4
俺は大変な事に気付いた。
勇気を出して彼女を誘えたのは良かったものの、日にちも何も、もはや連絡を取り合う手段さえ伝えていなかった事に。
しかも俺は彼女に、気分転換をしたい気持ちになったらと言ってしまった。
それは彼女がそう思わない限り、その日は来ないという事だ。そして万が一望んでくれたとしても、俺にそれを伝える手段がない。
やってしまった。
せっかくのチャンスだったのに。
俺はもう一度、彼女の家へ行ってお誘いしてみる事に決めた。
ただ、元といえど王族の婚約者に選ばれる程のお家だ。
俺の家も爵位はあるけども、彼女の家程ではない。
近衛騎士という中々社会的地位の高い職に就いてはいるが、果たして素直に彼女と引き合わせてくれるだろうかという不安があった。
しかし、どうしてもあの笑顔が忘れられなかった。
自惚れかもしれないが、彼女は確かに俺の提案に嬉しそうに笑ったのだ。
何より俺は、彼女を元気づけたい。
待ちに待った非番の日。
意を決して彼女の元へと赴く。
彼女の家は城下町でも富裕層の多い地域にあり、道は全て石畳で整備され立派な家が建ち並んでいる。
俺は心臓をバクバクさせながら彼女の家へと到着し、ベルを押した。
しばらくして、前とは別のメイドが顔を出した。
「どちら様でしょう?」
「ジークベル近衛騎士隊所属のユイゲル・バーンズと申します。リリー様はご在宅でしょうか」
そのメイドは、あからさまに眉を顰めた。
なぜその様な人がお嬢様に?という疑問が顔に書いてある。
ケビン様との事もあって、城からの使いには警戒しているのかもしれない。
俺は完全に個人的な理由で来たのだけれど。
「大変申し訳ないのですが、お嬢様は出かけておられるのです」
一気に心が沈む。
何という事だ、不在というのは想定していなかった。
「わ、分かりました。
ではリリー様に私の名前と、ここに来た旨をお伝え願いますか?
そしてまた来ます、という事も」
「…畏まりました」
メイドは不審な目をしつつも、一応同意してくれた。
扉がパタンと閉まる。俺は盛大に息を吐いた。
なぜ俺は彼女が必ず在宅しているだろうと思ったのか。
「また来る、なんて言ってしまったが正直心臓がもたないな…」
思わず呟きながら頭を掻く。
さて、どうするか。次の策を考えながら歩いていると
「ねえ、あなた」
誰かに声を掛けられて振り向く。
するとそこには、
「もしかして、ユイゲル・バーンズ?」
待望の彼女の姿があった。
あまりの不意打ちに開いた口が塞がらない。
違ったかしら?と言い始めたので、慌てて居住まいを正して礼をした。
「はい、確かにユイゲルでございます。
突然の訪問、失礼します」
「そうよね!良かった。私あなたを探していたの」
予想外の彼女の言葉に、俺は勢いよく顔を上げる。
「お嬢様!どうされたのですか、突然走られて」
すると彼女の後ろから追いかける様に、優しそうな顔をした男がやって来た。何冊か本を抱えている。
「ごめんなさい、ヒックス。
言ってた探し人が見つかっちゃって、つい」
そう言って彼女は照れ臭そうに詫びる。
「ああ!ユイゲル様でございますか!
それは良かった!」
そのヒックスと呼ばれた男は俺の方を見ると、嬉しそうに礼をした。
「初めまして、お嬢様の付き人をしております、ヒックスです。
お嬢様から話は聞いております。
とても素敵な提案をして下さったのに、連絡を取る手段がないと困ってらっしゃったのです。
わざわざ来て下さったとは、ありがたい」
そう言いながら彼が手を差し出す。
俺はあまりの情報量の多さに心ここにあらずといった感じで彼の手を取り、握手をした。
そして何かが俺の服の袖をくい、と引っ張る。
「ねえ、ユイゲル。
私に馬の乗り方を教えて下さらない?」
もう頭がパンクしそうだ。
ーーーーーーーーーーーー
「馬に乗る?お前が?」
そしてあれよあれよという間に彼女の屋敷に招かれ、彼女の両親と対峙していた。
俺は彼女と一緒の馬に乗って行くつもりだったのだが、彼女はまさかの一人で馬に乗る気満々だった。
さすがに公爵家のお嬢様にそんな危険な事はさせられない。慌ててご両親の許可を得られなければ無理だと言うと、じゃあ聞きに行きましょうと言われ、あっという間にこうなった。
どの道許可は必要だと思っていたが、まさかこんな事になるとは。
そして彼女はさらりと、馬に乗りたいから許可してくれと両親に問う。
父親のザガン様は信じられないといった顔で彼女を見ていた。
「急に何を言い出すかと思えば…」
「お父様も私が家で引きこもっていた事、気にしていらっしゃいましたでしょ?」
「いやそうだが…ここまで活発にしろとは言っていない」
ごもっともで。
彼女がこんな無理なお願いをしたのは、完全に俺のせいだ。
いつ叱られるのだろうかと思わず体を縮こませる。
「ユイゲル殿」
「は、はい」
厳しい顔をしているザガン様が、俺の方へ向いた。
「君は近衛騎士隊に所属していると言ったが、どこの部署なんだい?」
「はい。ウェイブ様と、アデル様の護衛の任に就かせて頂いております。
将来的には、アデル様の護衛隊長を務めさせて頂く予定です」
俺はまず、ザガン様から信頼を置いてもらわねばならない。
かなり驚きはしたがせっかく彼女が何かに挑戦しようとしているのだ。何とか許可を貰わねば。
「その歳でか。中々優秀の様だな」
「滅相もございません」
するとザガン様が、ハッとした顔をされた。
「そうか、君。バーンズ家の御子息か」
「左様でございます」
俺の家は代々近衛騎士隊に所属し、王族を守って来た。
俺の曽祖父が爵位を頂戴し、祖父、父と、着実に位をあげて栄えてきた。
ちなみに俺の父親は、国王様の護衛隊長だ。
その為男として産まれた時点で俺の将来は決まっており、小さな頃から英才教育を施されてきた。
正直一位通過は当たり前。周りの期待の目も、俺の家だからそうさせている部分もある。
どうやらその事を知らなかった彼女は驚いた様に口に手を当てていた。
この国ではバーンズという名前は、珍しくない。
俺も誰かに聞かれない限り特に言う必要もないので、気付かない人も多い。
「そうか…バーンズ家の御子息だったか…まあそれなら確かに馬術には長けているだろうし、何かあった時の対応力もあるだろうが…いやしかし…」
ザガン様の悩ましい声が聞こえて、慌てて背筋を伸ばす。
それはそうだ。乗馬は楽しいが、一歩間違えれば大怪我に繋がる。最悪死んでしまう事だってあり得るのだ。
「…あなた、どうして馬に乗りたいの?」
その時、ずっと静かに見守っていた母親のミランダ夫人が口を開いた。その目は彼女の方へ向いている。
一斉に彼女の方へ視線が集中する。
「乗ってみたいからです」
わずかな緊張感の含む空気なんて何のその。
変わらぬ澄まし顔で、彼女は答えた。
「珍しいわね。論理的なあなたがこんな真っ直ぐな答えを返すなんて。
あなた、やらせてあげたらどうですか?」
思わず食い入る様にミランダ夫人を見る。
ザガン様は更に苦々しい表情をしていた。
「この子がこの様に私達に何かやりたいと言ったのは初めてではない?
確かに危険だけれど、立派な騎士様が付いていらっしゃるのだし」
「私もそう思う。
だからこそ許してやりたいのだが、嫁入り前の体に何かあったらと…」
「そうなったら、ユイゲル殿に責任をとって貰えばいいじゃない」
「っ!?」
まさかの提案に、俺は思わず椅子から転げ落ちそうになる。
「…お母様。ご冗談も程々に」
すかさず彼女の冷めた声が聞こえた。
助かった様な、悲しい様な。
「あら、わざわざうちの娘の為に時間を割いてくれる程なのだから何かあるのかと思って」
「…それにしても、お前達はどうやって知り合ったんだ?」
ドキリ、と心臓が跳ねる。
この乗馬のお誘いは、例の言ってはならない任務でした事だ。どう説明しようか考えあぐねていたら、彼女がすっと口を開いた。
「私がお城に通っていた頃に知り合いました。
歳が近いからよく話していて、丁度彼が家の近くを歩いていたものだからつい話しかけたのです。
その話の流れで、前々から考えていた事を彼にお願いしてみた、という訳です」
よくスラスラと言えるな、と感心する。
先程ヒックスが本を持っていたのを察するに、彼女は読書をするのが好きなのだろう。だからこんなに尤もらしい事を、淀みなく言えるのかもしれない。
ケビン様とサルエラ様の時も、臆する事なく堂々と話せていた事にも納得できた。
「そうなのね。
ごめんなさいね、娘が我が儘を言って」
「いえ、その…」
あのケビン様との事について触れてもいいだろうか。
いや、何も触れない方がおかしいかもしれない。
俺は意を決して口を開いた。
「あの様なことになり、こんな立場でありながらリリー様の事を心配しておりました。
思っていたよりもお元気そうで安心しましたが、折角リリー様がこうして何かしたいと言って下さったのです。それが私に手伝える事であると分かった以上、協力しない訳にはいきません。
引き受ける以上、責任は勿論とります。
彼女に何かあった場合、私の事を殺すなり何なりして下さい。
そのくらいの覚悟です。どうか、よろしくお願いします」
そう言って俺は立ち上がりザガン様の横に行くと、この国の忠誠のポーズをとった。
ザガン様はじっと俺を見ている。しばしの沈黙。
「…分かった」
そして静かに、その声が響いた。
俺も彼女も、思わず顔を上げる。
そして目を合わせて微笑み合った。
「だが、こんな未来ある騎士様の将来を断つ訳にはいかない。そんな事にはならない様、しっかり努めてくれ」
「勿論でございます」
ザガン様は俺の答えを聞いた後、はあ、とため息を吐いた。
やはり心配は心配なのだろう。当たり前だ。
俺が今一度深くお辞儀をすると、ザガン様は無言で俺の肩に手を置いた。
「ユイゲル殿」
彼女は早速乗馬服を買いに行くとウキウキで屋敷を出て行ってしまった。
残された俺はザガン様に手紙を送る許可を頂き、いつから始めるかはまた追って連絡する旨を伝えた。
そして帰ろうとした瞬間、ミランダ夫人が俺を呼び止めた。
「先程も申しましたが、あの子が理屈なくやりたい、と私達にお願いしたのは初めてなの。
14の頃からずっと将来のために色々と我慢させてきたのに結局叶わなくて、とても責任を感じていました。
それに、薄々勘づいていましたが最近妙な噂を聞いて…」
一部の国民が、ケビン様とサルエラ様が実は懇意であったという噂を囁いているらしい。
城では暗黙の了解としてそれには一切触れてはならない空気が漂っている。
もし婚約解消直後に二人が婚約を発表していたら、恐らくこんなものでは済まなかっただろう。
ふと俺は思うのだ。二人は意識してか無意識なのか分からないが、こうなる事を恐れて日を延ばしたのではないかと。
「…少し話がずれたわね。
とにかく、私はあの子が前向きになる事がとにかく嬉しいの。
怪我はないに越した事はないけれど、ぜひあの子が馬に乗れる様に、協力してあげて」
「勿論でございます」
俺はミランダ夫人に簡易的な忠誠のポーズを見せる。
夫人が、薄く笑った様な気がした。
「ただ一つ言いたい事があるのだけど、私が言った責任とは、あなたの命をかける事ではないわよ?
ある種そうかもしれないけれど」
ドキリ、と心臓が跳ねる。
何だか顔を上げられない。
「ふふふ…夫はどう思っているか分からないけど、私は応援しているわよ。
頑張ってね、色々と」
そう言うと夫人は優雅にこの場を後にした。
流石母親とも言うべきか。娘だけでなく、娘に対する他人の感情まで分かってしまうのか。
屋敷を後にする。
それにしても怒涛の展開だった。今も、本当に現実だったのか分からない。
とにかく彼女にまた会える事、彼女に協力出来る事が確約された。
俺は好きな人の為に尽くせる喜びをひしひしと感じ、固まっていた背筋を伸ばした。