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「…ユイゲル、どうしましょう」
待ちに待った日がやって来た。
新しい乗馬服を身に纏い、いざ彼のお家が所有している馬小屋に来たはいいものの予想外の事が起きてしまった。
「リリー様、どうされました?」
「どうしよう…私……怖い」
「え」
こうしてしっかり対峙したのは、恐らく初めてだ。
実際に目の当たりにした馬は想像していた以上に迫力があり、時折鼻を鳴らす仕草が威嚇されている様で思わず後ずさる。
「…リリー様、まさか」
「ええ、そのまさかよ…別に苦手でも得意でもなかったのだけれど、ああどうしましょう…私苦手かもしれません…」
そう言った瞬間、また馬が大きく鼻を鳴らして頭を振った。
私は思わず前にいる彼の腕を掴む。
すると彼の肩が小さく震えている事に気付いた。
「あなた…もしや笑っているの?」
「も、申し訳ございません…この間から大変威勢良くいらっしゃったので、今の蒼い顔をしてらっしゃるあなたが、その………」
そう言いながら目の端を人差し指で撫でる。
「…可笑しくて、と?
泣く程笑うなんて、失礼な人ね」
少しムッとした私に、彼は慌てて頭を下げる。
でもその顔は笑っている。
「ええ、大変失礼しました」
そう言いながら彼はすっとどこかに行ってしまうと、バケツを手に持って帰ってきた。
「リリー様、ではまずは馬と仲良くなる事から始めましょう」
「え、そんな…。
あなた、折角休みを取ってくれたのに」
彼は何と、私に教える為だけに三日も休みを取ってくれた。
『この四年間一度も非番以外のお休みを頂戴した事がなくて、ウェイブ様からもお前は少し休めと言われていたのです。
ですから快く、こうして休みを頂けましたから、お気になさらず』
そう言って彼は微笑んでいたけど、私は少しプレッシャーを感じていた。
仕事も、彼の命まで糧にして私の我が儘に付き合ってくれているのだ。
絶対にこの三日間で上達しなければと意気込んでいたのに、私のせいでまず馬との触れ合いから始める事になってしまって大変申し訳ない。
「下手に恐怖を残したままだと、却って危険なのです。
だから素直に怖いと言って下さって良かったです。
動物は一見何を考えているのか分からない様に見えますが、人の気持ちに敏感な生き物なのです。
愛を持って接すればその様に返してくれますが、畏怖感を感じていると動物も不安に感じ、暴走してしまう要因となります。個体差もありますが」
私はその話を聞いて頭がぐらりとした。
早速前途多難だわ、と絶望する。
「リリー様。大丈夫ですよ。
私も最初は怖かったですから」
そんな私の気持ちが伝わったのか、彼がそう言って私の背中をそっと撫でる。
そしてそのまま馬の近くまで誘導された。
私は自分の両手を胸の前で握り、体を固まらせる。
「リリー様、体の力を抜いて。
大丈夫です。こちらが何もしなければ、彼らだって何もしませんから」
囁く様にそう言われ、私はふっと力が抜けていく感覚がした。
「そう、大丈夫ですよ。
特にこの馬はうちの馬小屋の中でも一番年老いていて、優しい性格をしています。
そしてあなたに乗ってもらう、雌馬です」
ベースは白だが、所々黒が混じって灰色に見えるその馬は私の顔をじっと見つめた。
彼が手を伸ばして頬の辺りを優しく撫でると、気持ち良さそうに目を細める。
「この子、名前は何というの?」
「イーグルアイです。
灰色の、不思議な力を持つという石の名前からとりました」
「あなたが名付けたの?」
「いいえ、祖父が名付けました。
父が生まれた頃にこの馬はやって来て、父も、私も、随分と世話になっています」
イーグルアイ。美しい毛色で、確かに何か不思議な雰囲気を感じる。
「私、この子と仲良くなりたいわ」
「ええ、その気持ちが一番大事です。
まずはこれを与えてみましょう。おやつの人参です」
こうして私の乗馬レッスンは始まった。
まず彼がイーグルアイに細く切った人参を与える。
それから私も見様見真似で恐る恐る差し出すと、思った以上に勢い良くかぶり付かれて、思わず半泣きになってしまった。
それでも先程の彼の言葉を思い出して精一杯平常心を心掛けたおかげか、何とか落とさずに彼女に与える事が出来た。
「上出来です、リリー様。
耳が横を向いているのが分かりますか?
彼女がリラックスしている証拠です」
恐る恐る見てみると、確かに耳が横に向いていた。
心なしか目も優しい感じだ。
「…怖いけど…可愛い」
そう呟くと、彼が薄く笑った気がした。
「彼女にブラッシングをしてみますか」
「ええ、やってみる」
正直まだ怖かったけれど少しでも前に進みたい。
それに、彼が隣にいてくれれば何だか大丈夫な気がした。
結局この日はイーグルアイの簡単なお世話だけで終わった。
流石人を乗せて運んでいるだけあって硬くて筋肉質で、でも肌は温かい。
何だか生を感じられて、今まで馬車を引いてくれる生き物にしか思っていなかった自分を恥じた。
彼は私がブラッシングしている時、万が一噛まれない様顔側に立って終始彼女を落ち着かせてくれていた。
私の様子を見ようとして目が合う度彼は微笑む。
おかげで私もリラックス出来て、より彼女の事を知れた気がした。
二日目も、主に簡単なお世話。
昨日よりも大分慣れた気がして今日は彼女に少し話しかけてみた。するとこちらをじっと見てくれて何だか嬉しい気持ちになる。
そして彼が馬の乗り方を実践を踏まえて教えてくれた。
口で説明しながらさっと馬に乗り込み、最初はゆっくり歩いて、最終的に柵で仕切られた広い空間を思いっきり駆けてくれた。
私はその迫力とかっこ良さに釘付けになる。
「すごいわ!先生!流石です!」
「先生って…」
そう言いながら照れ臭そうに彼が馬から降りると丁度ヒックスが迎えに来てくれて、今日のレッスンは終了した。
いよいよ明日で彼のお休みは終わる。
そしてついに三日目。
私の希望で馬に乗る事になった。
彼は別に焦らないでいいですよと言ってくれたけど、昨日の光景が忘れられなくて、挑戦したい気持ちの方が勝った。
最初はまず餌やりとブラッシング。
いつの間にか顔の辺りを撫でる事が出来る様になり、私は彼女に、“今日はよろしくね、私も頑張るわ”と声かけた。私の言った事が分かっているのか、彼女が鼻を鳴らしたので思わず笑みが溢れた。
いよいよその時がやって来た。
彼がイーグルアイを連れて来てくれて、私は頭を守る物を着用し緊張の面持ちで待つ。
「リリー様、リラックスですよ。
大丈夫、イーグルアイとの絆を深められましたからきっと乗れますよ」
「…ええ」
どうして彼がそう言うと自信がつくのだろう。
この三日で、すっかり彼は私の尊敬する一人になっていた。
「以前も説明しましたが、これが馬に乗るために必要な鞍という器具です。
まずここの鐙という足を引っ掛ける所に左足をかけて…」
彼の説明をしっかり聞く。
最初に彼が手本を見せてくれ、イメージを頭に叩き込む。
そしていよいよ私の番。
最初という事もあり踏み台を使う事になった。
ドキドキしながらそれに登り、彼に言われた通り左足を鐙にかけ、彼女の立て髪と鞍の前部分を掴む。
彼は念のためイーグルアイの手綱を持って私を見守っていた。
大丈夫、出来る。この子を信じる。
そして思い切り右足を蹴って、自分の体を持ち上げた。
「……わ、すごい」
彼女に跨いだ瞬間、一気に高くなる視線。
何とか気持ちを落ち着かせて右足も鐙にしっかり掛ける。
「リリー様、お上手です!」
「私、出来ている?変ではない?」
「ええ、大丈夫ですよ。イーグルアイも落ち着いています」
表情は分からないが確かに彼女の耳の動きは落ち着いている。
その瞬間、一気に喜びが溢れた。
良かった。私無事に乗る事が出来たんだわ。
「どうですか?初めて馬に乗った感想は」
「…そうね、高いわ」
私の感想を聞いて彼は目を丸くすると顔を隠す様に俯いて、肩を震わせ始めた。
「もう…笑わないで…!こっちは余裕ないのよ!」
「も、申し訳ございません…あなたは兎角馬の事となると、言葉が乏しくなられるので」
「だ、だって、それしか浮かばないんだもの…」
今までこんなに心に余裕がない事はなかった。
彼がサルエラを好きと気付いた時も、婚約を解消する時も、二人に呼び出された時も、どこか俯瞰的に捉えていた気がする。
こんなにも自分の感情が揺さぶられるなんて自分でも驚いている。もっと冷静に出来ると思っていた。
「少し、歩いてみますか?」
「えっ」
「勿論、私が手綱を引っ張りますから、あなたは乗っているだけで大丈夫です」
私は無言で頷く。
それを見た彼はにこりと微笑むとゆっくりと歩き始めた。
「う、動いたわ…どうしましょう、ドキドキしています」
「私が付いていますから大丈夫ですよ。
イーグルアイを信じてあげて下さい」
彼の言葉にすっとこころが落ち着く。
相変わらず体は固まりっぱなしだったけれど、内心かなり興奮していた。
私が馬に乗れる日が来るなんて。
正直初日は絶望に近かったのに、この子の優しさと彼の励ましのおかげで、何とか第一課題をクリア出来た。
私も彼の様に駆けられる様になるのかしら。
この子と一緒に、色んな所に行けるのかしら。
これからまだまだ課題はあるというのにそんな事ばかり考えてしまう。
しばらく柵内をグルグルと回っていると、遠くからヒックスがこちらに向かってくる姿が見えた。
「ヒックスだわ。もうそんな時間?」
「お迎えですね。
ではもう一周したら、終わりにしましょう」
途端に気持ちが沈む。
やっと乗る事が出来たのに、彼のお休みは今日でお終い。次の彼の非番までお預けだ。
「ねえ、次の非番の日はいつなの?」
「一応一週間に一度は頂いておりますが、今回まとめて頂いたので、早くてニ週間後だと思います」
「そうなの…」
二週間。長いな、と咄嗟に思った。
それまで乗馬レッスンは行えないし、彼にも会えないという事だ。
「リリー様、お疲れ様でした。
降りる時は滑り落ちる様にしなければならないので、気をつけて下さいね」
「…ええ」
そんな事を考えていたからか、私はすっかり集中力が途切れていた。
彼の忠告を受け流したまま右足と左足を揃え、滑り降りようとした時、ブーツの底に鐙が引っ掛かった。
「あっ!」
「リリー様!!」
そして前につんのめる様に落ちる。
私は痛みに備えて目をぎゅっと瞑ったが、衝撃は伝わっても痛みはなかった。
まさかと思い体を起こすと、彼が私を抱き止める形で下敷きになっていた。
「ユイゲル!ああ、私のせいで!ごめんなさい!!」
「リリー様!ご無事ですか!?」
遠くから見ていたのであろう、ヒックスが慌ててこちらに駆け寄る。
「私は大丈夫…でもユイゲルが…」
「ヒックス殿…私はいいですから、その子の手綱を持っていて下さいますか?」
少し弱々しい声の彼がイーグルアイを指差す。
「畏まりました!」
ヒックスはすぐにイーグルアイの手綱を持ち、少し私達から遠ざけた。
「大丈夫?痛い所はない?
ああ、ごめんなさい…私…」
「大丈夫です…少し尻と肘を打ちましたが、リリー様にお怪我がなくて良かった」
そう言って彼はいつもの様ににこりと微笑んだ。
私は思わず涙ぐむ。彼がぎょっとしたのが分かった。
「リ、リリー様!大丈夫です!本当に大丈夫ですって!」
「ごめんなさい…私ったら違う事を考えていたの…あなたが、あんなに忠告してくれていたのに…」
耐えきれず涙が頬を伝った。
本当に妙だ。あんなにしんどかった一年間も涙なんて出なかったのに。
彼が私のために自分を犠牲にする姿が、とても辛い。
「…でも、私は良かったと思います」
彼から信じられない言葉を聞いて、思わず顔を上げる。
「乗馬というのは、一歩間違えれば大怪我に繋がるのです。
乗っている最中もですが特に降りる時が一番落下の危険がある。リリー様はこれで知る事が出来ました。とても良い経験になったと思います」
彼はそう言うと、懐からハンカチを取り出し私に差し出す。
「責任を感じないで下さい。
私のためにあなたが泣いて下さった。それだけであなたを守った甲斐があります」
押し潰されそうになっていた心が逸れていく。
私は彼のハンカチを受け取り涙を拭きながら、もう二度とこんな事はない様にしようと、誓う。
そして改めて彼を尊敬した。