あすはざくら
隣を歩く友人はほんの少し、おかしくなっていた。
身を取り繕うという気配りもすでになく、剃り残した髭が転々と見え、半端にズボンに突っ込んだよれよれのシャツが半分はみ出ている。
髪もぼさぼさで、べったりとしている。
疲れ切った様子で前に向かって黙々と上に向かって歩いていく。
登山の途中で俺達は迷った。
雪の降る地域ではないことが幸いして、すぐに命にかかわることはなかったが、夜になれば冷え込むのはわかっている。
急いで道を見つけなければ。
周囲の樹木はすべて明日葉桜。葉が落ちきって、見通しはそう悪くないが、木々の密度が高く、遠くまで見渡せない。
こんなに群生しているとは知らなかった。
木々の先には蕾がついている。咲いたらさぞかし、良い匂いがするだろう。
この木々は桜と名付いているが、金木犀と同じ科で、偽染井とも呼ばれる。
早く山頂に辿り着きたいのだが、なぜか遠く感じる。斜面をずっと歩いているから上につくはずなんだが。
代わり映えしない偽物の桜の木々が並んでいるせいだろうか。まるで同じところをぐるぐる回っているような錯覚に陥る。
セーターの上にウインドブレーカーを着用しているだけの俺も、シャツにジャンパーをはおっているだけの坂田も、このまま夜を迎えたら凍死しかねない。
「坂田」
「ん?」
「もう少し、急ぐぞ」
「うん」
疲れたように坂田は頷く。
こいつはいろいろあって、生活自体に疲れていた。
リストラされたのだ。それも上司と同僚にさんざんいびられて。退職金もろくに出なかったらしい。
職安にいってもまだ仕事が見つからず、しばらくはアルバイトをしようかと思うところまでいったが、新しい対人関係にひどく怯えるようになってしまって、俺がフロムAとアルバイトニュースを買っていってやったら、吐いた。
気分転換に誘った登山だったが、あまり転換にはなっていない。
会社を辞めさせるにしても、ここまで人間を追い詰めることはないだろうに。
大学時代はもっとハキハキとして、強い奴だったのに。
坂田はふっと顔を上げた。
「桜が咲いてる」
「桜じゃなくて、よく似た別の花だ。こいつはバラ科じゃなくてモクセイ科なんだよ。って、聞きやしねーか」
言ってて自分で自分の説明がうるさかった。
良い香りがした。桜では絶対にしない芳香。
坂田はふらふらと香りに向かっていく。
あいつがこうして何かに興味を持って自分から動いたのは久しぶりだったので、俺は止めずについていった。
二十分も歩くと、亀裂の入った塀に当たった。
古い寺院のようだ。
手持ちの地図を開くが、こんなものは記載されていない。
木造平屋建て。
寺院は小さく、庭だけが広い。古い日本の建築物としてはありがちな配分だった。
庭に生えた一本の早咲きの、偽桜の下で、尼僧たちが花見に興じていた。
「すいません」
亀裂をまたいで、俺達は中に入る。
「道に迷いました。下山したいんですが」
彼女たちに驚いた顔をされてしまった。
頭を剃り、桜色の布で額もうなじも隠している。衣服は黒く、よく言う袈裟というやつを全員身につけているので、みんな同じような顔に見えた。
「それはお困りでしょう」
尼僧は言った。
若いな、と思う。
それが俺にはラッキーというより、怖さを感じさせる。
山奥の小さな尼寺。
最年長の尼僧すらどう見ても四十代半ば程度の、品の良い静かな女性だった。一番年が若く見える尼僧は二十代の半ばか、後半。
そんな彼女たちが剃髪し、俗世を避けてこんなところにこもっている。
いずれも大人しやかな容貌で、普通とか、一般的である。こもる決意をするほどに、悪いわけではない。むしろ美貌だ。
もったいないと思うよりも先に、便利な生活を捨てて出家する彼女たちが所持する過去の業の暗さやおぞましさが鬱々とつもって明日葉桜を咲かしているような気がして、背筋が寒くなる。
坂田は花の香気に惑わされて、尼僧など見ていなかった。
白い花弁が発達し、薄く広がる。四枚の花弁がひらひらと落ちることはなく、花の根本からふらりと落ちる。
馥郁たる香。
実ることのない花。
雌雄異種株で、雌株しか輸入されていない明日葉桜。雄株は中国大陸までいかなくては手に入らない。
この花々は無意味に咲くのだ。無駄に咲くのだ。
「気に入りまして?」
坂田は尼僧の言葉に頷く。
「桜を綺麗だとしみじみ思えたのは、何年ぶりだろう」
「これは桜ではございません」
尼僧達は静かにしかし強固に言った。
「これはあすはざくらと申します。ですが、桜という花がこんなに人に媚びるまでは、早く薫る雪と書いて、早薫雪と呼ばれておりました。明日は桜になろうなどとは、微塵も考えてはおりませぬよ」
誰が喋っているのか、俺にはわからなかった。六人の尼僧達はまるで根が一つで有るかのようだ。
「下山は明日の昼になさった方がよろしいでしょう。夕暮れの薄闇で惑われるでしょうから。早春と名付けられてはいても、いまだ日の入りの早さは落下するよう」
「そう、ですけど」
ここに泊まるのが嫌で早く出ていきたかったが、確かに暗くなってからまた道に迷ったら危険だ。坂田は半分、鬱っぽいし。
「坂田」
「あ、うん。僕はここで、この花を見ていたい。綺麗だなあ。はなびらが白くて、薄くて、向こうの少し赤くなってきた空が透けて見えるようだよ」
目の焦点がしっかりとして、顔にわずかに生気が戻ってきた。
俺はほっとした。
「夜露をしのぐ程度の軒はございますわ。遠慮なさらずに。ただ、一つ、お頼みしたいことがございます」
「なんですか?」
「あなたさま方が通っていらした、壁の破損部」
「亀裂のことですか」
「亀裂などという生やさしいものではございませんわ。そこに板を打ち付けてくださいませんか。明日の朝でかまいません。やはり、こうも殿方が簡単にお入りになれてしまうのは、困りますもの」
それもそうだ。
「山奥なので、安心しきっておりました。こんなはしたない格好で、失礼を」
皆きちんと着物を着て背筋を伸ばし、茣蓙に正座をして花見をしているのだからはしたないところなどないのだが、彼女たちは頬をわずかに桜色に染め、乱れてもいない襟を正した。
清潔な短い爪が袖から見える。
「冷えてしまいますわね。さっ、中にお入りになって」
明日葉桜の香りが濃厚に漂う。
木のぬくもりの廊下は素足にはちょっと冷たいが、ぎしぎしという音は立たない。
好きに使っていいと用意された部屋は板の間の、四畳半程度のなんにもない部屋だったが男二人が眠るだけなら上等で、しかも小さな窓からは咲いている明日葉桜が見える。
尼僧の一人が藁編みされた座布団らしいものをわざわざ二つ持ってきてくれて、大きな毛布を俺達に二枚ずつ使ってくれと置いていった。
この部屋は冷え込みそうだ。二枚毛布を敷いたら二枚を上からかけて、その上にジャンパーとウインドブレーカーをかけて二人でひっついていればいいかと思う。
「綺麗だな」
坂田が呟く。
まあなんであれ、綺麗なものを綺麗だと感じられるようになったのだからよかった。
夕日が落ちて、月が出る。
しんしんと冷たい空気が窓から忍び込み、吐く息が白い。
「いい加減にしとこうぜ」
「うん」
月が白かった。
ランプの火。簡易のガスコンロで火を興して、コーヒーを沸かす。
「ほら、坂田」
「うん」
持ってきた非常食用の缶詰と、酒と、つまみの菓子で適当に夕食にする。
あれから尼僧達はやってきていないが、俺はそれでよかった。なんとなく、彼女たちがこわかった。
荒れた寺院に出る女とかって、たいてい人食いの魔物だったりする。道に迷った旅人を食べてしまうんだ。彼女たちがそうだとは言うつもりはないが、似合いすぎていて、はまりすぎていて、怖いのだ。
月は満月に近かった。光量は十分で、亀裂というか破損部の向こうに群生する明日葉桜が見える。
枝先が真っ白だった。
「咲いてる・・・・・・・」
吹いた風が濃い香りを運んでくる。
上着を羽織り、坂田が飛び出す。
「おいっ」
花が咲き乱れている。美しいと呼ぶよりも怖いほどの非現実さ。
天に向かって伸びた枝に、一塊りになって咲く明日葉桜。
尼僧達が偽の桜の下で手招きする。
日にさらされたことがないような、純白の手。木々の幹を剥ぎ取って中をみたらきっとこんな色をしている。爪だけが桜色に血の気を映し出している。
その手が坂田にからみついた。
「おまえら、尼さんだろうっ」
彼女たちは匂い立つように笑うばかりで。
明日葉桜の美しさと毒々しいまでに放たれる薫香に酔っているのか、坂田は無抵抗に尼僧たちの中に崩れ落ちる。
肌寒い中で彼女たちは衣服を脱ぎ、坂田にからみつき、俺にも「おいで」と声をかけてきたが、全身がすくんだ。
俺はここにはいない最年長の尼僧の姿を求め、屋敷の中を駆け回る。
「あんたらは、尼さんだろうっ」
見つけた尼僧に俺はさっきと同じことを言ったが、彼女もまた笑む。
「好きで尼になったわけではありません。老いて諦めた私はともかく、若い者たちはまだ未練もありましょう」
「なら、山を下りればいい」
「おりられませぬ」
「なんでだよっ!」
「我らは望まずに、ここにいて、望まずに、無意味に散っていくのでございますよ。無理矢理にここに置かれ、ここから出ることもできずに死んでいくのです」
鬱々とした悲しい声で。
「もういいっ」
「ああ、そうか。この早薫雪は尼僧さん達に似ているんだ」
ぼんやりと坂田が呟く。
あの寺を朝早くに俺たちは抜け出して、明日葉桜の中を歩いている。
風に吹かれ花がまるごと落ちてきて、地面は白く染まり、踏むたびに甘い匂いが立ち上る。
「坂田。忘れろ。あいつら、おかしい」
坂田は足を止めて、俺を見た。
「坂田っ」
「ごめん。僕もおかしい。君が気にしてくれるのは嬉しいし、こうして気を使ってくれて申し訳ないと思うよ。でも、僕はもう、君以外の人間とはまともにつきあえない気がする。僕は君の負担に、なるよ」
「かまわねえって言ってるだろっ」
坂田は笑む。それはすっかり、あの尼僧たちの笑みと同じだった。
「君だけは」
「僕に会いに来てくれ・・・・・・・・・・・」
坂田は花の向こうに待つ尼僧達の中に戻っていく。
「僕に会いに来てくれ・・・・・・・・・・・」
それっきり、だった。
山中でしゃがみ込んでいた俺を山岳救助隊が見つけて、下山し、その捜索費用の馬鹿高い金額はそのまま借金になった。
一年、二年と日は過ぎて、やっと借金の精算が済んだ頃、俺はまたその山に登った。
今度は春だった。
いくら聞いても尼僧だけの寺などなく、あの明日葉桜の群生林など知らないと言う。
だから、自分で登った。
花は終わっていた。
どの枝も赤い実がなりかけている。
明日葉桜の実など、初めて見る。
あの最年長の尼僧が寺跡に立っていた。
「坂田は元気ですか」
「ええ」
「なら、いいんです」
「あなたはこちらにいらっしゃいませんか」
「いかない」
「そうでしょうね」
尼僧は赤く熟れた種を俺に手渡した。
周囲の花が再び咲いた。
そんななかで、黄金色の花粉がほんわりと飛んで来て、俺はそちらを見た。
「どうか」
尼僧は俺の背中に向かって言う。
「その種が発芽しましたら、雄株なら、ほかの群生地へ。雌株なら、故郷に戻してやってくださいませんか」
俺は明日葉桜の雄株の幹に手をついた。
「来たぜ、坂田。でも、もお、これっきりだな」
呟くと、香気がからみついてきた。
「僕に会いに来てくれ・・・・・・・・・・・」
「喋れねーんだもんな、もう。幸せで元気なら、もういい。気にしねー」
俺達は早薫雪を香りが良く見栄えも良いからと、雌株だけを輸入して群生させ、名前まで変えてしまった。
あの尼僧たちが鬱々として花を咲かせたのではなく、早薫雪の深い嘆きが尼僧になった。
そして。似たような鬱を持っていた、坂田が取り込まれたのだ。
「僕に会いに来てくれ・・・・・・・・・・・」
俺はもう、あそこへはいかない。




