連合国軍総司令部直属日本警備隊
架空戦記創作大会2022冬参加作品となります。
連合国軍総司令部直属日本警備隊。1945年8月の大日本帝国政府によるポツダム宣言受け入れによって敗北し、解体された大日本帝国陸海軍部隊の後身となった組織の一つであり、後に陸海空の自衛隊に繋がる組織の一つでもある。
この部隊の誕生経緯は、1944年後半に遡る。その頃世界は1939年9月以来、米英ソ等の連合国陣営と日独伊等の枢軸国陣営が、血で血を争う凄惨な第二次世界大戦を繰り広げていた。
ただしこの時期には、戦争の趨勢は既に連合国有利に傾いており、誰の目にも最終的な勝者は連合国となるのは明らかであった。
そして、その勝者となるであろう連合国内部では戦後を見据えた動きが活発化していた。
特に対ドイツで一致団結していた連合国内部にあって、資本主義の米英とその資本主義を否定する社会主義国ソ連が、ドイツや日本という共通の敵が消えた後に衝突するのは目に見えていた。
ただし、このソ連に対する見方は当初米英で温度差があり、特に米国はルーズベルト大統領がソ連に寛容であった。しかしながら、彼が歴史上異例の大統領4選を成し遂げた直後、まるで選挙戦で全ての命数を使い果たしたように急死したことで、風向きが変わり始める。
ルーズベルトの後を継いだトルーマン大統領は、就任直後からソ連に対して厳しい見方を取り始め、これは2月に行われたヤルタ会談で表面化した。
このヤルタ会談で、トルーマンはソ連のスターリンと、対日参戦に関する密約を結んだが、当初その内容はドイツ降伏6カ月時点で、日本が連合国と経戦中の場合のソ連の対日宣戦布告に加え、ソ連が攻め込むのは満州・朝鮮・樺太と言う陸続きの地点のみであった。
これに対して、スターリンは貪欲により早い時期の日本への宣戦と、さらにソ連軍侵攻地域に千島列島を加えるとともに、状況が許せば北海道の上陸まで提案した。
この内トルーマンは参戦時期をドイツ降伏3か月後に妥協したが、侵攻地域に関しては譲らなかった。
トルーマン自身は政治や軍事のズブの素人であったが、そのことには関しては良く自覚しており、それゆえにヤルタ会談前も、専門家に幅広い意見を聴取していた。その結果、戦後を見据えて千島列島をソ連の勢力圏とするのは、彼らに太平洋への入り口を開くこととなるとして、認めない方針を固めていた。
この方針にもちろんスターリンは不満であったが、アメリカ側は援ソ物資の打ち切りをちらつかせて認めさせた。
さらにヤルタ会談では、トルーマンは英国首相チャーチルとも当然情報を交換していたが、そこでも話題になったのは戦後の覇権と、ソ連との対立に関するものであった。
ソ連は今次大戦でナチス・ドイツと共にポーランドに攻め込み、フィンランドへの侵攻やバルト三国の強制併合などの前科がある。
そうなると、米英両国がこれ以上ソ連が付け上がるような要素は、戦後を考えると極力なくした方が良いと考えるのは当然であった。
そもそも資本主義でなおかつ民主主義の米国と、立憲君主制で国王を仰ぐ英国では、それらを全否定するソ連と相容れられない。
1945年7月にドイツのポツダムで再び米英ソの三巨頭が揃い、日本の降伏と戦後処理に関する話し合いがもたれたが、ここでも米ソは対日戦に関して意見が衝突した。
米国としては既に日本は虫の息で、なおかつ原子爆弾も完成済みであったことから、ソ連の参戦は最小限度で良いという考えだった。(さすがに、この期に及んで参戦しなくても良いとまでは言わなかった)
対してソ連は再び千島列島と北海道侵攻さえ口にし、トルーマンを内心で激怒させた。
「連中の火事場泥棒を許すな。やつらには日本に、もはや味方はいないと教えるだけの存在でいいのだ!」
このポツダム会談で作成されたポツダム宣言が、日本に対する最終降伏勧告となったが、日本はすぐには降伏せず、8月6日と9日の原爆投下、そして8日のソ連参戦でようやく15日に降伏を宣言して戦闘行為を停止した。
そして9月2日、東京湾上に停泊する戦艦「ミズーリ」艦上で、正式な降伏文書への調印が行われ、ここに第二次世界大戦は正式に終結した。
この間、ソ連は日本が戦争の終結を宣言した8月15日を過ぎても進撃を続け、満州、朝鮮半島の北半分、そして南樺太を完全に制圧した。
一方で、なけなしの艦艇や上陸用舟艇を集めて、千島や北海道への上陸の素振りは見せたものの、北海道近海に米空母機動艦隊の分艦隊、千島列島近海には米北太平洋艦隊が展開したために、流石のスターリンもそれ以上の冒険はできなかった。
米北太平洋艦隊に至っては、ペトロハバロフスク・カムチャッキーの至近にまで進出し、無言の圧力を加えたほどだ。ただでさえ弱体で、なおかつ満州や朝鮮攻略支援が手いっぱいのソ連太平洋艦隊には、これに対抗する手立てはなかった。
結局ソ連が新たに獲得できた領土は、南樺太だけであった。(満州は中国に返還、朝鮮半島北部も後に朝鮮社会主義共和国として独立したため)
さて、9月2日に正式に降伏した大日本帝国であったが、その大日本帝国に進駐した連合軍最高司令部はポツダム宣言に基づき、日本の武装解除を開始した。
しかしながら、この時点で当の連合国軍総司令部(GHQ)内部で既に温度差が出始めていた。
と言うのも、連合国の中でも中ソなどは日本の軍隊を完全に解体の上、その復活を許さないという強硬的な態度をとっていた。また、米英などの後に西側諸国と呼ばれる国の中にもこうした意見は根強かった。
一方、日独に代わって新たな敵対国となるソ連に脅威を覚える一派は、大日本帝国陸海軍は解体しつつも、いずれは自分たちの代わりに極東で対共産主義の防波堤となってくれる軍事組織となりうる芽は、残しておきたかった。
戦に敗れたとはいえ、大日本帝国陸海軍は戦争に関するノウハウを蓄積した、世界でも指折りの軍事組織である。そこから軍国主義を抜いて、自分たちに都合のいい軍事組織に仕立てられれば、メリットは大きい。
とは言え、日本の軍事組織を一端解体するのは既定路線なので、とりあえず連合国軍総司令部内(GHQ)の、日本武力維持派が取った路線は、日本の治安維持を目的に、連合国軍総司令部(GHQ)直属の日本人を構成員とする警備隊を創設するというものであった。
現在(1945年8月以降)は占領目的で進駐した連合軍(実質米軍を主力とする)は、日本の占領や武装解除とともに、その治安維持や国土の警備も同時に担っている。
しかしながら、占領が終わり正式な講和条約が結ばれれば、それも終わる。そうでなくとも、戦争が終わった以上、連合国側も大規模な軍縮と復員を行うこうととなる。その状況下で、敗戦国のために費用や人員を捻出し続けるのは得策ではない。
一端大日本帝国軍は解体するが、その中から連合軍に恭順する者を選抜し、連合軍が担う役割の肩代わりをさせ、ゆくゆくは共産主義への対抗馬となる戦力に再編する・・・これが武力維持派のアウトラインであった。
もちろん、この計画には凄まじい反発も発生し、さらに最高司令官マッカーサーや意外なところでは日本政府も当初は難色を示した。
マッカーサーにしてみれば、これは自分の占領政策と相容れないものであった。また日本政府としては、ただでさえ敗戦で経済はガタガタな状況で、余計な出費を増やされたくなかったのだ。
だがマッカーサーにしても日本政府にしても、これが合衆国政府の意向となれば逆らえない。
既に欧州ではソ連が自分に都合の良いように、好き勝手に始めており、早急な反共戦線の構築が必要だと、合衆国政府内で見られ始めていたのだ。
こうして世界最強国家の大統領の方針の下で、反発を強引に抑えて連合国軍総司令部直属日本警備隊の組織化が、1946年1月に着手された。
この日本警備隊は将来的な日本の再軍備に備えて、陸海の部隊が整備されることとなった。ちなみに空軍については、在日米軍航空部隊内部に秘密裏に日本人の訓練部隊が作られることとなったが、これは中ソを刺激しないために、日系人部隊に偽装して行われた。
当初兵力は陸上警備隊が1万2千で、日本全国に分散配置された。表向きは連合国軍(GHQ)直属の占領軍補助部隊なので、最高指揮官は全てアメリカ軍人が充てられた。また武器も戦車や大口径は有さず、装甲車ならびに迫撃砲、機関銃、小銃のみとされた。
一方海上警備隊は、兵站まで含めて3000人の規模でスタートし、艦艇としては米海軍が接収していた「秋月」型や「松」型駆逐艦、海防艦が複数隻返還され、旧海軍軍人たちが乗り込んだ。ただし、こちらも艦長以上の指揮官は米軍人で、また武装も警備隊であるため減じられていた。
このほかに洋上での警備救難や連絡、練習目的で水上機を中心に50機余りの各種航空機が返還された。戦闘機や攻撃機は当然のことながら有していなかったが、それでも航空禁止の例外として、日本人が運用する航空機が残される形になった。
ちなみに海上警備隊と、航空隊(擬装日系人部隊)はソ連や中国を刺激しないために、当初は全ての部隊が太平洋側に配置された。
さて、こうして陸海の警備隊が発足し、旧帝国陸海軍軍人がその構成員となったが、連合国軍総司令部(GHQ)直属の補助部隊と言う体裁上、制服や階級章、その他の服務規程まで、ほぼ全てが米国式となった。そのため、外見だけ見るとアメリカ軍の日系人部隊のようであり、実際に救難や災害派遣に出動した先でそのように見られる事例が頻発した。
また旧軍人が構成員の中心ではあったが、リクルートされたものの「アメリカ人の下で働くのはごめん」「今更アメリカ式に馴染めるか」と入隊を断る人間も多かった。
逆に、市井が凄まじいインフレに襲われるとともに、職探しに苦労していた旧軍人にとって、例え米国の旗の下であっても、かつてと同等の職を得られて、給料や各種厚生福祉も整備されている日本警備隊は魅力的な職場であった。
また、いずれこの組織が再編されるであろう日本の国軍になると信じて入隊した人間も、もちろんいた。
こうして活動を開始した日本警備隊であったが、先述したようにあくまで連合国軍総司令部(GHQ)直属の部隊であり、様式は全て米国式であった。そのため、入隊した旧軍人、特に古参の職業軍人ほど慣れるのに苦労することとなった。逆に旧軍生活が短い人間ほど、覚えなおすのに苦労せずに済むという、一種の逆転現象も見られた。
ただ総じて日本人隊員を悩ませたのは、組織としての様式よりも、食事であった。
というのも、日本警備隊の兵站は当然ながら米軍に依存していた。そのため、まだまだ食糧不足が日本を覆うこの時期に、三食充分な量が出されるのは良かったが、主食は基本小麦粉( つまりパン)であり、副食用として支給される各種食材も、もちろん米国人が馴染みとするものばかりであった。
いくら量を出されても、口に合わなければ流石に辟易する。それでも、食糧事情が極度に悪い時代だからこそ、首の皮一枚のところで士気を繋げたと言えた。
これは後に、食糧の買い付けを徐々に日本国内で増やすことで解消されることとなる。
一方で砂糖が潤沢に支給され、アイスクリームやドーナッツと言った甘味が豊富にあったことは、甘味に日本人が飢えているこの時代、奇跡とも言えることで、日本人隊員にも喜ばれた。
当初陸海空全て合わせても2万にも満たない規模で始まった日本警備隊は、当初日本国内でもその存在意義が物議を醸した。とりわけ、終戦2年後に発布された日本国憲法の9条では、陸海空軍の保有を禁止したために、厳密に解釈すると違憲と言う論説が発生した。
ただし、この日本警備隊は書類上はアメリカ軍の一部であったため、解釈としては日本人で構成される在日アメリカ軍部隊と言えた。
そして、設立直後から日本警備隊は国内での災害派遣や、海上での救難などに八面六臂の活躍を見せ、1948年には部隊の規模が総数3万人に拡大された。特に海上警備隊は5000人規模に拡張されるとともに、米国から「アトランタ」級軽巡洋艦2隻を供与され、一気に戦力の拡充が図られた。
もちろん、こうした動きは中ソや独立した南北朝鮮半島の国家から、凄まじい非難が殺到することとなった。そしてその共通文言は「日本軍国主義の復活」と「アメリカ帝国主義の傀儡」であったが、何と言われようと米国は突っぱねた。
この時点で米国は日本警備隊を、自国の日本占領政策の駒以上に、将来的な対共産主義の防波堤となる戦力として認識しており、その育成と拡充に心血を注いでいたのだから。
そして1950年には陸海空5万人まで拡張されていた日本警備隊であったが、この年朝鮮戦争が勃発したために、この内の1割を新設の警察予備隊と海上警備隊に移管した。これは新設組織の基幹要員を抽出するための措置であった。
この要員抽出は1952年のサンフランシスコ講和条約締結に伴う日本の独立までに段階的に行われ、最終的に日本独立と同時に日本警備隊は正式に解散廃止し、要員はこの時点で正式に組織されていた陸海空三自衛隊と、一部が海上保安庁に引き継がれた。
こうして、連合国軍最高司令部日本警備隊は7年という短命でその使命を終えた。
しかしこの7年、そうでなくとも日本に国防組織がないブランクを作らなかったことは、大きな意味を持つことであった。
兵器類こそ一部を除けば引き継がれなかったが(終戦までに運用した旧軍兵器のほとんどは酷使や戦時中の品質悪化で、随時米国より供与された兵器に取り替えられた)しかし組織を運用するノウハウや、兵器を運用する技術は、例えその人数が少数であったとしても、誰かが継続して覚えてさえいれば引き継がれる。
結果、1952年に日本の独立と同時に編成された陸海空の自衛隊は、旧軍時代に比べ圧倒的な少数で、なおかつ在日米軍の補助的な戦力とは言うものの、少なくとも想定された任務に対して、即時出動可能なレベルに達していた。
特に大湊に配置された護衛隊群の存在は、隙あらば千島方面から太平洋へと進出しようとするソ連太平洋艦隊に対して大きなプレッシャーとなった。
そして余談だが、面白いエピソードが残されている。この大湊に配置された護衛隊群には、この時期数少なくなっていた旧海軍からの引継ぎ艦である護衛艦の「ゆきかぜ」(旧「雪風」)と「はなつき」(旧「花月」)が配置され、武装を供与された米国式に変換したものの、海軍時代のシルエットを色濃く残していた。
このためソ連太平洋艦隊は、日本からの接収艦のうちでシルエットが比較的似ている艦をオホーツク海や日本海で運用して、情報収集を行ったという。
このソ連による旧日本艦を用いた偵察活動は、既に日本警備隊の時期から始まったとされている。
しかし、先にも書いたとおり、日本警備隊時代には旧日本海軍引き継ぎ艦艇を日本海方面で活動させたことはなく、逆にこれがソ連が偵察を行っていることを米軍に教えるだけであった。
そして海上自衛隊に改組後に、日本警備隊より引き継がれた旧海軍艦艇も日本海やオホーツク海の国境警備活動に参加することとなったが、この時期にはソ連が日本より接収した艦艇は部品不足などで第一線艦艇としての活動が不可能となっており、日ソ双方の同族が相まみえるということはついぞ起こらなかったのである。
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