かくれんぼ神社
雪山の山村には、「かくれんぼ神社」と呼ばれる神社がありました。本当はもっと厳かで長い名前なのですが、村の住民たちはみな、「かくれんぼ神社」と呼んでいました。
かくれんぼ神社に、「まーだだよ」と三回唱え、そして最後に「もういいよ」とつぶやき、忘れたい記憶を思い出すと、鬼がその記憶を食らう……。村に古くから伝わる言い伝えでした。ずいぶんと深い山奥にある村でしたが、そのうわさを聞いて、ぼちぼちと観光客もやってきます。村には宿もあるのですが、村人たちは極力よそ者には関わらないようにしていました。皆一様に沈んでいて、後ろ暗い顔をした者たちばかりだったからです。
しかし、いつもは開かれている村でしたが、年に一度だけ、道路を封鎖し、よそ者を誰も入れないようにする日がありました。それは節分の日です。通常は、豆をまいて、「鬼は外、福は内」と声に出すのですが、かくれんぼ神社では普通の節分は行わないのです。……代わりにかくれんぼ神社では、秘伝の奇祭が行われていたのです。
「まーだだよ……、まーだだよ……、まーだだよ……、……もういいよ」
村では見慣れない、しっかりとコートで身を固めた女性が、かくれんぼ神社に参拝しながら、ぶつぶつとつぶやいていました。遠目でそれを見ていた村人たちは、ひそひそと言葉を交わします。
「また来たようじゃな。しかしまぁ、いったいどこからうわさが流れとるんかね?」
「おじいさん、知らんのかえ? 今どきの若い衆は、なんじゃっけ、なんとかっちゅう電話を使って、いろいろ調べるそうじゃよ。かくれんぼ神社のことも、その電話で調べるそうじゃ」
「へぇ。そりゃすげぇや。今どきの若い衆にはついていけんな」
おじいさんとおばあさんは、ぼそぼそしゃべってから、女性から目を離しました。若者たちもそうですが、かくれんぼ神社に来る参拝客になど、関わらないほうがいいのです。その願いごとの内容など、知ったところでろくなものではないのですから。
「……ところで、『送りの儀』の準備はもうすんでいるんかのう?」
ふと、おばあさんがつぶやきました。すると、おじいさんが恐ろしい形相でおばあさんをにらみつけたのです。
「シッ! ……よそ者も来とるんじゃ、『送りの儀』については口に出してはならぬ」
「あぁ、そうじゃったな。……でも、さすがによそ者たちも、おく……その、儀式については知らんじゃろう?」
言い訳がましくいうおばあさんを、おじいさんはまだ怖い顔でにらんでいましたが、やがてちらりと、先ほどのコートの女性を見あげてつぶやいたのです。
「そりゃあな。じゃが、もし知られたら、そして儀式に割り入ってこられたりしたら、どんな災いが起こるかわからん。……儀式まではあと一か月ほどじゃ。誰にも知られんようにせねばな。特によそ者には」
コートの女性が、階段を下りてきました。おじいさんとおばあさんのすがたを見て、軽く会釈します。二人は知らんぷりして女性に背を向けました。少し驚いた様子の女性でしたが、気にせず宿へ戻っていきます。その顔はどこか晴れやかで、しかしわずかにくもっているのでした。
柵で封鎖された道路の前に、一人の女性がたたずんでいました。しっかりとコートで身を固めていますが、ずいぶんと寒そうにふるえています。女性はしばらくぼうぜんとしていましたが、やがて意を決したようにうなずくと、柵をよじ登っていきました。見張りはいなくて、女性が村に侵入したのに、誰も気づくことはありませんでした。
「おいでくださいませ! おいでくださいませ! おいでくださいませ!」
村中で雄たけびがあがります。節分の夜の奇祭、『送りの儀』が始まったのです。ひょっとこやおかめのお面をつけた村人たちが、そこかしこで声をはりあげます。村人たちが向かっているのは、かくれんぼ神社でした。
「おいでくださいませ! おいでくださいませ! おいでくださいませ!」
さけぶ声にさらに熱が入り、まるで踊っているかのような激しい身振りで、村人たちはなにかを追いこむように、というよりも呼びこむようにでしょうか? ともかく一心不乱に、「おいでくださいませ!」とさけび、神社へ歩んでいくのです。神社にはかがり火がともされて、酒瓶が何本も境内にて割られ、中身がまき散らされています。
「おいでくださいませ! おいでくださいませ! おいでくださいませ!」
その熱気に気おされながらも、先ほどのコートの女性は、一番うしろをついていきました。もちろん見つからないように、物陰に隠れて様子をうかがっています。
――やっぱりそうだ。このまま鬼を呼ぶんだわ。だからあんなに乱暴に酒瓶を割っているんだ――
身をひそめたまま、女性はきゅっとくちびるをかみしめました。鬼を呼ぶ奇祭、『送りの儀』。その祭の目的は、かくれんぼ神社にたまりにたまった、『穢れの記憶』を鬼にささげるというものでした。
――かくれんぼ神社にささげられた記憶を、鬼に生贄としてささげることで、鬼たちは村人にこの地で暮らす権利を与える――
もともとこの山村は、非常に雪深い地方でとても人が暮らせるような場所ではなかったそうです。しかし、あるとき猟師が迷いこみ、そこで鬼たちのすがたを見つけたのです。鬼たちがいる場所は、深い雪に覆われた山々の中で、花が咲き乱れてまるでそこだけが春の女神に守られているように見えたそうです。ですが、猟師は鬼に見つかり、食われかけてとっさに鬼に取引を申し出たそうです。
『おらの記憶をやるから、命だけはお助けを!』
その雪山の村々では、鬼は人間の脳髄をすすり、その記憶を酒の肴として食らうという伝説がありました。猟師もそれを思い出し、とっさにそのような取引を申し出たのです。驚いたことに、鬼たちはそれを了承しました。ですが――
『ヨカロウ。ダガ、ソナタノ記憶ダケデハ足リン。村ヲ作レ。ソシテ我ラニ捧グノダ。苦イ記憶ヲ捧グノダ』
鬼はそういい、猟師を解放したそうです。村に帰った猟師は、死別した妻の記憶を失っていたそうです。あれほど悲しんだはずの記憶がなくっていたことで、猟師は鬼の言葉が本当だったと知ります。そしてきっと鬼たちは、取引を守らなければ、猟師を、いいえ、村ごと滅ぼしにかかるだろうことも。……猟師は村の長に相談し、半ば追われる形で鬼のいる土地へ移り住むことになりました。しかし、豊かな土地のうわさは広がっていき、猟師のもとには、じょじょに人が集まって来たといいます。そしてそれだけではなく、いやな記憶を忘れたい人たちもぽつぽつと村を訪れるようになったのです。そしてそれが今では、鬼にささげるかわりに、かくれんぼ神社に奉納するという形を取っていたのです。
――でも、実際は今も変わらず、鬼にささげているんだわ。そして、わたしの記憶もささげられるんだ。……心美の記憶も――
生まれたときから心臓病を患い、小さなからだで闘病生活を送り、そして最後は死んでいった愛娘の記憶は、今ではぼんやりとしか思い出せません。死から与えられたつらい記憶はなくなりましたが、それと同時に、心美の笑顔も「かくれんぼ」してしまったのです。小さなからだで病と闘った、心美の命の輝きも、今となってはかすんでしか見えないのです。それは、つらい記憶にさいなまれるよりも、はるかに苦しいことでした。
――わたしが間違っていたわ。大切な心美との思い出を、ずっと胸に抱いていなければならなかったのに。それがどんなにつらいものでも、どんなに苦しいものでも、わたしは胸に抱いていなければならなかった。……わたしは心美を、もう一度失ってしまった。抱きしめていたはずなのに、自分からそのからだを、その命を、離してしまった。そして、もうすぐわたしの心美が死んでしまう。命だけでなく、記憶までも――
「おいでくださいませ! おいでくださいませ! おいでくださいませ!」
村人たちのさけびが、一層激しくなりました。のどがはりさけんばかりに声を張り上げて、そこかしこで酒瓶を割り、鬼を呼ぼうと必死になっているのです。女性は身を隠したまま、神社の境内をにらみつけました。
「おいでくださいませ! おいでくださいませ! おいでくださいませ! ああっ!」
村人たちが思わず身をちぢめました。女性の目が見開かれ、ガチガチと歯が鳴り、思わずその場にへたりこんでしまいました。
――本当に……鬼が――
いつの間にか、境内の真ん中に、真っ赤なからだの大男が立っていたのです。そばで腰を抜かしている男たちの、三倍ほどの身長があり、血のように赤い髪とひげは伸び放題で、ところどころチリチリと燃え上がっています。男たちの腕ほどの太さの指で、まだ割られていない酒瓶をひょいっとつまみ、そのまま口に放りこみました。バリリ、ガリッ、パキと、ガラスが砕ける音が響きわたりました。
「……肴ハ、ドコダ?」
「……待ちなさい!」
コートを脱ぎすて、女性は鬼の前へかけよりました。村人たちが「げぇっ!」とすっとんきょうな声をあげます。
「何者ダ? 村ノ者デハナイヨウダナ」
「わたしの、わたしの心美の記憶を、返してよ!」
女性の渾身のさけびを聞いて、村人たちが再び「うげっ!」と声をあげます。我に返った男たちが、あわてて女性を取り押さえます。
「きゃあっ! 離して、離してよ!」
「このアマ、どこから入り込んだんだ! ええい、こいつをつまみだせ! しばりつけてどこかに閉じこめるんだ!」
「待テ」
女性をけりつけ、押さえつける男たちを、鬼が制しました。「ヒッ!」と悲鳴を上げる男たちに、鬼が再び口を開きます。
「ドケ」
「ひっ……ひぃぃっ!」
あわててあとずさる男たちは無視して、鬼は興味深げに笑い、それから女性を見おろしました。
「我ノ肴ヲ横取リスルトイウノカ?」
「そ……そうよ、わたしの心美を、心美との記憶を返して!」
「シカシ、ソノ記憶ハ、ソナタガ我ニ捧ゲタハズダ。ソレヲ返シテホシイナド、ズイブント虫ノ良イ話ダナ」
「それは……」
女性は言葉につまってしまいましたが、やがてその場にひざまずき、鬼にひれ伏して声を震わせたのです。
「……わたしを、わたしを代わりに生贄にしますから、どうか心美の記憶だけは……」
「フン、ソナタガ生贄トナルナラ、記憶ヲ戻シテモ意味ガナイデハナイカ」
「いいえ、心美の記憶があなたに食べられないなら、それだけでも十分です。だからお願い……」
女性の言葉を聞いて、鬼は突然高らかに笑いだしたのです。空気が穢れ、身をふるわせるほどの、おぞましい笑い声でした。村人たちはみな恐怖で目も開けられず、女性と同じようにひれ伏しています。
「面ヲアゲヨ」
ひとしきり笑い終わったあとに、鬼は女性に命令しました。そろそろと顔をあげる女性に、鬼はにぃっと不気味な笑みを見せて続けました。
「生贄トナルナラ、ドノヨウナ身ニナッテモイイナ?」
「はい」
「……ヨカロウ。ナラバソノ心美トヤラノ記憶、返シテヤロウ。……コレデソナタハ、晴レテ我ラノ仲間ダ。……鬼トナリテ、永遠ニ記憶ヲ貪ルガイイ」
鬼の言葉と共に、女性のからだは真っ赤な炎に包まれました。その断末魔がひびきわたり、そしてそれが途切れると同時に、村は静寂に包まれました。
「コレガ、コレガ、鬼……」
遠くで女性の声がしましたが、それも夜の闇に吸いこまれて消えていきました。
――心美、心美、わたしの大事な心美――
鬼となった女性は、ささげられる苦い記憶を肴に、鬼の黒い酒を飲み干します。肴を食らうたびに、胸の中に苦い記憶の味が広がり、人間だったころの薄い記憶を侵食していきます。
再び肴が運ばれてきました。女性は心の中で口ずさみます。
――ココミ、ココミ、わたしの大事な……大事な? 大事な――
心美の笑顔は消えて、肴の苦く吐き気のする味が、女性の記憶を塗りつぶしていきました。そしてそれも黒く染まり、肴の味と黒い酒に酔わされていきます。赤ちゃんの泣く声が聞こえてきましたが、女性にはもはや、それが誰の、なんの声なのかすらわかりませんでした。
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