ホワイトデー小咄
完全に油断していたのだ。そんな、まさか、そういうことを言ってくれるなんて思っていなくて。
『今夜、少しだけ会えないか?』
そういうメッセージが入っていたのに気づいたのは3月14日の夜。兎美は既に予定を入れてしまっていた。
「……あぁ……うぅ……。」
呻いて机に突っ伏すと、弟の弘樹がぎょっとしたようにこちらを見てくる。
「な、なんだよ姉ちゃん。気持ち悪。」
今日は弘樹が料理の練習をするというので、味見相手として実家に呼ばれていたのだ。2人の兄である瑞樹はそこそこ腕のいい料理人で、喫茶店経営をしている。弘樹もそれに憧れて、料理の道に進みたいらしい。
「あ、ごめん。なんでもない。」
「……それにしてはめちゃくちゃ落ち込んでるじゃん。何?兄ちゃんに怒られたの?」
いや、と曖昧に否定すると怪訝な顔で見られる。口に出すのは恥ずかしすぎるので、本当になんでもない、と弘樹に言い含めて兎美は忠直に返信した。
『ごめんなさい。今日は実家に帰っているので会えません。すみません。』
勢いで謝罪の言葉を2つも入れてしまう。本当はすごく会いたかった。約束をしたはいいものの、1月以来全く顔を見れていないから。
(今、ナオさんすごく忙しいんだよな。)
そんな彼が自ら会おう、と提案してくれたのに。しかも今日はホワイトデーなのに。
忠直は律儀だ。たとえ義理であったとしてもそこそこのお返しを用意するタイプ。わかっていたのに、なぜか頭からすっぽ抜けていて。
(私の馬鹿……。あの人がそういうところ、ちゃんとしてるって知ってたのに。)
また机に突っ伏す。なんとも元気が出ない。それを弘樹に見られて今度はわりと本気で心配されてしまった。
「姉ちゃんの辛気臭い顔珍し。……これやるから元気出せば。」
そう言って彼が冷蔵庫から持ってきたのはプリン。手作りのようで、生クリームが上に乗っているスタンダードなカスタード。
兎美はパッと顔を明るくした。
「これ、弘樹が作ったの?」
弘樹は素直に頷いて、自分も席に着く。しかし、兎美の反応を見るまでは手をつけない。いつものパターンである。
「……美味しい!また上手になったね。」
瑞樹ほどではないが、以前作ってくれたものより滑らかで美味しい。生クリームも甘すぎなくて、兎美の好きな味だった。
「その反応、兄ちゃんにはまだ勝ててないんだろ。」
むぅ、と目を伏せつつ嬉しそうな弘樹。兎美もつられてニコニコした。わざわざ姉の方を呼びつけて、こうして成長具合を確かめる弟は可愛らしい。
「あら、もう食べてたの?弘樹、お母さんの分は?」
後ろから声をかけられて振り向くと母親がいた。彼女は冷蔵庫へ向かう弘樹を見ながらニヤニヤしている。
「これね、あんたに弘樹からのホワイトデーだって。」
こちらに向かってきていた弘樹が固まった。兎美は思わずそんな彼を見つめる。
「毎年毎年、兎美が送ってくるからたまには返したかったのよ。ね、弘樹。」
「……うるさい。」
弘樹はキッと母親を睨みつけて、兎美の方を見ないようにして自分のプリンを持つと、ソファの方に行ってしまった。照れているのだ。
弘樹の座っていたところに母親が代わりに座る。そして、今度は兎美の方をニヤニヤしながら見た。
「兄弟以外にあげた、好い人できてないの?」
いない、ときっぱり言おうとしたのに、ちょうど通知音。兎美は思わずボトッと口に運ぼうとしていた一口分を落としてしまう。
「あら、あらあらあらあら!」
「ち、違う!違う!!」
慌ててテーブルをティッシュで拭いて否定するが、母親は興味津々というように言った。
「今日、帰ってきてよかったの?彼氏さん寂しがってなかった?」
「彼氏じゃないから!」
兎美はあ、と固まる。完全に墓穴。母親がニヤッ、として、弘樹が気にしていない体を装って耳をしっかりこちらに向けているのがわかった。
「何もらったの?」
揶揄う気満々の視線は無視してプリンに集中する。話したら最後、写真見せろだのどこで出会ったのだの、うるさくなるのは目に見えている。
「お返しって意味あるとか言うじゃない?ほら、飴は“好き”とかマシュマロは“嫌い”とか」
「本当にそういうんじゃないから、やめて。」
自分で言いながらウッと心臓に刺さった。そういうんじゃない。わかってはいる。
母親のふぅーん、という視線をなんとか躱しながら通知を確認した。予想通り忠直だ。
「……私、お風呂入る準備するから。」
画面を見た兎美は立ち上がって、逃げるように2階の自室に入った。
『わかった。』
淡白な返事。いつもならそこで終わるのに。
『時間があるなら話したい。』
なんて送ってくるから。
(『大丈夫です。今からですか?』……あ、今から、か。『了解です』、と。)
そう送るとすぐに電話がかかってくる。内心ドキドキしながら、声が裏返らないように息を整えて。
「もしもし、旭です。」
彼が電話の奥でフフッと笑ったのがわかった。
『もしもし。永坂ですが。』
「か、揶揄わないでくださいよ。つい、名前言っちゃったんです。」
『悪い。電話に出てくれたのが嬉しくて。』
思わず携帯を取り落としかける。彼の声がとても高揚していたから。
『ホワイトデーのお返しをポストに、と思ったんだが、瑞樹さんが預かってくれた。明日受け取ってくれ。』
「あ、わざわざありがとうございます。」
『どういたしまして。……用件はそれだけなんだが。』
「…………。」
『…………。』
「……?どうしましたか?」
『悪い、まだ時間あるか?』
「ありますよ。実家には、ただ顔を出しに来ただけのようなものなので。」
『そうなのか。……それなら、少し話がしたい。』
「何か、ありました?」
『いや、そういうのではなく、他愛のない話をお前としたかったんだ。』
期待してしまうのに、彼はそういうことを濁さないのだ。
「……お返し、何を選んでくれたんですか?」
『言っていいのか?』
「やめておきます。楽しみにしてますね。」
『そうしてくれ。喜んでくれると嬉しい。』
そんなふうに他愛無い話が続く。知らぬ間に口元が緩んでいて、忠直に確認を取られるまで何時間経っているのかも意識していなかった。
『付き合ってくれてありがとう。悪いな、遅くまで。』
「いえ。……た、楽しかったです。」
『……そうか。次、会えるのは4月になるな。楽しみだ。』
「私も、です。」
『じゃあ、おやすみ。』
「おやすみなさい。今日はありがとうございました。」
ピッという電子音とともに電話は切れた。名残惜しくて画面を見つめてしまう。
(話したい、くらい、友達相手でもよくあることじゃない。……意識しちゃ駄目。)
電話越しの彼は、いつも通りを崩さなかった。特別な人に向ける声色ではなかったはず。お返しついでに比較的仲の良い友人と話したくなっただけ、と考えた方が身のためだとわかっていた。
「……でも、楽しかったなぁ。」
ぼすっとベッドに体を預けて丸まる。心臓が落ち着くまでは何をする気にもなれなくて、ただ彼とのやり取りを反芻していた。
翌日、瑞樹からホワイトデーのお返しを受け取った兎美はドキドキしながら家に帰った。
小ぶりな紙袋の中に入っていたのは。
「……飴?」
個包装の丸いお菓子。見たことがないものだった。
『飴は“好き”とかマシュマロは“嫌い”とか。』
ふと、母親の言葉を思い出してしまって兎美は真っ赤になる。
(ナオさんはそんなこと考えなさそうだし。そもそもこれ、飴じゃなさそう。)
紙袋から取り出して、袋を丁寧に開けた。一旦中身を全部出してみると、色とりどりのそれはいくつか種類があって、包装も可愛い。
そして、よく見ると商品の紹介のカードのようなものが一緒に入っていた。
「干羹?」
砂糖を纏った寒天のお菓子。和菓子の一種らしい。口に入れたときは固いのに、舐めて砂糖が溶けるとシャリ、とほどける。上品な甘さとほんのりとした果物の風味。
「美味しい。よく、知ってるなぁ、こういうの。」
一緒に入っていたメッセージカードには。
『いつもありがとう。喜んでくれたら嬉しい。』
淡白な言葉だけ。でも兎美の心臓は高鳴った。忠直の字だ。肉筆ということと、わざわざ添えてくれる律儀さが嬉しい。
(……素敵な人。和菓子にしてくれたのは、たぶん洋菓子は兄さんので食べ慣れていると思って、気を遣ってくれたんだろうな。)
そう考えたとき、もしかすると、と思って携帯を取り出した。
『お返し、ありがとうございました。すごく嬉しいです。』
そこまでは普通に送れる。でも、知りたいのはその先。
(わざわざこうやって、和菓子にしてくれたり、メッセージカードを入れてくれたのは私だけですか?それとも、他の人にも?)
もしかすると、自分は彼の『特別』かもしれない。でも違ったら挫けてしまいそうで。
(……やめておこう。もし、もしも本当にそうだとしても。)
期待したって、自分は。
『4月に会えるのを楽しみにしています。』
淡白にそう続けて、兎美は机に突っ伏した。
「ナオさんって、モテるんですね……。」
徒歩圏内にある居酒屋で、兎美はもうそこそこ酔っていた。隣に座る忠直の部下・宵人は先ほどからそろそろペースを落とせ、と水を頼んでくれていた。
「そうですね。そこそこ。ホワイトデーもちゃんとしてましたよ。」
兎美はうぐ、と縮こまる。宵人からバレンタインからホワイトデーにかけての話を聞いて、すっかり意気消沈してしまった。わかってはいたが、やはり自分もチョコを渡した不特定多数の1人であったから。
今日は兎美から宵人を誘ったのだ。忠直のお返しは本当に嬉しくて、あの電話のことも嬉しくて、誰かに話したいところにちょうど捕まってくれたから。
「旭さんは何もらったんですか?」
「干羹っていうお菓子です。食べるのがもったいないくらい可愛くて美味しくて。」
兎美はにへら、と口角を緩めて宵人を見た。彼はその言葉にへえ、と悪戯っぽく笑う。何か知っている顔。問い詰めるまでもなく、彼は話してくれた。
「忠直さん、メーカーとかは変えるんですけど、大抵ラスクとかクッキーとかですよ。干羹なんて初めて聞きました。」
兎美の頰がパッと染まるのを見ながら宵人はニコニコする。その脳裏に、数日前の上司の様子が浮かんでいた。
「相変わらず律儀ですね。なんで俺たちの分まで用意するんだか。」
最早呆れたように一巳が言う。今年はクッキーだった。いいやつはほろっと崩れるような食感で美味しいのだ。
「もののついでだ。いらないなら返せ。」
返す気はないらしく、一巳はニヤリと笑みを返して口の中にそれを放り込む。宵人も受け取ったそれを見つめて微笑んだ。ちゃんと、お返し用よりは素っ気ないものになっているのがまた。
「主任はお返しの意味を知ってらっしゃるんですね。」
杷子が忠直から受け取ったそれをしまいながら言う。一巳はピンときていないようだったが、宵人はわかるので揶揄うような視線を忠直に向けてみた。
「ああ、一応な。昔それで後輩を泣かせたことがあって。」
後輩に何も考えずにマシュマロを渡してしまって、数日避けられたという話をしていたことを思い出す。その経験に今でも気を遣っているのは忠直らしい。
「……御厨、その目をやめろ。」
視線に気づかれた宵人は忠直の方に少し寄ってから尋ねた。
「じゃあ旭さんには飴とか?キャラメルとかマカロンも結構いいんですっけ?」
仲の良い女性職員が今日、そういう話題で盛り上がっていたのだ。渡してきた相手が意味を知ってるでしょ、知らないでしょ、という攻防戦は傍から見る分には面白かった。
「お返しはするが、そこは考えていないよ。そういう手段でそれを伝えるのは少し卑怯な気がして好きじゃない。」
忠直がさらりと吐いた言葉に、その場の全員が目を見開く。それは、つまり。
「へぇ〜?大事なことはその口で言いたいとか、そんなクサいこと言うんですか。」
一巳の揶揄いには乗らず、忠直は微笑んだだけで立ち上がる。
「歓談は楽しいが、余裕のない上司なんでな。早岐、この前の一件の報告書、俺にも回しておいてくれ。外出してくる。」
全員の視線を躱すように、彼は事務所を出て行った。
なんてことがあったりしたのだが、隣に座る兎美は苦悩しているようだ。
(どっちかが押せば簡単にころっといくんだろうなぁ。)
そろそろやばいな、と兎美のグラスをしれっと水のグラスに入れ替える。今日の彼女は緩んでいて、ともすれば潰れかねない。
「まぁ、恋愛なんて駆け引きが楽しいところあるしな。あんたらが楽しそうなら俺はなんでもいいよ。」
兎美のことを怖い人だと思っていた時期があった。彼女の『力』は濃ゆくて、圧倒されるほどに強い。だけどそれをおくびにも出さずに平気な顔をして『異能』を使う彼女は異質だ。
それでも今、隣に座るこの女性は普通に恋をして、酒に酔う人間なのだ。
「旭さん、そろそろお開きにしましょう。イヤイヤじゃありません。ほら、お水飲んで。」
水を飲ませた彼女はすごくにぱにぱし始めた。頰が緩んで仕方ないようだ。この酔い方を初めて見た宵人はぎょっとする。
「あんた、そんな酔い方したことなかったじゃないですか。どうしたんです?」
答えてくれるかどうかはわからないのに思わず尋ねていた。
「ナオさんは、すてきなんですよ。」
返ってきたのは蕩けた声。彼女はたぶん夢現の状態。
「抱っこもおんぶも、ぎゅーってされたくなります。あったかくてほわほわするんですよ。」
そう言って抱き着いてこようとするので、避けて支えるだけにする。そういうのは忠直相手だけにしてほしい。
「わたし、今日すごくゆるんでて、だめですね。ナオさんがからむとわたし、だめになっちゃいます。」
もういっそ録音して送りつけてやろうか、と思うほど。その口からとろとろと流れ出る想いは甘ったるかった。
「……はぁ。旭さん、ちゃんと立って。はい、荷物持って。あんた結構軽いんですから、ちゃんとペース考えないと変な男に持ってかれますよ。……トイレ?はいはい、行っておきましょうね。」
ため息をつきつつ苦笑する。彼女が今日こんなにも緩んでいたのは自分の上司に緩まされたから。
会計を済ませて店を出る。楽しそうに隣を歩く彼女の顔は相変わらずにぱにぱしていた。
「今度からひどく酔いそうなとき、あんたの大好きなナオさん連れてきますからね。……旭さん、あなたのお家はあっちです。そっち忠直さんの家。こら、抵抗しない!」
軽く嗜めると、不満そうな目に睨まれる。
「みくりやくん、お母さんみたい。」
「手のかかる子どもなら可愛いんですけどね。兄貴と同じ年齢で、上司の好い人はさすがに。」
やれやれ、と首を振ると、兎美は楽しそうにお母さんと言い始める。
「お母さん。」
その言い方はこちらを呼ぶようだった。宵人はため息をつく。
「なんですか。」
諦めて応じると、少し切なそうな顔をした兎美と目が合った。
「ナオさんに、会いたかったなぁ。」
あまりにもしみじみと言うので、宵人は思わず微笑む。
「あんたが望むなら、いくらでも。大丈夫ですよ、旭さんは忠直さんの特別な人です。」
どうせ次の日には覚えていないだろうから。そう思って深く考えずに言ったのに、兎美が心底嬉しそうな顔で笑ったので、面食らう。
(……さっさとくっつけばいいのに。)
せいぜいそれまで、変な男に持ってかれないように、惚気酒と愚痴酒くらいには付き合ってやるか。宵人はまたため息をついて、彼女を家まで送り届けるのだった。