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「君、結構飲める口じゃないか。さ、飲んでくれ」
「ありがとうございます。頂きます」
彼女と川へ遠出して一ヶ月後、俺はお礼がしたいとザガン様に呼ばれ彼女の屋敷に訪れていた。
みんなで食事を摂り、今はザガン様の部屋で共に晩酌させて頂いている。
「ユイゲル殿。改めてお礼を言わせてくれ。
娘はあの日からすっかり憑き物が落ちた様でね。頻繁に外出する様になったし、何より表情が違う。
晴れ晴れとして、見ているこっちも嬉しくなるほどだ」
「それは良かったです。ですが全てはリリー様の強いご意志の賜物です。
予想以上の上達ぶりで、本当に驚きました」
ザガン様が微笑みながらくっと、杯を上げる。
すぐにお注ぎしなければと、酒瓶に目を移した時だった。
「それで、一つ確認したいんだが…君は、うちの娘に好意を持ってくれている、という事でいいかね?」
酒瓶を取ろうとした手を止める。
そしてその手を膝に戻し、真っ直ぐザガン様を見つめた。
「…この様な立場の私が、大変愚かだと自覚しております。
ですが…はい。リリー様を愛しております」
そう言った瞬間、ザガン様が大きく笑った。
「はは…君は本当に真っ直ぐな男だ!
相手の父親に面と向かって娘を愛している、なんて言うとは」
「し、失礼しました…ご不快な思いを与えてしまったでしょうか…!」
「そうかそうか…」
焦る俺に対し、ザガン様はそう呟きながら酒瓶に手を伸ばす。俺は慌てて立ち上がり、ザガン様の杯に酒を注いだ。
「…ありがとう」
杯を傾け、こくりと喉を鳴らす。
そしてゆっくりと口を開いた。
「…あの子の婚姻が決まった時、私は嬉しかった。
君も知っていると思うが、王族の誰か一人は、この国の女性と婚姻を結ぶ決まりがある。
白羽の矢が立ったケビン様と丁度歳が近い上に、相手に選ばれる家なんて限られているからね。私は躍起になってあの子を推した。
王族の一員となれる事が、あの子の幸せへの道になると信じて疑わなかったんだ。
そして、無事その席を勝ち取った。これでこの子の未来は安泰だと思ったよ」
まるで懺悔の様な話が始まった。
俺は再び座り直し、背中を伸ばす。
「あの子も何も分かっていないのに、頑張って取り組んでくれたよ。毎日の様に城へ通い、レッスン、教養。
文句一つ言わず、立派な王子妃となる日を目指して、ひたすら努力していた。まさか、それが全て無に帰す事になるとは…ね」
ザガン様が、真っ直ぐ俺を捉えた。
「ユイゲル殿、私はね。
家柄とか、そんなのはもうどうでもいいんだ。
あの子が…リリーが心から添い遂げたいと思った人となら、私は手放しで祝福したいと思ってる。
…まあ、あからさまに穀潰しの男は勘弁だが」
まさか、という期待で胸が膨らむ。
ザガン様は、俺にチャンスを与えようとしてくれているのではないか。
「とにかく、君とどうなりたいかを決めるのは、あの子だ。私じゃない。
ま、せいぜい頑張るんだな」
最後は少し投げやり気に言うザガン様に、思わず笑みが溢れる。
「はい。嬉しいお言葉、本当にありがとうございます」
「何だ、偉く自信ありげだな」
「なっ!」
ザガン様の思わぬ突っ込みに吹き出してしまった。
「そ、そんなつもりは…!
チャンスを与えて下さっただけでも、私にとってはこの上ない幸せで」
「君はあれだけ娘に尽くしてくれたのに、この先どうなりたいとかの欲はなかったのか。
全く、おかしな男だ」
そう言いながら肩を叩かれ、たじたじになっているとノック音が響いた。
「お父様、ちょっといいかしら」
「ああ、入りなさい」
ひょっこりと顔を出したのは、話題の人物だった。
「随分と楽しそうね。
廊下まで笑い声が聞こえてきたわ」
「全く面白い男だよ、ユイゲル殿は」
「…恐縮です」
なんだか照れ臭くて何故か礼をしていると、彼女が間に入り込む様に口を開いた。
「じゃあもういいかしら。
私、ユイゲルに見せたいものがあるの」
「え?」
突然の誘いに、我ながら素っ頓狂な返事をしてしまう。
「ああ、最近頑張ってたあれか」
「ちょっと、お父様」
そう言って人差し指を口につけ、ザガン様を窘める彼女。
どうやら何も分かっていないのは、俺だけの様だ。
「初夏と言っても夜は寒い。どうか風邪をひいてくれるなよ」
「分かった、何か風避けになるものを持って行くわ。
さ、行きましょう」
そしてさっさと行ってしまう彼女。
俺は慌てて立ち上がり、ザガン様に礼をすると
「ユイゲル殿、また晩酌に付き合ってくれよ」
「…はい」
嬉しい激励を胸に、彼女の後を追った。
「ユイゲル!こっち」
部屋を出ると、彼女が嬉しそうに俺を手招いた。
その手には、外套らしきものが握られている。
「何ですか?見せたいものとは」
「あのね、最近種を植えてみたの。
丁度真夏の頃に咲くお花。向日葵っていうんだけど、それがついに芽を出したからあなたに見てもらいたくって」
そう言って案内されたのは、彼女の部屋のベランダ。
確かにザガン様の言う様に外に出ると少し肌寒く、二人で外套を羽織った。
「ほら、見て!」
そして嬉しそうに指をさす彼女の指先を見てみると、長方形の鉢に、何個か双葉の芽が出ていた。
「すごいですね、こんなにたくさん」
「中には芽を出してくれないものもあるから、とりあえずいっぱい撒いたの。これから何個か間引きするつもり。
初めてだし、正直上手くいくか分からなかったけど、こんなに顔を出してくれて嬉しいわ。
一番にあなたに見せたかったの!」
本当に嬉しそうにそう話してくれる彼女に、愛しさが込み上げる。
「良かったですね、リリー様」
「うん!」
最初は、少しでも近付ければ良いぐらいに思っていた。
でも彼女を知れば知るほどその魅力の虜になって、今では将来を共にしたいなどと、大それた夢まで持ってしまっている。
一緒に川へ出かけたあの日。
俺は彼女の本当の気持ちを知った。彼女は、ちゃんとケビン様を愛していた。
その想いと決別する瞬間に立ち会えた事は、嬉しい様な悲しい様な、正直複雑だ。二人の婚約は、あくまで政略的なものだと信じたかったから。
一介の騎士が、これ以上何を望むというのか。彼女に惹かれるほど、どんどん我が儘になっていくのが分かる。
今だってコロコロと笑う彼女に触れたくてたまらない。
「向日葵はね、太陽に向かって花を咲かせるんですって。ロマンチックじゃない?」
「はい」
「あなたとの遠出のおかげで、いろいろ前向きになれた。
それにぴったりなお花があったから、ぜひ育てたくて」
「はい」
「他にも挑戦してみようかしら。
夏に咲く花はまだまだたくさんあるし」
「はい」
「図書館に行って、花の図鑑を……」
ゆっくりとこちらを向く彼女。
「どうしました?」
「いえ…その、手が」
そう言って頬を赤らむ彼女に言われ手元を見てみると、俺の手がしっかりと彼女の手を握っていた。
「す、すみません!」
慌てて手を離す。
「少々飲み過ぎました!自覚なしにあなた様の手を握るなど!ああ、どうかご無礼をお許しください!」
「ううん、いいの」
焦る俺に対し、随分と可愛らしい返事が聞こえた。
思わず動きが止まる。
「嬉しいの。あなたの事、好きだから」
「…え?」
俺は今、人生で一番間抜けな顔をしているだろう。
彼女は何と言った?俺の事を?
「リ、リリー様…どうかお戯れは」
「遊びじゃないわ。好きなのよ、あなたの事が」
二回も言わせないで、とそっぽを向く彼女の頬が赤い。
その瞬間、ぞわぞわと喜びが湧き上がった。
「すみません…まさかあなた様にそう言って頂けるとは思わず」
「もう謝るのはよして。
本当は…もっと後に言おうと思ってたのに。
つい最近あの人の事を決別したというのに、もうあなたを好きになるなんて随分と調子の良い女だと思うでしょ?」
少々膨れ面で言う彼女が可愛くて、思わず笑みが溢れる。
「そんな事思う訳ないでしょう」
「…みたいね。その表情見てたら分かるわ。
それで、あなたは?言わなくても分かるだろなんて言わないでよね」
「勿論です」
そう言って俺は彼女の手を引き、優しく抱き寄せる。
「あなたをお慕いしております。心から」
おずおずと応えるように俺を抱きしめ返す手が愛おしい。一層深く抱きしめる。
「…愛する人と触れ合うのって、こんなにも気持ちの良いものなのね」
本当にそうだ。じんわりと、ふわふわと、言葉にならない何かが全身を巡る。
俺はそっと体を離すと、じっと彼女の事を見つめた。
「…もう、するの?」
「駄目ですか?」
「駄目って言ったら?」
「…残念ながら、無理ですね」
そうして俺は、彼女の唇に口付けた。
甘くて、柔らかくて、何度も夢見た感触だった。
それから俺達は婚約を結んだ。
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「まさかお前の相手がリリー嬢とはな!!!」
そう言って豪快に笑うウェイブ様に思わず肩をすくませる。
仮にも主の弟の元婚約者なのだ。むしろ軽蔑されるかと思ったが、そんな心配は無駄だったようだ。
「ん?なんだその表情は。
俺が何か言うとでも?」
「め、めっそうもございません!」
「リリー嬢はもう王家とは無関係だ。
それにリリー嬢とザガン殿が納得したのであれば、何も言う事はないだろう」
俺の不安を拭う様な力強いお言葉。
俺は本当に、良い主に仕えさせて頂いている。
「ありがとうございます」
「ただ一つ提案があるんだが。
多分、お前達にとっても良い話だと思うぞ」
「勿体なきお言葉です。何でしょうか」
「お前達の結婚の証人をケビンがしたいと言っているんだが、どうかな」
「…ケビン様が」
驚きの人物からの提案に目を開く。
「お前は騎士といえど城の人間だからな。
またどんな噂が流れるか分からない。だがケビンが証人となれば、お前達の結婚をとやかく言うものはいないだろう」
「身に余る光栄です。
これ以上の話はありません」
「そうだろう。ただ念のため、リリー嬢に確認してくれるかな。
彼女にとって複雑な事には間違いないだろうから」
「かしこまりました」
ケビン様公認なんてこんな後ろ盾はないが、確かに彼女の気持ちを確認する必要はある。
優しい気遣いをして下さる主に感謝だ。
「あいつなりの贖罪のつもりなのだろうな。
もしリリー嬢から了承を得られたら、お前だけでも顔出してやってくれ」
「勿論です」
「なるべく早めに頼む。まだ極秘なんだが、あいつはもう少しでこの国を去る」
「…え?」
極秘のはずの話があっさりと告げられ、また目を開いて固まってしまった。
「サルエラ姫の体調が芳しくなくてな。
人前に出られない状態になってしまったんだ。
そこでやっとあいつが決意したのさ。ミルドレイシアに婿入りすると」
婿入り…想定もしていなかった展開に驚きを隠せない。
「戦争回避の為に、俺もすぐ下の弟も他国の姫を娶ったからな。
必ず国の令嬢と婚姻を結ぶという決まりを、あいつに押し付ける形になってしまった。
ずっと諦めた様な目をしていたのは気付いてた。言いなりになり続ける事にうんざりしていたのだと思う。だからサルエラ姫に余計に入れ込んだんだろう」
でも王族ってそんなもんだけどなと、ウェイブ様が笑う。
ケビン様は運命に逆らいたかったのだ。彼女の無垢な気持ちに気付けない程に。
「そこまでして勝ち取った愛だというのにあいつが中々動かないから、やっぱりただの気の迷いだったかと呆れていたが、決断してくれて良かったよ。
ここにいてもただのお飾りだったからな。あっちに行っても兄のオーディン王子がいるから二番手となってしまうが、ここにいるよりは大事な役目がたくさんあるだろう。
まずミルドレイシアの人達に受け入れてもらえるかどうかだが、後はあいつ次第だ」
すまない、長くなったなとその話を締める。
そのまま仕事の話になり、なるべく切り替える様に頭を働かせたが中々集中出来なかった。
俺は何故か、早く彼女に会って抱き締めたかった。