七十七話 円柱の海水
「それでゼニクルスさん、この子は一体何なんですか?」
「さぁ? だけど、ご主人からこれを預かってますよ」
そう言ってゼニクルスが見せたのは横に長いアタッシュケースの様な物だった。
ケースの作りはかなりしっかりした物で高級感もある。
嫌でも二人は中身が気になった。
「貸して」
少年がゼニクルスからアタッシュケースを受け取り、それを開く。
「釣り竿?」
「ルアーとか餌とか入ってますね」
中に入っていたのは釣り道具一式だった。
ただ、素人目には分からないが専門の人間が見ればそれが普通の道具では無い事は一目瞭然だった。
釣り竿を構築する全ての素材がダンジョン産の魔力が籠った物質だ。
糸はミスリルを軟化させた物で、通常の糸よりも数十倍の耐久性を持っている。
少年は慣れた手つきでそれを取り出し、一気に海へ投げ込んだ。
「ダンジョンで釣りとか……」
秋渡の驚く声を無視し、少年は座り込んで釣りを始めてしまった。
「俺嫌われてんのかな……」
「あはは……」
ガックリと肩を落とした秋渡にゼニクルスが声をかける。
「ご主人が何を考えてるかは分かりやせんが、この子の警護がわいの仕事でっしゃろうな」
「それと、僕一人じゃ力が足りない時に手伝って」
少年は一言そう言うとまた海を眺め始める。
「俺の方が年上なのに……」
「でも、やりますよね?」
「そりゃ、マスターの命令だからな」
そう言って二人は少年から少し離れた位置に陣取る。
「広域結界魔法、セヌリント」
決して、その結界は高い性能は秘めていない。
セヌリント、その魔法の意味は効果の保存的変質。
総合的な能力値を変化させる事なく、魔法を変化させる。
今回は、範囲を拡大させ、その分耐久力を低下させた。
「釣れた」
「「「え?」」」
三者同様に驚き、見つめた方向には一匹の魚を釣り上げる少年が居た。
「何それ」
「鮭」
「ダンジョンだから何が釣れるのかと思ったら普通の魚じゃん」
少年は秋渡の言葉を無視してまた釣り糸を海へ垂らした。
「はぁ……耶散さんちょっと任せてもいい?」
「良いですよ。今度何か驕ってれるなら」
「中華でいい?」
「フレンチで」
「分かった」
秋渡は持ち場を離れ、少年の横に腰を下ろした。
結界があれば侵入者には即座に気が付く事ができる。耶散一人居れば警戒だけなら十分だった。
「なぁ新人、先輩には敬意を払うべきだと思うんだけどな」
「なんで?」
「なんでってそりゃ、偉いから?」
「秀さんが言ってたよ。部隊事の番号は振ってあるけど、別に階級の話じゃないって。それって、僕とあんたが同列って事じゃないの?」
「生意気なガキだぜ」
「お兄さんもね」
顔を赤くし拳を振り上げそうになった秋渡は、萎むように息を吹き出す。
「はー、まぁいいや。確かに敬意なんて払って欲しい訳じゃないし」
少年はチラッと秋渡の方に不思議そうに視線を移し、直ぐに海へ視線を戻した。
「倉持秋渡」
「何?」
「名前」
「……トーマ」
それを聞いていたのか、耶散が少し大きな声で「私は浜村耶散だよ、よろしくね」と挨拶していた。
「よろしく……」
ギリギリ彼女に聴こえるかという声で、トーマも挨拶を返した。
ゼニクルスは腹を出して寝ている。
「トーマね、なんでうちのギルドに入る事になったんだ?」
「行き成り秀さんが家に来た。あの人やばいよ、姉さんを総合ギルドの職員にした挙句、戦闘職ですら無い僕に自分のギルドに入れだもん」
「あはは、それは多分うちのギルドの人は皆思ってるよ」
頬を掻きながら、秋渡はそう答える。
その表情はしかし、言葉とは裏腹に不満がある訳では無さそうに笑っている。
「でも、凄い人だよ」
海の景色が反射した奇麗な目で、秋渡はそう続けた。
「そっか……」
その日の釣りの成果は結局ダンジョン外でも釣れる魚数十匹だった。
それから一ヵ月程の時間が流れた。
「てか、いつまで釣りするんだよ」
「僕に聞かないでマスターに聞いてよ」
この一月、彼らは毎日第一階層の沿岸やって来て釣りを続けていた。
釣れるのは基本的に外にも生息している魚、それと稀に見た事も無い奇妙な魚が釣れる。
後は漂流物なのか、変な物が釣れる。濡れて使い物にならない紙が釣れた事もある。後で鑑定に掛けてみれば、それは鑑定紙の成れの果てだったようだ。
「まあいいじゃないですか。戦い戦いじゃ疲れますし、休暇だと思えば」
「確かに」
朝陽が上り、ダンジョンに入り、陽が沈むまで釣りをする。
ダンジョンへの立ち入り制限にトーマが引っかかるので、ダンジョン内へ運ぶ役目はゼニクルスが担っている。
ただ、それは受付を通せないだけで天空秀によって迷宮都市の管理委員には話が通っていた。
しかし、こうも様変わりしない毎日が続くと高校を卒業したばかりの青年たちには少し退屈に感じられてしまう。
モンスターも一日に5,6匹程度しか現れないので肩慣らしにもならない事が多い。
「あ、レベル上がった」
職業本を確認したトーマがそう呟く。
【釣人】という戦闘系とも生産系とも違う第三種類のクラスに覚醒したトーマには、採取によってレベルが上昇するという特性が備わっていた。
ただ、ダンジョン外での採取は一切効果が無くそのレベルアップ方法はダンジョン内でのみ有効の様だ。
この一ヵ月毎日釣りを続けた事で、レベルが5から一気に30まで上昇している。
ただ、強化率や生産系とほぼ同等で戦闘系の足元にも及ばず、スキルに関しても戦闘に役立つような物は一つも無かった。
―――
トーマ 11歳 男
クラス『釣人』
レベル『30』
体内魔力量310
身体強化率310
スキル【釣り7】【図鑑5】【収納3】【幸運1】
―――
これが現在のトーマのステータスとなっている。
「幸運ってなんだろ……。何かいい物でも釣れるのかなっと」
そんな言葉と共に釣り竿をしならせ海へ針を放り入れた。
釣りスキルの練度が上がった事で、釣り竿の扱いには慣れて来た。
毎日繰り返したその余裕から、このダンジョンに来る前に天空秀に言われた「もし自分だけの腕力だけで釣れそうにない奴が掛かったら手伝ってもらえ」という言葉の事などとうに忘れていた。
しかし、いやでもその言葉を思い出すに至る。
腕が折れそうな程の強力な力が竿に掛かったのだ。
「秋渡、手伝って!」
今まで聞いたことも無いほどの声量でトーマは叫ぶ。
「任せろ!」
それに応える様に、すぐさま秋渡も竿を握った。
レベル80オーバーの探索者の腕力はステータスを持たなかった時代の人類に比べれば圧倒的だ。
そして釣人のために作られた最高峰の釣り道具、そして【釣り7】という技術スキルが合わさり、心技体の全てが揃い獲物が釣り上げられる。
「おぉおおらぁあああ!」
「くっ!」
2人が一気に竿を引き上げたその瞬間、今までの魚とはサイズからして明らかに違うそれが空を舞った。
それは巨大な『ウミガメ』だった。