目でも、絶対に僕には見せない。それほど点数を見られのが恥ずかしいのだろうか。だから僕は、浮舟さんが嘘をついていないことを信じて、尋ねるしかない。
「七八点だったよ」
「ええ、凄いじゃん。見せてよ」
「嫌だ」
やっぱりか。
「総角くんは?」
「八一点」
「……」
「怒らないで」
浮舟さんは、僕を無視して逆の方向を向き、わざとらしく寝息を立てた。
夏休みに入ると、今まで講義で強制的に会っていたいわゆる『知人』とは、めっきり会わなくなる。サークルの活動も基本的には外への散策やイベントなので、大学内に入るのは、自炊するのが面倒で、食堂を利用するときくらいだった。
きょうけんの散策に参加するメンバーも、八月にもなると段々と減ってくる。他のサークルと掛け持ちしている人が、どのグループに本腰を入れていくか、定まる頃合いだからだ。元々、きょうけんと、他のスポーツ系サークル、テニスや野球などを掛け持ちしている場合、共通目的や力を合わせて何かを達成するといったことがないきょうけんは、不利だ。それを加味すれば、残っている方だと思う。忘れられない程度に、定期的に参加するメンバーは、一五人ほどいて、その中でも常時入れ替わりながらも、一〇人ほどは毎週集まるので、サークル感はなんとか保てている。
だが正直、僕には人数が多かろうが少なかろうが、そこまで関係ない。つるむメンバーはいつも決まっているからだ。入学当初から仲良くしている東屋に、あっけらかんとしていて話しやすい宿木さん、それに、彼女の浮舟さん。僕の大学生活のほとんどは、この三人で回っている。
そして今日は、久々に東屋と二人で遊ぶことになった。最近僕は浮舟さんにゾッコンで、東屋の相手をしていなかったので、拗ねているらしい。
「いやー、サークルと講義以外で会うの、久々だな!」
暇な時間が増えたのであろうか。東屋の体は、アマチュアボクサーに匹敵するくらいに鍛え上げられていた。ちょっとこわい。二人で今出川駅のカラオケに入る。
「最近どう? 歩美ちゃんとは」
東屋が、二人分のドリンクバーを取ってきて、ドカンと座った。
「おかげさまで仲良くやらせてもらってるよ」
僕はコーラをストローで一気に飲む。
「夜の営みは? 結構してるの? 同棲してたら、どえらいことになるんじゃないか?」
男同士だと、すぐこういう会話になる。自然の摂理だ。そして、案外こういった話は嫌いじゃない。
「まあね。そちゃカップルですから?」
「ふうううぅぅぅ」
カラオケ特有のノリで、マイクにエコーをかけながら東屋がおちゃらけている。
「歩美ちゃんの、気持ちいい?」
「当たり前だろ。もう凄いよ」
「ふうううぅぅぅ」
盛り上げる方法、それしかないのか。
「この流れで、いっちゃいますよおお!!」
東屋は、デンモクでイケナイ太陽を入れた。夏、カラオケの序盤、盛り上がりたい。ベストな選択肢じゃないかっ! 僕も立ち上がり踊りだす。
一通り踊り狂い、ドリンクバーで再度コーラを入れ、部屋に戻る。今度は僕が東屋に根掘り葉掘りする番だ。
「東屋はどうなの? 最近の恋模様は」
東屋はにやりと片方の口角を上げた。
「聞いちゃう?」
「聞いちゃう」
腕を頭の後ろで組み、口笛を吹こうとして音が出ていない。
「なんだよ。もったいぶって」
「いやぁ、もう彼女とか、いらないかなって」
「ええ? 欲しい欲しい言ってたじゃん」
東屋は女の子大好きマンだ。
「いやだって、縛られるわけでしょ? 光喜だって、実際歩美ちゃんに縛られてるだろ? 家の中でも外でも一緒、窮屈にならない?」
ああ、そういうことか。東屋の言いぶりで、『彼女ができない』のではなく、『彼女をつくらない』という意味での話なのだと理解をする。
「いっぱい遊んでるんだ?」
「遊んでるって、言い方が悪いな」
「最近したのいつ?」
「ええと、ああ、昨日だね」
なんて奴だっ! 僕と遊ぶ前日は、楽しみで他のことが手に付かないくらいの気持ちでいろよっ!!
「クソ野郎!」
「なんで!?」
東屋は僕の罵倒に肩をすくめた。
「いいじゃん。光喜には歩美ちゃんがいるだろ? 俺が羨ましいのか?」
「彼女は彼女だ。それとは別軸で、多くの女性から求められるハーレムというものは、男の夢なんだよ」
「別軸にするなよ……。なかなかひどいこと言ってるぞ」
僕は浮舟さんのことが大好きだ。でも、だからもう女性にモテなくてもいいとは思っていない。おそらくこの気持ちが、浮気心へと繋がっていくのだろう。でも僕は大丈夫だ。言葉ではハーレムがどうだの言っても、行動に移せるほどプレイボーイでも、勇敢な男でもない。僕は言うだけの人間だ。だから浮気なんてしないし、できっこない。
「遊んでいる女性は、何人くらいいるの?」
「うーん、まあ、定期的に遊ぶのは六人くらい? 全員と毎回Hしてるわけじゃないぞ」
「惜しい! あと一人でウィークリーコンプだったのに」
「確かに。じゃもう一人見つけようかな。そこらへんにいるかな」
そんなコンビニ感覚で見つけられるのか。東屋からは、オーラのようなものが漂っている。とてつもない自信の表れだ。その自信はどこから来るのか、筋トレに決まっている。とにもかくにも筋トレ。巷で流行っている理由が、東屋とつるんでいて嫌になるほど分かる。蜻蛉筋トレクラブのリーダー、正則先輩も大分モテていると聞いた。あのガタイで泣き上戸というギャップに、みんなやられるのだろう。筋肉があるというだけで、全てがギャップになる。『ムキムキなのに優しい』『ムキムキなのに少食』『ムキムキなのに声が高い』、本当、筋トレは努力した分そのまま返ってくるとはよく言ったもので、努力した分以上のリターンがあるのではないかとすら思える。だが始めの一歩がなかなか遠い。東屋に会うたびに筋トレしようと思っては、家についたときにはやっぱりいいやとなっている。そういったハードルや誘惑を日々乗り越えて、彼らは鍛えている。そう考えると、尊敬の眼差しすら向けてしまう。
「そういえば」
東屋のトーンが、少し低くなった。
「光喜に言うことがあったんだった」
「何?」
どんな話でも地続きにする彼が、改まるとは珍しい。
「歩美ちゃんについてなんだけど」
「うん」
「たまに遊ぶ女子からさ、良くない噂を聞いたんだよ」
僕は、胸がざわつく。
「どういうこと?」
「その女子は、歩美ちゃんと高校時代の同級生だったらしいんだけど、高校時代の歩美ちゃんは、『引くほどビッチ』だったらしい」
ビッチ……、簡単に言えば、性に奔放な、淫らな女性のことだ。
「俺が歩美ちゃんを見る限り、とてもそうは思えないけど、光喜から見て、思い当たる節はあるか?」
正直、全く無かった。性に奔放というほど、慣れている気配もないし、僕以外の男とつるんでいる気配は一切ない。隠しているということか? でも、同棲していてそんなこと、果たして可能なのだろうか。
「いや、僕も、とてもビッチだなんて。そんな風には」
「そうだよな。何かの勘違いだったらいいんだけど」
「信憑性はあるのか? その情報は」
東屋は、ガシガシと頭を掻いた。
「そんなこわい顔するなよ。俺が適当に言ってるわけじゃないんだから」
僕は溢れ出る怒りを、東屋にぶつけていたらしい。
「会ってみるか? その子と。直接聞いたほうが早いんじゃないか?」
東屋の提案に、僕は、それでもし僕の知らない事実が次から次へと出てきたらと、少しびびったが、それでも会う価値はあると、頷いた。
東屋から『浮舟さんのビッチ疑惑』が出てきた四日後、その証言をした橋本という女性と会うことになった。目的をそのまま言っても嫌がられる可能性があるということで、東屋は、橋本さんに、「気の合いそうな男友達がいるから、紹介する」と言って呼んでいるらしい。僕が彼女持ちって、忘れてるのか? こんなのバレたら、僕が浮気者になってしまう。それでも、ここまで来たら、僕のメンタルが許す限り、限界まで聞くしかない。
喫茶店の扉が開き、橋本さんが入ってきた。少しつり目で、艶のある黒髪ロング。背はそこまで高くはないが、スタイルはスラッとしていて、胸も大きい。それにミニスカートを履いている。東屋の好きそうなタイプだ。
「ああ、こっちこっち」
東屋が、笑顔で手招きする。橋本さんも笑顔を振り撒き返した。
「頼道くん、久しぶり。元気だった?」
「うん。ぼちぼちやらせてもらってるよ」
「何ぼちぼちってー」
橋本さんは、対面から東屋の肩をバンバンと叩く。激しめのスキンシップ、ますます東屋の好きそうな女性だ。
「ええと、こいつが総角光喜。真面目だけど面白いやつだから、きっと気にいると思うよ」
「どうも」
僕は軽く会釈をする。
「どうも! 橋本姫華です。光喜くん、よろしく!」
橋本さんは手のひらを前に差し出し、僕にハイタッチを求めてきた。僕は仕方がなく応じる。
「ちなみに、橋本さんは、サークル入ってるんですか?」
「うん。メロンっていうテニサーだよ」
ああ、なんか納得できる。僕は一人で腑に落ちた。
その後、本題に入るための適当な会話を、三〇分ほど続けた。この時間がなかなか苦痛で、仲良くない初対面の人と、お互いを探りながら話すのは、相当に気を遣うし疲れる。ただ、さすが東屋といったところか、彼のおかげで、僕が会話を投げ出さずに済んだ。適度な相槌とちゃちゃ入れで、僕が橋本さんへ、ある程度踏み込んだ質問をしても大丈夫なくらいの関係性を、短時間で築きあげることができた。
「でね、はるかがパフェを頭から被ってさー」
「あはは。それはやばい! なあ光喜」
「確かに。やばいな」
知らない人から出る、知らない人の話ほど興味が湧かないものはない。もうそろそろ始めるか。
「ところで橋本さんさ」
「何?」
「浮舟歩美さんと高校時代友達だったって本当? 僕と東屋、浮舟さんと同じサークルなんだよ」
橋本さんは「あー」と言い東屋を見た。
「友達っていうか、たまに遊んでたくらい? 同じクラスになったことはあるよ」
「そうなんだ。なんか東屋から聞いたんだけどさ、浮舟さんってビッチなの?」
僕が浮舟さんと付き合っているということは、橋本さんは知らない。あくまで、同じサークルの女子の、下世話な話に興味があるという、男子大学生らしい体裁で尋ねる。
「今の浮舟さん、全然そんな感じじゃないからさ、気になって」
僕がズバズバと話をしていく隣で、東屋は変な緊張感を醸し出している。やめろ! 別に今しているのは、あくまで『普通の会話』だから! お前のせいで変に勘ぐられるだろ!
「それ頼道くんも言ってたけどさ、そんな気になる?」
橋本さんは背もたれにもたれかかった。
「いやあ、気になるね。もうギャップがありすぎて」
「もしかして、好きなんだ?」
好きというか、愛し合っている。
「まあ、可愛いよね」
僕は適当にはぐらかした。
「確かに可愛いよね。うちの学校でも、もうモテモテだったよ」
誇り高さと、少しの嫉妬が湧き出る。
「そうなんだ。でも付き合ったことないとか言ってたような」
「ええ!? そんなわけないでしょう。色んな男をとっかえひっかえしてたよ」
橋本さんの言葉に、僕は気が動転しそうになる。慌てて東屋がバトンタッチし、会話を続ける。
「ちなみに、大学に入ってから歩美ちゃんと会った?」
「いやだから、そんな友達っていうほど仲良くはないよ。会ってもないし見てもいない。同じ大学に受かったっていうことを知っているくらいだよ」
「今の歩美ちゃん、毎日着物着てるんだよ。変わってるよね」
「ええ? もう訳わかんない。ずっと二人は嘘ついてるの? 妄想?」
橋本さんは、段々と機嫌が悪くなってきていた。大して仲良くもない高校時代の同級生のことを執拗に聞かれるのは、気分の良いことではないだろう。
「高校時代は着物とか着てた?」
東屋は、めげずに尋ねる。
「制服だから知らないよそんなの」
「そりゃそうか」
「でも、クラスの打ち上げで何度か私服を見たけど、普通に洋服だった。普通というか、ミニスカートとか、胸元が見えるシャツとか、ませた服着てたよ」
今の浮舟さんと、あまりにもかけ離れている。橋本さんの話はある程度信憑性はあるが、今の浮舟さんだって、演じていたり、作っているようには見えない。
「古都研究会だっけ? 二人と浮舟さんが入っているサークル。イケてる女子少なそうだもんね。みんなが浮舟さん狙うのも分かるわ」
「古都研究会……?」
僕は眉をひそめた。
「僕たちは京都研究会だよ」
「ええ? ああ、そうなの? なんか又聞きだけど、浮舟さんは古都研究会に入ったって、高校の友達から聞いたからさ。間違えてたんだね。ごめんごめん」
「ちなみに、その友達を紹介とかって……」
僕がその先を言おうとすると、橋本さんは明らかに聞こえる音で、舌打ちをした。
「もういいでしょ? 何を聞きたいのか知らないけど、利用されてるみたいで面白くない」
僕と東屋は、一瞬アイコンタクトをした。彼女から聞き出せるのはここまでのようだ。
「姫華ちゃん、ありがとうね。また連絡するよ」
東屋が、橋本さんをエスコートしながら喫茶店の外へ出た。外では何やらぶつくさと文句を言われてるらしい。
浮舟さんのビッチ疑惑を語る彼女と会ったのは、どこかでおかしな点を見つけて、その疑惑を晴らすためだった。だが、その疑いはどうしようもなく根強く、拭いきれないものとなった。本人に直接聞くしかない。でも聞き方は大事だ。浮舟さんを嫌な気持ちにさせないよう注意を払わなければならない。例えビッチだとしても、今後の関係性を変えるつもりはない。浮舟さんを手放すわけにはいかない。
「いやぁ、きょうけん史上初の試み、みんな! 集まってくれてありがとう!!」
正則先輩は、既に泣きそうだった。蒸し暑さが増してきた八月中旬、きょうけんは、初の海イベントを計画し、一一人が集まった。男子六人、女子五人。会長である正則先輩のおかげで、きょうけんはここ数年で最も明るい雰囲気が漂っているらしいが、まだ陰の気もほのかに残るこのサークルで、二桁人数が海イベに参加するということは、快挙ではないだろうか。
「じゃ、女子はこっちね。男子共、さっさと向こうへ行きなさい」
副会長に指示され、男子全員が浮足立っていることがすぐにバレる。男子更衣室に行き、足早に水着に着替えた。常識的に考えて、別に急がなくても着替えの時間で女子陣より遅くなることは考えられないのだが、一秒でも早く集合場所に行き、女子の水着姿をコンマ一秒でも長く堪能したいという、逸る気持ちの表れだ。
集合場所に、どこかの戦隊ヒーローのように、六人横並びで向かう。後ろから「すみません」と邪魔がられ、すぐに陣形が崩れる。
「みんな、どんな水着着てくれるんですかね?」
東屋が、正則先輩ににやけながら尋ねる。
「どうだろうな。とびきりエロいやつ、着てくるんじゃないか?」
「うひょーい!」
リアルでうひょーいなんて言う奴と、僕はつるんでいるのか。
女子陣が遠くから歩いてきた。今日ほど、視力が二・〇あればと思った日はない。段々と近付いてきて、その全貌が明らかになる。
まず、全員の目を引いたのが、矢部さんだった。真っ赤な三角ビキニで、布面積は驚くほどに小さい。胸も大きく、おわん型でEカップはあるであろうか。ボトムのサイドは紐で結ぶタイプで、キュッと引き締まったお尻がほとんど見えている。これは、……エロい。彼氏の早川は、誇らしげな表情をしている。僕だったら、彼女がこんなに際どい水着を着たら、他の男の視線を集めるし、ナンパもされるだろうし、不安だけどな。そう思ったが、これはひねくれた考えなのだろうか。それにしても、矢部さん、こんなにセクシーな身体をしていたのか。早川のことが途端に羨ましくなった。
僕の大好きな浮舟さんを見ると、胸元に大きなリボンをこしらえた、白のワンピース型の水着だった。とても可愛い。ピタッとした水着は、スタイルの良さが際立つし、胸元のリボンは、胸が小さいからカモフラージュで付けているわけではない。僕は知っている。浮舟さんはDカップだ。それもEに近いDカップ。つまり、大きめの胸を隠すためのリボンだ。良い。良いぞ。着慣れていないのか、頬を赤らめ恥ずかしそうな表情をしているのもドキドキする。可愛さの中に、スパイス的にエロさがある。僕の好みだ。
浮舟さんを眺めて顔がふにゃけると同時に、僕は少し安心していた。もし、浮舟さんが矢部さんのような露出の激しい水着を着ていたら、いよいよビッチ疑惑が本格的に信憑性を帯びてくるからだ。普段はおしとやかにしていて、ここぞばかりに自らの性の魅力を開放する。それはある意味ビッチ中のビッチではないだろうか。浮舟さんはそういったことはないということが、今確認できた。これは大きな安心材料だ。僕の心のざわめきが、少し取れた。
一一人で最初に行ったのは、ビーチバレーだった。大所帯での海遊びといったら、これが定番だろう。五対五で、審判は副会長がしてくれる。
「おらぁ!」
相手が誰であれ手加減をしない正則先輩の、強烈なアタックが、僕たちのコートにズダァンと決まる。
「ちょっと! これはアクティビティですよ!」
蜻蛉筋トレクラブに入り、比較的正則先輩に強く当たれる東屋が、声を張って突っ込む。
「アクティビティ!? ビーチバレーはスポーツだぞ! 真剣勝負だ!」
正則先輩は、なかやまきんに君のように、大胸筋を揺らした。
「ピー! 三対〇! 一年生チーム! もっと頑張ってよ!」
副会長が笛を鳴らし、ゲームが再開する。副会長の水着は、モノキニと言われる、前から見るとワンピースだが、後ろは背中が大きく空いていて、ビキニに見えるタイプだ。とてもセクシーで、男子の目はちらちらと副会長に向いている。
「それなら俺もぉぉ!!」
ズドンッ!
僕がボーッと副会長を見ていると、東屋が綺麗にアタックを決めていた。
「よっしゃぁぁ!」
僕や他のメンバーと力強くハイタッチをする。女子の注目が、東屋と、東屋の隆々とした筋肉に向かう。こういうとき、筋肉付けとけばよかったなあと思う。毎度のことで、それは『思う』だけなのだが。
その後は、蜻蛉筋トレクラブの面々の独壇場となり、それ以外の人たちは、高速で左右に動くボールを、ただ首を振って見ているだけの時間が続いた。それでも僕はなかなか楽しかったのだが、周りの白けていく雰囲気にいち早く気付いた東屋の、「もうそろそろやめましょうか」の一言で、ビーチバレーは終了した。一時間半の自由行動になったとき、浮舟さんが僕の下へちょこちょこと小股で可愛く走ってきた。
「何か食べる?」
「そうだね」
海の家で焼きそばとかき氷を買い、その近くの比較的人の少ない浜辺に二人で腰を下ろす。
「どうかな? 水着」
浮舟さんは、僕の顔を覗き込むように尋ねてきた。
「めちゃくちゃ可愛い。ありがとう」
「なんで感謝してるの」
浮舟さんは口に手を当てて笑った。実際、森羅万象全てに感謝を捧げたいほど、浮舟さんは可愛かった。小紋からのギャップの破壊力が凄まじい。僕は浮舟さんを褒める流れで、聞きたいことへの助走を始めた。
「水着着たの、いつぶり?」
「ええ、そんなの覚えてないよ。最後に着たのは高校の水泳の授業かな」
「そりゃ授業では着るだろうけど、遊びでだよ」
「そうなると幼稚園くらいまで遡るんじゃない? 家族でプールに行ったような気がする」
なるほど。プールや海に、友達同士で行ったことはないと。
「そうなんだ。でも、浮舟さん、スタイルいいから、もっと際どい水着も似合うんじゃない?」
僕は冗談ぽく提案した。
「嫌だよ。これでも大分頑張ったんだよ? 総角くんのために」
総角くんのために……総角くんのために……総角くんのために……。僕の中で何回も反芻される。ああ、今の言葉を目覚まし時計のアラームにしたい。
いかんいかん。今は浮ついてはいけない。慎重に、言葉を選びながら真偽を確かめなければ。
総角くんのために……。
「ちなみに、浮舟さんってビッチなの?」
「え?」
「ああああああ!!!」
なんてことを! 脳みそが回っていないっ! キャパの九割を『総角くんのために……』に奪われたせいで、正常な思考ができなかった! 全てをすっ飛ばして、ゴールの先のさらにその先を聞いてしまった! もう終わりだっ!! 浮舟さんが僕から離れていく!!!
浮舟さんは一瞬硬直し、再度僕に聞き直す。
「ビッチ……? って何?」
「ああ、いや、ビーチ! ビーチ好きなの? ってこと」
「いや、ビッチって言ってたでしょ?」
「言ってないよ」
「言ってた」
浮舟さんは、執拗に食い下がってきた。僕は脳内で、自分で自分を殴り、はぐらかすのを諦める。
「いや、なんかそんな噂をちらっと聞いてさ」
浮舟さんを信じきれない後ろめたさから、僕は彼女の瞳を見ることができない。
「噂? まず、ビッチの意味を教えてよ」
「え?」
「だから、ビッチって何?」
浮舟さんは、言葉そのものの意味を理解していないようだった。ますます申し訳なくなる。ビッチを知らない人が、ビッチなわけない。
「ええと、性に正直で、男遊びとか、そういうのたくさんしてる人を、ビッチって言うんだけど」
「……」
浮舟さんは、下を向いて黙り込んだ。
「私がそんな人に見える?」
「ごめん」
謝ることしかできない。
「その噂、誰から聞いたの?」
「ええと……」
橋本さんから、「私が浮舟さんのことを話したことは、本人に言わないように」と釘を刺されている。
「浮舟さんの高校時代の同級生から聞いた。その人も同志社大学なんだって」
「そっか。総角くん、私のことを信じて。私は総角くんのことが好き。総角くんは?」
個人名まで聞かれるかと思ったが、浮舟さんは、それ以上深くは踏み込んでこなかった。
「僕も浮舟さんのことが好きだよ。疑ってごめん」
僕は浮舟さんの手をそっと握る。馬鹿なことをするのはやめにしよう。大切な彼女を手放したくない。
海からの帰り、正則先輩が借りたレンタカーと、副会長が借りたレンタカーで、二手に分かれて家まで送ってくれる。そのことは前から分かっていたので、計画的に、事前に僕と浮舟さんが付き合っていて、同棲しているということを正則先輩に伝えてある。
車中、正則先輩は定番の夏ソングから、軽快なロック、聞いたことないインストゥルメンタルまで、統一性のないセットリストを大音量でかけている。
「いやぁ、楽しかったな!」
成り行きでなぜか助手席に座っている僕に、正則先輩が話しかけてきた。
「そうですね。楽しかったです」
「ん? もっとテンション上げていこうぜ!」
純粋に心の底から楽しかったとは言えない自分がいる。
「歩美とイチャコラしてたじゃないか。人気のない浜辺でさ」
「あんまり大きい声で言わないでください」
「大丈夫だ。そのための大音量」
絶対適当に言ってるだろ。でも、車内はそれぞれが喋っており騒がしく、浮舟さんは三列目に座っているので、実際聞こえていないようだ。
「手も繋いじゃってさ」
「それは……」
二人の間では、険悪な雰囲気の中での起死回生の手繋ぎだったが、傍から見ればそんなことは知ったことではなく、ただのアツアツカップルに見えるのだろう。
「いやあ、きょうけんもサークル内カップルが増えて、活動もアクティブになってきて、変わったよ。一時期は、ことけんの劣化版サークルとか言われてたのにさ」
「ことけん? そんなサークルがあるんですか?」
「古都研究会。知らなかったのか?」
僕は、ビビビと電撃が走ったような気分になった。
「知りませんでした。京都研究会一筋なので」
「はは。それは嬉しいな。ことけんのが規模は大きいが、その分サークル間の関係性は希薄だろうな。小さなグループが束になってる感じだろう」
僕は、橋本さんの話を思い返して、ある可能性を見出す。
「正則先輩、ことけんに、浮舟歩美という名前の人っていますか?」
「ええ? 歩美はきょうけんじゃないか」
「そうじゃなくて。同姓同名の人がいるのかなって」
「いないだろそんなの。歩美はまだしも浮舟って」
確かに正則先輩の言うとおりだ。でも、可能性はゼロじゃない。
「もし、ことけんに知り合いがいたら、確かめてくれませんか?」
「分かった。なんだかよく知らないが、まあ理由は聞かないでおくよ」
こういうとき、正則先輩の後輩思いの優しさが発揮される。理由は聞かず、頼み事は聞いてくれる。先輩としてこの上なくかっこいい。
もし、同姓同名がいるのなら、これまでの疑いは全て勘違いと証明される。もう浮舟さんがビッチなんて思っていないが、なぜこのような齟齬が生まれたのかは、はっきりさせないと、心の中のモヤモヤが気持ち悪い。
帰った後、浮舟さんは疲れからか先に布団に入った。僕がイヤホンで映画を観ていると、正則先輩からラインが入った。
『ことけんの知り合いに聞いたぞ。なんと、ことけんにも浮舟歩美という女の子がいるらしい。奇跡ってあるんだな』
僕は思わず声が出そうになったが、必死で抑え、一つ深呼吸をした。
後日、僕は東屋と一緒に、良心館ラウンジで就活の面接シートを考えている正則先輩に会いに行った。
「すみません。色々大変なときに」
僕は、正則先輩に頭を下げる。
「いや、内定はもう貰ってるんだ」
「そうなんですか?」
「ああ、五社もらって、その中で俺を一番必要としてくれるところに決めた」
風の噂で聞いたことがある。体育会系の人は、上下関係をきっちり叩き込まれているし、粘り強く、簡単に妥協しない性格が多いので、就職活動に有利だと。鍛え上げられた肉体を持つ正則先輩は、さぞ面接に強いだろう。
「じゃあ、なぜまだ就活を?」
東屋が、素朴な疑問を投げかけた。
「新卒採用で、色んな企業を見て回れるのって、人生で一回だろ? 働く会社を決めたからって、やめるのはもったいないだろう」
僕と東屋は衝撃を受けた。この先輩は、僕たちが思っている何倍もちゃんとしている。過去一度でも、泣き上戸の脳筋だと思ってしまったことを、謝罪したい。
「それで、この前の話なんだが」
正則先輩が、ボールペンを持つ手を止め、会話体勢に入る。僕は、正則先輩からのラインで、ことけんに浮舟さんと同姓同名の女性がいると知り、その人と引き会わせて欲しいと頼んでいた。
「難しいみたいだ」
「え?」
僕は、会うこと自体はそれほど難しくないと考えていたので、予想と反する答えに驚いた。
「なんでですか?」
「ことけんの会長とは、別に仲良くはないが、同じ京都散策サークルの会長同士として繋がってはいる。そいつに、紹介してくれるよう頼んだんだが、どうやら、ことけんの浮舟歩美は、『ドッペルゲンガーを見ると死んじゃうから』と頑なに会うのを断っているらしい」
「そんな迷信を……」
「いや、迷信じゃないぞ。俺は見たことある」
東屋、今はそんな続きが気になる話をするな。
「同姓同名と、ドッペルゲンガーって、意味が全く違いますよ? ことけんの浮舟歩美は、それを理解してるんでしょうか」
僕は、すっとんきょうな理由で断ってきた浮舟歩美に、ぶつけようのない苛立ちがこみ上げてきている。
「それは分からん。でもそういう理由で会いたくないらしいんだ。強引に事を進められるほど、俺はことけんと関わりが強くない。申し訳ないけど、もし何か気になることがあるなら、別のルートでやってくれるか?」
正則先輩は、謝罪をしたが、僕は感謝していた。同姓同名がことけんにいるという事実が分かっただけで十分。なんでもかんでも、この件に関係のない先輩を頼るわけにもいかない。
「いえいえ、ありがとうございます。ちょっと色々探ってみます」
「おう」
「それで」
僕は視線を東屋に移す。
「お前が会ったドッペルゲンガーの話、詳しく聞かせてくれ。さっきからそのことで頭がいっぱいだ」
正則先輩は、僕に同調し、首を強く縦に振った。
秋学期が始まった。学生はそれぞれの夏休みを謳歌し、二ヶ月弱のボーナスタイムが終わったことを名残惜しそうにしながらも、大学でしか会わない友人に、久々に会えることを楽しみにしている。そんな楽しげな学生を横目に、事情をよく知らないまま呼び出された宿木さんは、不満げな顔をしていた。
「なんでわたしが?」
「人手は多い方がいいじゃん」
東屋が宿木さんをたしなめる。宿木さんには、「浮舟さんと同姓同名の人を探す」とだけ伝えてある。
「この三日間で、それぞれ友人に浮舟歩美っていう知り合いがいるかどうか確認したけど、三人とも空振り。それでいいよね?」
僕が確認を取る。
「おう」
「うん。歩美以外の、浮舟歩美がいるなんて、まだ信じられない。珍しすぎるでしょ」
「僕もそう思ってたよ。でも事実、いるらしいんだ」
「それで、わたしが歩美の高校時代の友達に会って、着物を来ている姿なんて見たことないって言われたって話、あれはその同姓同名の浮舟歩美のことなんじゃないかってことでしょ?」
「そう。宿木さんは、それを大学デビューと捉えて喜んでいたけど、今思えばあのときの浮舟さんの反応は、少し間があって変だった」
僕たちは、手分けして、キャンパス内の、話の聞いてくれそうな大学生に声を掛け、「古都研究会の知り合いはいますか」と尋ねて回った。同志社内だけでも、莫大な数の公式・非公式サークルがあり、他大学とのインカレを含めると、その数は五〇〇を超えるだろう。なのでもちろん「知らない」と答えられて終わりだが、四〇人に一人ほど、「知っている」という答えが返ってきた。これがまず一ステップ目、同姓同名を探すには、ここから初めて踏み込んだ質問をしなければならない。その本人がことけんなら、それはもう万々歳。そうでなくても、次に僕たちが尋ねるのは、「古都研究会の集合写真を持っていますか」という質問だ。一ステップ目に進んだ人は、合計で三人。そして次のステップで目ぼしい回答をした人は、〇人だった。
二時間ほど大学内を回り、くたくたになって、良心館のラウンジに再度集まる。
「これ、気が遠くなるぞ」
「それって本当の情報? 見つかる気がしないよ。この大きな大学で」
東屋と宿木さんは、大きなため息をついて、諦めムードを漂わせた。
「僕、もう少しだけ聞いてくるよ」
「えええ?」
僕だけがくじけないのは、浮舟さんが僕の彼女だからだ。僕の彼女の悪評が、同姓同名の浮舟歩美のせいで流れている。それを止めさせたかった。止めることができないとしても、根源を把握することで、自身のなかにある、この気持ちの悪い精神状態と、浮舟さんの不安定な心が少しでも救われればいいと考えていた。
「すみません」
スマホをいじりながら、一人キャンパス内を横断している女性に声を掛ける。
「なんですか?」
明らかに不審がる表情をしているが、もう気にしない。二時間聞き込みしていれば、慣れるものだ。
「古都研究会に入っている知り合い、いますか?」
「私、ことけん入ってますけど」
「そうですか。ありがとうございましたって、え!?」
再開していきなり当たりを引き当て、思わず動揺する。
「あの、集合写真ってあったりしますか?」
「ありますけど、なんでですか?」
ここからは慎重に。一歩道を踏み外せば、僕の不審な行動の情報は、瞬く間にことけん中に広がり、二度と同じようなことはできなくなる。
「あの、浮舟歩美さんのお顔が見たくてですね」
僕が選んだ選択肢は、偽らないことだった。
「ああ、浮舟さん、可愛いですもんね」
女性は、スマホの写真フォルダを開いた。
「この子ですよ」
女性が指さしたその先には、僕の彼女である、浮舟さんの姿があった。
「ん?」
僕の頭は、一瞬でぐちゃぐちゃになった。
「これが、古都研究会の浮舟歩美さんですか?」
「はい」
顔は全く同じだ。しかし、服装は小紋ではなく、体のラインが強調されているリブニットを着ている。春頃の集合写真であろうか。そして、写真から判断する限り、髪型は同じボブだが、髪色は茶色に見える。
「ええと、これは、今年の春の写真ですよね?」
「はい。五月くらいだと思います」
五月なら、確実に僕と浮舟さんは出会っている。三日以上見なかった日はない。同一人物だとしたら、その短期間で黒と茶を染色し直していることになる。そんなこと浮舟さんはしないだろう。
「あの、浮舟さんって、何学部でしたっけ?」
「ええと、私もそんなに仲良くないので、多分ですけど、心理学部ですね」
やっぱり、別人か?
「もしよろしければなんですけど、引き会わせていただくことって……?」
「それは難しいですね。さっきも言いましたが、私は彼女とそこまで仲良くないです。もちろんあなたとも」
そうだ。初めて会った初対面の人に、このお願いは無謀すぎる。気が動転して正常な判断ができていなかった。
「あの、よければ、その集合写真、僕に送ってくれませんかね? エアドロップで大丈夫です。あなたと連絡先を交換したいんじゃなくて、その写真が欲しいんです」
僕の単刀直入なお願いに、女性は不審がりながらも、自分の連絡先を渡さないという少しの安心材料のおかげか、渋々承諾してくれた。
僕はラウンジに戻り、二人に集合写真を見せる。
「これが、ことけんの浮舟歩美らしい」
二人は言葉が出ず、唖然としている。
「蜻蛉先輩が言ってたんだよね。ことけんの会長経由で、彼女は『ドッペルゲンガーを見たら死ぬから嫌だ』と断ったって」
宿木さんの顔が、段々と青くなっていった。
「おいおいおい、マジかよ」
東屋の声が裏返っている。
「ドッペルゲンガー……」
僕たちは、禁忌に足を突っ込みだしているのかもしれない。そんな大きな不安が、波のように襲ってきた。
次の日の晩、僕は、浮舟さんに昨日あったことを話すことにした。当日ではない理由は、どうやって話そうか頭の中でシミュレーションしていたからだ。でも、結局正解は分からずじまいだった。お風呂上がりで、ボーッとテレビを見ている浮舟さんの顔色を伺う。この狭いワンルームでの生活も、慣れてきたようだ。
「浮舟さん、この間、浮舟さんについての変な噂が回ってるって話したよね」
「……うん」
浮舟さんは、その話はあまりするなというふうに、テレビの音量を一つ上げた。
「僕なりに色々調べてたんだ」
「なんか最近、一人で出ていくこと増えたもんね。私を放って」
浮舟さんは、体を僕の方向へ向け、両腕を広げた。抱きついて欲しいというサインだ。僕はそっと浮舟さんを抱きしめる。
「ごめんね」
「いいよ」
僕はハグしたまま、話を続ける。
「浮舟さんと同姓同名の人がこの大学にいるんだ。それで、その人がビッチってことっぽい」
「うん」
「だから、浮舟さんへの疑惑は完全に勘違いってことなんだけど、ちょっと変なところがあって」
「……」
僕は、ことけんの集合写真を映したスマホを、彼女へ向ける。
「この左端の人、これが、浮舟さんと同姓同名の、浮舟歩美らしい。浮舟さんとそっくりなんだよ。おかしな話になってきてるんだ」
浮舟さんは、じっと自分のドッペルゲンガーを見つめる。唇が少し動き、何か言おうとしては、それをやめているように見える。
「浮舟さん、こういうのって、信じる?」
僕は、彼女の一挙一動を見逃さないようにしている。浮舟さんは、スマホの画面から視線を外し、斜め上を見て少し考えた。
「総角くん」
「何?」
「もう、この件に関わるのはやめない?」
浮舟さんは、僕の手を握った。
「こわい。私、総角くんが変なふうになっちゃうんじゃないかって」
「変って?」
「分かんないけど、ドッペルゲンガー的な超常現象なら、私は総角くんに関わって欲しくない。もういいから。噂は勝手に消えていくよ。少なくとも私の周りは、その噂の真実を周知できるんだから」
浮舟さんは、そう言って目に涙を溜めている。
「でも、放っておいても良くないかもしれない。ドッペルゲンガーが生まれた原因を追求するには、本人に話を聞くのが一番だと思う」
SF好きな性なのだろうか。浮舟さんが涙を流しながら止めても、僕は、ドッペルゲンガーへの興味と追求心が消えることはなかった。
「やめてって言ってるでしょっ!!」
そのとき、浮舟さんが怒声を上げた。出会ってから初めての声量と怒気に、僕は思わずたじろいだ。
「……そんなに心配してくれるんだね」
「当たり前でしょ。お願いだからこのドッペルゲンガーに関わらないで。総角くんは、ずっと私のそばにいて」
その夜、浮舟さんは、いつもより積極的に僕を求めてきた。浮舟さんからの愛情を強く受け取った日だった。
同志社大学の心理学部は、京田辺キャンパスにある。今出川キャンパスとは、大学が運営しているシャトルバスで往来でき、時間は一時間ほどと、近くない距離に立地している。ことけんの女性から、集合写真を送ってもらったとき、彼女が理工学部だという情報も得た。どうやら、ことけんは京田辺キャンパスを拠点に活動しているらしい。どうりでことけんの存在を知らなかったし、そのサークルメンバーにもなかなか会えないわけだ。
浮舟さんから、「ドッペルゲンガーを探すのはやめて欲しい」と言われた二週間後。冷めていた興味が、再び湧き始めてしまった。理由は二つある。一つは、この真相を知ることは、浮舟さんにとっても悪いことにはならないであろうということ。ドッペルゲンガーが現れた原因を知らなければ、また同じようなことが起こるかもしれない。二つ目は、ただただ、映画のようなこの状況に、僕のテンションが下がりきらないということ。渾身の精神力で下げても下げても、この興味は強靭なスプリングを兼ね備えており、少し気を緩めれば、ビョンと上がりきってしまう。
「で、またまたわたしを呼び出したと」
宿木さんが、少し遅れて、テンション低く僕たちの前へ現れるのは、また半日潰して面倒事に巻き込まれるという、憤りと倦怠からだろう。
「別に、適当な理由付けて断ればいいのに」
東屋が、いつもの調子で宿木さんに絡む。
「面倒だけど、歩美のことだから協力はしたい。この複雑な感情、頼道くんには分からないだろうね」
「いや、俺を深い考えもなく適当に生きている人間みたいに言うなよ」
「そこまでは言ってないし、自分で思ってるからそんな言葉が出てくるんだよ」
「ぐぬぬ」
その唐突な漫画リアクションはなんなんだよ。僕たち三人は、シャトルバスで京田辺キャンパスへ向かった。
京田辺キャンパスは東京ドーム二〇個分にも相当する、巨大な敷地面積を有するキャンパスだ。そのキャンパス内で、ことけん、ひいては、ことけんに属する浮舟歩美を探さなければならない。
「じゃ、手分けして声掛けしてこうか」
今回は、ゼロからのスタートではない。僕たちはことけんの集合写真を持っている。そこから似ている人を見つければいいので、前回よりはいくぶんか楽な作業だ。
と、思っていたのは最初の三〇分だった。浮舟歩美は心理学部という情報を持っているので、心理学部の学生が取りそうな講義が行われている校舎周辺を探すが、彼女は見当たらない。まず、いくら学部が分かっても、一部の必修を除き、取るコマは多種多様だ。予想して張り込んでも効果は薄い。かといって、何も考えずに探索するには、いくらなんでも広すぎる。その敷地面積が、僕たちの精神をすり減らした。
「ちょっと、もう無理かも」
一時間も経たないうちに、それぞれが自然と集合場所に戻った。
「ちょっとわたし、男ばっかで声かけづらいわ」
京田辺キャンパスは、理系の学部を中心に構成されている。男女比率は男の方が圧倒的に多い。
「俺も、男が多くて面白くない」
お前の不純な理由は声に出すな。
「確かに疲れる」
東屋に、声に出して突っ込む気力もないほど、僕も疲労困憊だった。
「今日はもう帰ろうか」
シャトルバスは、時間が上手く合わなかったので、三人でとぼとぼと最寄りの同志社前駅まで歩く。キャンパスへ向かう学生に逆流するように進むので、肩幅を狭くして邪魔にならないよう歩くのが、疲れを増幅させた。
そのとき、視界の隅に、確かに掴んだ。僕は衝撃の中、首をぐるりと回す。そこには確かに、僕らとすれ違った浮舟歩美の後ろ姿があった。茶髪のボブ、ちらっと見えた横顔は浮舟さんと全く同じ。
「おい! 見つけたぞ!」
僕は二人を引っ張り、流れに沿って浮舟歩美を追いかける。だが、ちょうど講義の始まりと被っていて人が多いことと、浮舟歩美本人が早足なことが合わさって、中々追いつけない。突然、浮舟歩美は脇道に逸れ、左に曲がった。これはチャンスだ。一気に追いつけるぞ! 僕たちが左に曲がると、そこには、茶髪の長い髪の女性がスマホをいじりながら突っ立っていた。おそらく学生だろう。
「あの! この人見ませんでしたか?」
僕は、高いテンションで女性に尋ねる。
「え……あっちに行きましたけど」
女性が気持ち悪がっているのを瞬時に理解し、すぐに話を切り上げ先を急ぐ。だが、探しても探しても浮舟歩美は見つからなかった。
「くそっ、確かにここを曲がったはずなのに」
あと一歩のところで逃してしまったが故、やるせなさが強く襲ってくる。
「てか、ちょっと待って」
宿木さんが、集合写真の中の一人を指さした。
「この人って……」
写真に映る女性は、先程曲がり角に立っていた、茶髪ロングの人だった。
「ことけんだったのか! やられたっ! グルだったんだ!」
ここまで話が進むと、もう既に『浮舟さんのために』というのは、表面上の飾りでしかなかった。浮舟さんがどうとかは、もういい。好きなのは確かだが、近頃は少し、今までとは違う感情も芽生えている。
『僕が』この真相を知りたい。その気持ちが、今の原動力になっている。
同志社EVEと、同志社クローバー祭は、共に各キャンパスで一一月に開催される、学園祭だ。
「今年はじゃがバターにするぞ!」
大学内の会議室を貸し切り、きょうけんメンバーを集めた正則先輩は、高らかに宣言した。
「いや、去年もだったからね」
副会長が小声で突っ込む。もうこの二人、付き合っちゃえばいいのに。きょうけんは例年じゃがバターを販売しており、なかなか好評らしい。ちょうど寒くなってきた一一月に、うってつけなのだろう。
ことけんの浮舟歩美を見かけてから、一ヶ月弱が経っていた。あれから特に目ぼしい手がかりは見つかっていない。浮舟さんとこの件について話すことはなくなり、お互い言いたいことはあっても、胸の内にしまう日々が続いていた。かといって、仲が悪いわけではない。他愛も無いことで大笑いする日々は、すごく充実している。
京田辺キャンパスで行われるクローバー祭。ここが勝負だ。ことけんの出店ゾーンを張り込んでいれば、必ず浮舟歩美は現れる。幸いクローバー祭とEVEは日程が被っていない。きょうけんの人に迷惑をかけることもない。進捗がなくても焦っていなかったのは、この日をずっと待っていたからだ。必ず真相を突き止めてやる。
一一月に入り、クローバー祭当日を迎えた。浮舟さんには、一日バイトを入れていると嘘をついた。クローバー祭に行くと言えば、一緒に行くことになるか、止められると予想がつくからだ。今日は一人のほうが動きやすい。浮舟さんは僕の嘘に気付いているかもしれないが、笑顔で見送ってくれた。
「いってらっしゃい。バイト、頑張ってね」
「うん。ありがとう」
なぜだがあまり心が痛くならない。嘘なんて、誰でも息をするようにつくものだ。
京田辺キャンパスにつくと、以前来たときとは比べ物にならないほどきらびやかな世界が広がっていた。装飾された大きなアーチをくぐると、雑多な声と音楽が鳴り響き、出店がずらあと並んでいる。これぞ学園祭といった雰囲気だ。クローバー祭は、学生、教職員、住民、企業が協調し合い、様々な催し物が開催される。地元の幼稚園の園児たちが行う可愛らしい出し物や、企業が出資したタイアップ企画、そしてよさこいやお笑いなど、各サークル渾身のステージは、微笑ましく見られるものから、プロ顔負けの拍手喝采ものまで、時間のある大学生の本気と気合を、まじまじと見せつけられる。
パンフレットを貰い、ことけんの位置を確認する。……タピオカジュースって。一周回って新しいのか? 学際の出店で重要なのは、いかに原価を抑えるかということ。きょうけんのじゃがバターで言えば、じゃがいもは業務スーパーでダンボール買いしているし、バター部分は、大容量でパッケージにはよく分からない言語が書かれたマーガリンを代用している。つまり、じゃがマーガリンだ。それを二個で二〇〇円で売っているので、それはもうボロ儲けだ。けれど、需要と供給があっていれば、確かに売れる。学際の雰囲気に当てられて買ってくれる。タピオカも、実は原価は相当低い。きょうけんでも頭出し段階で候補には上がっていたようだが、『さすがに古い』ということで、しれっとホワイトボードからは消えている。僕はなぜだが、ことけんに勝った気持ちになった。
ことけんの出店場所から、ギリギリ相手の顔が判別できる距離に陣取り、じっと監視する。二〇分もしないうちに、浮舟歩美は姿を現した。周りの人と楽しそうに話している。笑った顔を見ると、余計に浮舟さんと瓜二つだ。ただ、服装はやはり、寒いのにショートパンツで、上は萌え袖。あざとい。浮舟さんとは全く違う。
そっと近付き、後ろから声を掛ける。
「あの、すみません」
浮舟歩美は振り返り、僕の顔を見る。会ったことはないはずだが、一瞬にして警戒心を強めたのを感じる。
「浮舟歩美さんですよね?」
浮舟歩美が返答しようとすると、隣から、京田辺キャンパスの曲がり角で出会った、茶髪ロングの女性が割って入ってきた。
「歩美、行こう。この人、歩美をつけてた人だよ」
「かの子、分かってる。でももう面倒くさいや。いいよ。話そう」
「ええ、でもこいつ、かの子のドッペルゲンガーと引き会わせようとしてるんでしょ?」
「会うかは会わないかは歩美が決める。かの子もついてきて」
この人、一人称名前なんだ。いや、そんなことはどうでもいい。浮舟歩美は、観念して僕と話すことを決めてくれたようだ。
「名前、なんて言うの?」
「総角光喜です」
「総角くん、空き教室はいくらでもあるから、そこで話しましょう」
浮舟歩美は、先陣を切って校舎へ入っていった。
教室へ入り座るといきなり、浮舟歩美は口火を切った。
「私はオカルトが好きでね」
とても開口一番の言葉とは思えない。それにしても、目を合わせると照れてしまう。浮舟さんと全く同じ見た目に、あざといファッション。浮舟さんより前に出会っていたら、一瞬で好きになっていただろう。
「最初に、そちらの浮舟歩美を認識したときは、本当に怖かった。出会ったら絶対に死ぬと、そう思ってた」
「いわゆるドッペルゲンガーってやつですね」
僕は、かの子さんを見ながら相槌を打つ。
「なんでうちを見るのよ」
「いや、なんかちょうどよくて」
「は?」
浮舟歩美は、そんな不毛なやり取りは気にせず、話し続ける。
「でも、彩美なりに色々調べていったら、分かったの。彼女はそんなオカルト的な存在じゃない。彼女は、全くの別人。椎本みかだよ」
唐突な発言に、僕は思わず聞き返す。
「何? どういうこと?」
「彩美の高校の同級生、椎本みか。髪はボサボサで、重そうなメガネをかけてて、顔はのぺっとしていて正直ブサイク。学力は箸にも棒にもかからない並で、運動もできず友達もいない。いつも一人でいる冴えない人だった」
感情を乗せて早口で話す浮舟歩美に、僕はまだついていけていない。
「彼女、歩美のストーカーだったのよ。いつも視線を感じていたし、ファンレターと称した気持ちの悪い手紙も何通も貰った。そこには、『いつかあなたのような可愛い女の子になりたい』と、そう書いてあった」
僕と同じく、かの子さんも絶句している。
「まさか本当に歩美になるなんて。信じられない。同じ大学に入ったのは、彼女にとっては誤算だっただろうね。歩美は志望校をギリギリで決めたし、追加合格だから。驚いてるし焦ってるんじゃないかな」
「つまり、椎本みかという人物が、あなたになりたくて整形をして、今の見た目を手に入れたと? そしてそれだけでは事足りず、名前も同じにして『浮舟歩美』として振る舞っていると?」
「そういうこと」
一分ほど黙り込み、考える。そう言われれば、合点がいく部分もある。浮舟さんは、自分の身分証はおろか、学生証も見せたことがない。テストもだ。本人の名前が記入されているものは、全てセキュリティボックスにしまってある。
「まじか……」
「分かったなら、もう帰ってくれる? ここからは総角くんと椎本さんの問題でしょう」
「歩美、オカルトじゃないからって、もうこわくはないの?」
かの子さんが、流暢に喋る浮舟歩美に尋ねた。
「こわくない」
浮舟歩美は、透き通るような白い足を見せびらかすように、足を組む。
「歩美に憧れる理由も分かるし、そういう人は、何人も知っている。椎本さんはちょっと行き過ぎたイタイ奴だけど、まあ、許すよ。歩美は、『自分が可愛い』という自負があるから。オカルトじゃないならこわくない」
浮舟歩美の鼻につく言葉を、僕は心の整理にリソースを割いているため、右から左へ受け流すことしかできなかった。僕の彼女の浮舟さんは、作られた美貌で、しかも名前も違う。今まで僕が浮舟歩美として接してきた彼女は、椎本みかという女性だった。僕はこれからも彼女を愛せるだろうか。いや、もう、いいや。愛せても愛せなくても、もう、関係ないや。
その日の晩、僕は浮舟さんに伝えていた帰宅時刻よりも、早めに帰った。
「あれ? 早いね」
浮舟さんは、ご飯の支度をしている最中だった。
「うん」
素っ気ない僕の返事に、浮舟さんは何かに勘付いたような表情をした。コンロの火を止め、僕の対面に座る。
「どこ行ってたの?」
「クローバー祭」
「バイトって、言ってたじゃん」
僕は、もう嘘をつくのをやめていた。
「うん。ごめん」
浮舟さんは、僕が貸して着ている部屋着の袖を、ギュッと握った。
「ドッペルゲンガーに会いに行ったの? 関わらないでって言ったよね?」
「うん。ごめん」
「私は総角くんが心配で言ってるのに、なんで言う事聞いてくれないの!?」
浮舟さんは、声を荒らげる。
「違うよね?」
「え?」
「僕が心配でとか、そういうことじゃないよね?」
僕は、涙目になっている浮舟さんを、まっすぐに見つめる。
「僕は嘘をつかない。だから、浮舟さんも嘘をつかないで欲しい。いや、椎本さん」
その言葉を聞いた途端、浮舟さんは顔を手のひらで隠し、うずくまった。
「椎本さん、そんなに『浮舟歩美』になりたかったの?」
椎本さんは、肩を震わせているものの、それ以外の反応はない。
「親と喧嘩して同棲が始まったけど、喧嘩の理由は、整形? いや違うか」
僕は、優しく語りかける。
「だとしたら、もっと早くに喧嘩してるはずだもんね。本名ではなく、浮舟歩美の名で大学生活を送っていることがバレたから、家を追い出されたんだよね?」
椎本さんは、小さく、本当に小さく頷いた。
「身分証明書やテストは、さすがに本名で提出しているから、ずっと隠していたと、そういうことだよね? なんかスッキリしたよ」
僕は立ち上がり、一人暮らし用のコンパクト冷蔵庫から水を二本取り出し、再び浮舟さんの前に座る。
「でもなんで、そこまで浮舟歩美に憧れてた理由はなんなの? そこが気になる」
椎本さんはむくりと起き上がり、自分の顔をそっと撫でた。
「私の本当の顔、知らないでしょ?」
「知らない」
「いつも周りから蔑んだ目で見られた。『人の顔じゃない』って」
僕はそれをフォローするでもなく、黙って聞いている。以前の顔を知らなければ、「そんなことない」という言葉が、彼女の感情を逆撫でしかねないからだ。
「歩美ちゃんはいつも眩しかった。私の憧れだった。なんであんなに可愛いんだろうって。目はまん丸で、他の人より少し黒目が大きい。まつ毛が長くて色気がある。鼻筋が通っていて、透明な肌。毛穴が見えないほどきめ細かかった。ボブが愛らしさを増幅させていて、身体のラインも綺麗。男子から連日のようにデートに誘われていた。あんなに楽で楽しい人生、私も送りたいなって」
椎本さんの、浮舟歩美への愛が止まらない。
「声も猫撫で声で聞いているだけで癒やされた。歩美ちゃんの周りには自然と人が集まっていて、本当は私だって喋りたかったのに。夜の電灯に群がる虫のように、周りを囲んで私が近付く隙なんてなかった。歩美ちゃんが一人なら、私だって勇気を出して話しかけられたかもしれないのに。でも、あるとき思い付いたの。そんなに歩美ちゃんに憧れているなら、私が歩美ちゃんになればいいんだって」
「いくらくらいかかったの?」
僕は決して整形を否定したいわけではない。椎本さんから真実を話してくれれば、それでいい。付き合って半年。もう顔がどうとかより、大事なことに僕は気付いている。
「高級車二台分くらいかな。思ったより安かった。幸い私は、それ以外の全てがなくても、お金だけは持ってたから。これで私が歩美ちゃんになれるんだって。大学からは、苦しくてつまらない人生じゃなく、楽で楽しい人生を送れるって。嬉しかった」
「実際、理想通りの生活は送れてる?」
「うん。だから総角くんが、歩美ちゃんの存在に気付いたとき、全てが崩れてしまうんじゃないかって、すごく不安だった」
「そっか、色々嗅ぎ回るようなことして、ごめんね」
椎本さんは、ここで初めて僕の目を見た。彼女の目は、真っ赤に腫れ上がっている。
「もう私のこと嫌になったでしょ? いいよ。別れて」
自暴自棄になっている椎本さんを、僕はそっと抱きしめた。
「ううん。僕は、椎本さんの内面も含めて好きなんだ。ちょっと性格に難があることなんて、付き合って早い段階で気付いていた。でも、それでも、そんな椎本さんを守りたいという気持ちがどんどん強くなっていった。見た目なんて、人生何十年も生きていれば変わっていく。そうでしょう? でも性格は簡単に変わらない。ずっと一緒にいるなら、やっぱり気が合う人がいい。僕は、浮舟歩美でなく、椎本みかが好きなんだと、今話して分かったよ。それに……」
「それに?」
「いや、なんでもない」
僕は決めにかかる。弱ってるときに畳み掛けるのが一番だ。
「結婚しよう。椎本さんの嘘を、僕は一緒に背負っていくよ。大好きだから」
椎本さんは、静かに僕の胸の中に入り、僕の服を涙で濡らしながら頷いた。
「総角くんと出会えて良かった。私も大好きだよ」
その瞬間、僕の勝ち人生が決まった。良かった。別れるなんて言われるから、びっくりした。こんなに大金をこさえた人、なかなか出会えない。これで僕も逆玉の輿だ。小さな頃から、一所懸命に働くとか、そんなことできる限りしたくないと思っていた。そこに現れた超金持ちの、恋愛経験が浅そうな和風のお嬢様。なんとしてでも手に入れたかった。顔が可愛いのは、嬉しい特典だったな。だからその特典が作り物だったとしても、特典は特典。問題ない。僕が本当に欲しいのは、彼女でも結婚相手でもなく、楽で楽しい人生だ。その点で言えば、僕も椎本さんと同じ考えだな。良かった。やっぱり気が合うじゃないか。親と喧嘩してるみたいだけど、そこは僕が上手く取り持つし、喧嘩してると言いながらも、両親はちゃっかり椎本さんにお金を渡していることを僕は知っている。可愛い娘だから、そりゃそうだ。大丈夫。お金は湯水のように引き出せる。僕は本当に椎本さんに出会えて良かった。嬉しい。嬉しいよ。感謝してもしきれない。これから何しようか。一応、大学は最後まで行こうかな。友達もある程度できたし。そこからは、家でゲームして、美味しいもの食べて、外に出たくなったら世界一周でもしようか。
ああ、もうだめだ。笑いが止まらない。
「総角くん、ありがとう、ありがとう。私のために泣いてまでしてくれて」
必死で笑いを堪えながら、肩を震わせる僕に、椎本さんが『泣いているから肩を揺らしている』と勘違いをして言った。
「うん。なんか、二人の未来を想像すると、泣けてきちゃって」
僕は決して自身の顔を見られないように、彼女をギュッと、強く抱きしめた。