2
彼女と初めて話したのは、俺が近衛騎士になりたての頃、臨時で彼女の護衛についた時だ。
『あら?初めまして、かしら』
『はい。先日の試験で、近衛騎士の任に就かせて頂く事になりました。ユイゲル・バーンズと申します』
『そうですか。ユイゲル、よろしくお願いします』
護衛といっても彼女を城門から城の居室へお連れするだけ。
主にケビン様の護衛にあたっている者達の中で交代で行っているが、本日予定していた人物が直前で怪我をしてしまい新人の俺が緊急で呼ばれた。
距離もないし、ただお連れするという何も難しくない任務だが初めての要人警護に俺は少々緊張していた。
『もうケビン様の護衛に就かせて頂ける事になったの?大出世ね』
『いえ。本日は臨時で、普段は城門の警備などにあたっております』
新人はまず城内各所の警備を任される。
そこで仕事ぶりを認められ、更に年2回ある昇進試験に合格すれば役職を与えられたり、王族の護衛に就く事が出来たりする。
俺は一応、この時の採用試験で一位通過、及び近年の中では1番の実力と評価されたためか、簡単な護衛といえど新人にしては異例の抜擢だった。
『こうして臨時で別の方が来てくださる事は今までもあったけれど、全くの新人さんというのは初めてだわ。
あなた、とても期待されているのね』
『…滅相もございません』
彼女がふわりと微笑みながら俺に感心してくれる。
何故か彼女の顔が見れなくて、少し俯きながら礼を述べた。
『ニコライが怪我を?
大丈夫なの?』
『剣の扱いに失敗して、右手を少々…
大事をとって、しばらく護衛任務にはつかない事になりました。
明日からはちゃんと経験あるものが補助で参りますので、ご安心ください』
『そう…早く治ると良いわね』
本日担当する筈だったニコライの話から始まり、仕事はどうかなど他愛のない話をする。
なぜか彼女は楽しげにコロコロと笑うので、任務中だというのに俺もついつい微笑んでしまう。
もし上司に見つかれば気を引き締めろと怒られそうだ。
そして気付けば目的の部屋に到着していた。
『ありがとう、新人騎士さん。
歳の近い人と話せて楽しかったわ。
またどこかで会えるのを、楽しみにしています』
そう言って彼女は扉の奥へ消えていった。
彼女の姿が見えなくなるまで頭を下げていた俺は扉が閉まった音がしてふう、と息を吐いた。
こうして俺の初任務は滞りなく終えた。
無事送り届ける事が出来て、ほっと安心する。
しかし、彼女が行ってしまってどこか残念な気持ちになった。
慌てて”何を考えているんだ俺は”と、頭を振る。
それでも彼女が俺に向けてくれた微笑みが、何故か頭から離れなかった。
それから二年後、俺は第一王子のウェイブ様とそのご長男、アデル様の護衛付きとなった。
彼女とは全く関係ない部署となり、とても光栄な任務についたというのに少しだけ残念だった。
ただ彼女がここにお住みになれば、もしかしたらお見かけ出来るかもしれない。その時に、この様な名誉ある任に就いた事を見せられればいいなと思っていた。
しかし、その思いは叶わなかった。
彼女──リリー・ブランチェシカと、この国の第三王子、ケビン様との婚約解消が発表されたのだ。
それもお二人の結婚式まで残り1ヶ月と差し迫っていた頃の、突然の発表だった。
ーーーーーーーーーーーー
「私に、護衛任務ですか」
その衝撃の発表から更に一年後。
俺はその渦中の人物であったケビン様に呼び出されていた。
変わらず俺は、ウェイブ様とアデル様の護衛についている。
よってケビン様からの呼び出しは寝耳に水だった。
人払いもしており、何やら深刻な空気だ。
一体どんな大物を護衛するのだろうと思わず身構える。
「ここに、この方を連れて来て欲しい」
そう言って渡された一枚の紙。
余程秘密にしたいのか、口ではなく文字で伝える様だ。
「…!?」
俺は思わず声に出しそうになったのをぐっと堪えた。
そこにはケビン様の元婚約者、リリー・ブランチェシカの名前が書かれていたからだ。
そしてその下には、“再び彼女の悪評が流れかねないため、慎重にお連れする事”と書かれていた。
衝撃の婚約解消が発表された時、特に理由は明かされなかった。王族なのだから当たり前だ。
よって様々な憶測が生まれた。
リリー・ブランチェシカが不貞を働いたとか、本当は気性の荒い女でケビン様が耐えられなかったとか、主に彼女に関する根も葉もない噂が流れた。
あの少ない会話でしか彼女の事を知らないが、そんなの嘘に決まっていると分かっていた俺はかなり腹立たしかった。けれど、その噂を払拭させる力は俺にはない。
しばらくやきもきしていたが城から異例のお触れが出た。
今回の婚約解消に伴う理由は、何も分からない内に婚約という未知の約束事を強いられ、成長するに伴い彼女にとってどんどん重責となり、何度も話し合った結果決まった事である事。
よって今流れている下品極まりない憶測は王室としては誠に遺憾であり、今後その様な事を言う者は反逆と見做す事。
そして二人については、今後も暖かく見守って欲しいといった旨のお触れだった。
余程彼女を守りたい姿勢が見てとられた。
理由については、正直納得いかない部分はあったが王室が異例のお触れを出す程なのだ。
彼女の人望がそうさせていると知った国民は、本当にただの憶測だったと反省し妙な噂は瞬く間に消えた。
こうしてようやく終息したというのに二人が密会している事を知られれば、またどんな憶測が広がるか分からない。
人の噂とは、予想の範疇を超える事なんてザラなのだ。
一瞬、もう一度婚約し直すのだろうかとも考えたがそれならここまで隠密にする必要はない。
ケビン様はどうしても彼女に直接会って伝えたい事があるらしい。
「君を選んだ理由は俺の直接の護衛ではない事と、兄に口の堅い人材はいないかと相談した所君の名を教えてくれたからだ。
それに君はまだ騎士となって日も浅く、国民にそこまで知られていないのも都合が良かった」
近衛騎士となって二年という短さで俺は王族の護衛任務についた。
ただの偶然と思われない様、更にこの二年間努力してきたが、知らぬ間にウェイブ様から信頼を得られていた事に驚きと嬉しさが溢れる。
「もし今回の事を口外などしたら…分かっているな?」
「はい。心得ております」
そう言いながら片膝を突き、胸に手を当て頭を下げる。
この国の忠誠を誓うポーズだ。
「はは…脅してすまない。
大丈夫、君の事は信頼しているよ。どうかよろしく頼む」
そう言うと、ケビン様は俺の肩に手を置いた。
それから1週間後、ついにその日がやって来た。
俺は城からの使者と悟られない様馬車と服装を一般的な物に模し、彼女の屋敷の扉を叩いた。
しばらくして中からメイドが姿を現す。
「あの方より仰せ付かった者です。お迎えに上がりました」
「畏まりました。少々お待ち下さい」
あくまで確信的な事は触れず、双方理解して動く。
やがて彼女が姿を現した。
「よろしくお願いします」
久しぶりに拝見した彼女は何一つ変わっていなかった。しかし初めて会話した時の、あの柔らかな雰囲気はない。
こんな緊迫した状況で笑顔でいられるのもおかしいが、この一年謂れもない事を言われたり、人々に好奇の目で見られたりして疲弊したのだろうか。思わず心が痛む。
彼女が馬車に乗り込む。
人目を避ける為、指定された時間は早朝。
おかげで誰にも見られず屋敷を出発する事ができた。
なるべく人通りの少ない道を駆けていく。
やがて目的地に到着した。
城から少し離れた場所にある、王室お抱えの庭園。
一般公開もされているがこんな時間帯には誰も来ない上、立地を理解している分警備し易いという利点があった。
彼女が馬車から降りるのを手伝う。
もしかして俺の事を覚えているだろうかという淡い期待はすぐになくなった。
彼女は特に何も言わず、全くの他人として俺のエスコートに従う。
初めて会ったのは四年前だしたった一度きりだ。
当たり前だと思い、気持ちを切り替える事にした。
そしてついに、ケビン様の前にお連れする事が出来た。
垣根に囲まれた、本来ならお茶を楽しむ空間。
何事もなくここまで来られた事に安心したが、ここで予想外な事が起こった。
てっきりケビン様だけだと思っていたのに、まさかの人物がその横に立っていた。
ミルドレイシアの姫、サルエラ様だ。
その瞬間、全てを理解した。
お二人がミルドレイシアのご兄妹と度々交流していたのは、誰もが知っていた。
歳の近い者同士、仲良くしていらっしゃる姿は微笑ましく、きっと今後も我が国とミルドレイシアの関係は安泰だろうと言われていた。
そんな微笑ましい光景の裏で、ケビン様とサルエラ様は惹かれ合ってしまったのだ。
そしてケビン様が彼女を振ったのか、はたまた彼女が身を引いたのか。
それがあの突然の婚約解消の真実だったのだと、知った。
じゃあ何故すぐにサルエラ様と婚約を結ばなかったのだろう、この様な事までしてなぜ彼女に会おうとしたのだろう、という疑問が浮かぶ。
一人で悶々としていると、ケビン様とサルエラ様をお連れした同僚が近づいて来て、お互いの警備する場所を指示した。彼はケビン様直属の護衛だ。一番信頼を置いているのだろう。
その同僚が小さく「…衝撃だな」と俺にだけ聞こえる声で呟く。
彼も真実に気付いたのだと知る。
俺達は目を合わせると、小さく頷いた。
ここで見聞きした事は、絶対に墓場まで持って行こう、そう誓う様に。
ここは背の高い垣根に囲まれていて、出入り出来るのは一箇所のみ。
かなり背伸びしないと見られない高さだが、同僚がその周辺を見回り、俺はこの唯一出入り出来る箇所を見張る事にした。
彼女達の方に背を向けているため、どういう状況か分からないが、誰も言葉を発していなかった。
しばらくこう着状態が続き、俺も思わず手に汗をかき始めた頃、凛とした声が響いた。
「お久しぶりです。ケビン様、サルエラ様。
お元気でしたか」
彼女の声だった。
堂々と、かつ労う様に。
途端、誰かの泣き声と地面に崩れ落ちる様な音がした。サルエラ様だ。
「リリー…私、私は…」
更にもう一つ、誰かが地面に座り込む音を耳にする。
俺は堪らなくなって、思わずそっと振り返ってしまった。そして衝撃の光景に息を呑んだ。
なんと二人が地面に頭をつけて、彼女に頭を下げている。
慌てて前を向いた。ドッドッドッと心臓が早打ちする。
「こんな事をされても嬉しくありません。
どうか頭をお上げ下さい」
彼女の冷静な言葉が響く。俺は静かに拳を強く握る。
「…こんな事をしたって、君を傷つけた事は変わらない。
しかもこの一年、君はいらない誹謗中傷を受けた。
それに俺達の婚約解消について、真実とは違う理由を勝手に国民に公表して…」
耐えきれないといった感じに、ケビン様の言葉が詰まった。
「いえ」
代わりに、彼女の凛とした声が答える。
「私だけでなく、後任のサルエラ様の事も守れる一番良い理由だったと思います。
その様な英断をして下さったあなたは勿論ですが、この様な無責任な女を守って下さろうとした国王様には大変感謝しております」
「…父は、大変君を憂いていた。
何度も考え直す様言われたが、ここで覆したら、君が俺を想ってしてくれた事が全て無駄になると思った…」
再び訪れる沈黙。
朝日で起き出した鳥の声だけが響く。
「…あなたが」
突然サルエラ様が口を開いた。
彼女と違って、その声は震えている。
「リリーが、婚約解消を申し出たと聞いた時、真っ先に私のせいだと思いました。
あなたはとっくに気付いていたのね」
彼女は何も答えない。
「彼が一人でミルドレイシアに来た時、私達の間には何もありませんでした。
…ただ、これを最後に想いを封印しようと彼と積極的に関わろうとしたのは事実です…本当にごめんなさい…。
そして、私のせいで二人は婚約を解消してしまった。彼から事の経緯を聞きました。
リリーの想いを無駄にしないためにも、結婚しようとも言ってくれました。でも、私はすぐにイエスとは言えなかった。
あなたの事を考えると、怖くて、逃げたくて、この一年間ずっと悩み続けました。
でも彼が言う様に、ここで本当に逃げてしまったら、あなたの想いを踏み躙る事になる…」
そこまで言って、サルエラ様が口を閉じた。
「だからこうして私は呼ばれたのですね。
そうですか…」
彼女がそう呟く。
二人の言い分は聞いた。彼女は一体、どう答えるのか。
「お二人は本当に優しい方達ですね。
けれど…残酷だわ」
俺は思わず声が出そうになった。いくら彼女を傷つけたとしても、相手は王族。咄嗟に彼女の身を案じる。
「早く婚約なり何なりすればいいものを、時間をかける事が私への禊になると思いましたか?
愛し合っているのなら、素直にそう言えば良いではないですか」
しかし、二人は何も言わずに彼女の言葉を聞いている。
まるでそう望んでいるかの様だ。
「いっそあなた達が非道な人間であれば良かったのに、と何度も思いました。
私の事などさっさと捨てて、二人の幸せな姿を見せつけられて腹を立てたかった。その方がいっそ清々しい。
なのに私に気遣って一年も先延ばしにして…こうやってまた私をお二人が向き合う為のきっかけにしようとしている。
この方がよっぽど残酷なのだと…分かっていますか?」
衣が擦れる音がする。
俺は自然と振り返っていた。そして思わず目が離せなくなってしまう。
彼女が聖女の様に膝を折って、跪く二人と向き合っていた。
「…先程からお二人は、私が自分達のために身を引いてくれたとおっしゃっていますが違います。お二人の愛と、私がケビン様に抱いていた想いが違う事に気付いたからです。
ケビン様が私を友人以上に見られなかったのと同じ様に、私もただの憧れだった事を知りました。
そんなのを見せられて、ずっとあなたの隣で歩いて行くなんてみじめです。
そうです。もうこれ以上、私にみじめな思いをさせないで下さい。
あなた達がしている事は、ただの自己満足です」
サルエラ様が一気に涙を流し、ケビン様が俯いた。
そして口々に謝罪の言葉を言う。
彼女は許すとも何も言わず、二人を見つめていた。
そして俺もその様子を、ただじっと見つめていた。
しばらくそうした後に、彼女はゆっくり立ち上がった。
「それではケビン様、サルエラ様、どうかお幸せに」
そう言って二人を労う言葉を掛けながら、王室仕込みの完璧な礼を見せる。
「リリー」
彼女が踵を返そうとした瞬間、サルエラ様が呼び止めた。
「…どうか、私の事を様と付けるのはよして。
昔の様に、サルエラ、と呼んで欲しいの」
これはどうなんだろうかと、思わず眉を顰める。
確かにサルエラ様は心優しい方だとは思うが、彼女はもうこの二人に関わりたくないのだ。
それを汲み取れないのだろうか、と。
「…いいえ」
彼女はぴしゃりと言い放つ。
「私はもう、あなた方とは違う身分なのです。
それにこの様な関係性となった今、あなたを友人として見るのは、正直耐え難いです。
あなたはこれから彼と幸せになるのですから、どうか私の事などお忘れください」
そして自分のためにも、彼女のためにも、しっかりと線引きをした。
サルエラ様もその気持ちに気付いたのだろう。今一度謝罪を述べた後、頭を下げた。
彼女は颯爽とこの場を去って行く。
俺はお二人に深く礼をした後、先に行ってしまった彼女を追い掛ける。
「リリー様!お待ち下さい!」
彼女がゆっくりと振り向いた。
「…あなた、全てを聞いたわね。
しかも最後の方は、普通にこちらを見ていたし」
「も、申し訳ございません…」
普通に気付かれていた。
それに咄嗟に謝ってしまい、全て見聞きした事を認めてしまう。
「ケビン様が選んだ人なのだから、それなりに信頼をおける人なのでしょうけど、ここで見聞きした事は黙っておいた方が賢明です」
「勿論です。墓場まで持っていくつもりです」
即答する俺に彼女はため息を吐いた後、また前を向いた。
「…私、少し言い過ぎたかしら」
そして呟く様に、俺に問う。
「いえ、リリー様は本当にお優しい方だと思いました。
お二人の事を想ってあのような厳しい言葉を使って突き放しているのだと、お見受けしました」
「そこまで私、出来た人間ではないわ。
私を理由に立ち止まってるお二人に、腹が立っただけ。…全く、どれだけみじめにさせれば気が済むのかしら。やっぱりもっと言ってやれば良かったわ」
彼女は苛立たしげだったが、来る前よりもどこか清々しい顔をしていた。
「行きましょう。屋敷までお送りします」
陽はもうすっかり昇っていた。
眩しい朝日に目を細めながら馬車を動かす。
着々と、彼女と別れる時間が近づいてくる。
「到着しました」
「ありがとう」
彼女の手をとって、馬車を降りてもらう。
手が離れる瞬間、これが最後になるかもしれない。
そう思った俺は考えるより先に体が動いていた。
「あ、あの」
彼女が振り向く。
一気に緊張がピークに達した。
「わ、私は…気分転換によく馬に乗って気に入ってる川のせせらぎを聞きに行くのです。
その、もし、気分を変えられたい気持ちになられた時は、ぜひ私にお申し付けください」
しばしの沈黙。俺は多分顔が真っ赤になっていたと思う。
「あなた…名前は?」
「ユイゲル・バーンズです」
彼女に名乗るのは二度目。
少し、考え込む様な仕草が見えて期待してしまう。
「ユイゲル…分かったわ。
そんな気分になったら、お願いしようかしら」
あの頃の様ににこりと微笑み、俺の手からするりと離れると、彼女は屋敷へと入って行った。
「…やはり、覚えてらっしゃらないか…」
思わず小さく呟く。
俺は残念な気持ちになりながらも、最後に彼女の笑顔が見られた事に胸が熱くなった。
それから数日後、ケビン様とサルエラ様の婚約が発表された。