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星の動いている音が耳の奥に聞こえてきそうなくらいにしんとしている真夜中。七月とはいえ、放射冷却の恩恵か、多少の肌寒さを感じつつ、帰り道を急いだ。
言語化することに何の意味の無いとは思うが、私自身に深夜徘徊の趣味はない。この奇行には大きな理由が存在する。それは「住民」としての義務、納税である。水瀬では毎月二十日に住民税の締め切りが設けられている。いつでもどこでもが信条のようで、水瀬に店を構えるすべてのコンビニエンスストアで収めることができる。私も終業式の帰路に寄り道を考えていたのだが、川北との邂逅により、すっかり飛んで行ってしまっていた。それに気づいたのが、午後十一時。まだに駆け込み納税である。
繁華街ならともかく、この辺りはさぞ健康的な生活が営まれているようで、ほとんどの家の明かりは消されている。通りも人の気配、獣の気配すらしない。蝉の一匹や二匹ぐらいが私のわびしい行軍につきあってほしいと思うのは、きっとわたしのエゴイズムだ。蚊すら寄り添ってくれない。
大体、「知る」とは、ある現象を広く隅々まで自分のものとすることだという。例えば、私が寸前の暗黒の正体に疑問を抱き、それを暴こうとするような。
それは、この地域では少しばかり名を売った、絵画教室の前にいた。その絵画教室では、玄関先に飾る作品を生徒の中から選ぶ。まさに今週のMVPの発表会というわけだ。それは週替わりで変更され、「七日間天下」の人もいれば、「七〇日天下」の人もいる。今飾られている作品は、これで少なくとも二〇連続防衛を果たしているといえるだろう。今週の絵画は確か……、
「遭遇だっけ……」
記憶が間違いでなければ、そのようなタイトルだったと思う。嫌味なぐらい、今のシチュエーションにお似合いの作品である。
さて凝らしてみると、それは単純な人型ではなく、まるで人間が黒いシーツを被り、そうあたかもハロウィンにおけるゴーストの仮装をしているようだ。そして、その表皮には灰色の塊みたいなものが縦横無尽に駆けている。もっと目を細めると、それが夥しい数の漢字であることに気づいた。「疑」「何」「誰」「惑」「不」「誰」「何」「疑」「疑」「何」「誰」「惑」「不」「誰」「何」「疑」「疑」「何」「誰」「惑」「不」「誰」「何」「疑」「疑」「何」「誰」「惑」「不」「誰」「何」「疑」「疑」「何」「誰」「惑」「不」「誰」「何」「疑」「疑」「何」「誰」「惑」「不」「誰」「何」「疑」「疑」「何」「誰」「惑」「不」「誰」「何」「疑」「「疑」「何」「誰」「惑」「不」「誰」「何」「疑」……。蟻の大群だ。砂糖を見つけ、一気に集る蟻。獲物となる昆虫を熱で頃さんと集う蟻だ。
……いやいや。冷静に分析している場合でない。おさない、走らない、しゃべらない。あ、これは地震の時の標語である。最近は「戻らない」が仲間入りしたというが。いや、これは現状にはふさわしくないだろう。どちらかといえば、そうだ。「いかのおすし」だ。きっと、関与しないことが大前提のスローガン。
つまり、この場合の選択肢はただ一つ。「何も話さずに逃げる」。ただそれだけだ。熊や蜂と相対するかのように、ゆっくりと後退り。足元の小石がとても大きく、耳障りだ。手がべっとりと汗で塗れる。犬のような息遣いが、気持ちが悪い。
たっぷりと三分間はかかったと思う。ようやく距離にして五メートル。遠回りになるが致し方ない。
「ねえ」
止せばいいのに、振り返ってしまった。
相変わらず黒いシーツを被った物体。ただ人の目の位置が丸く赤く光っていて、目が合ってしまった。いや、どんどんと輪郭が明確になってきたように感じる。
これはまずい。情報量こそが人間を形成するんだ、という知り合いの声が警戒音として脳内に響く。私が見たり聞いたりして蓄積された認識量が、あれの存在に直結する。幽霊やお化けが見える人に集うのと同じ原理だ。私たちは、自らが認識したもので構成されている。認識さえクリアーしてしまえば、それは他者からの承認をそれ自身の情報量として還元できるのである。
「ねえ、ボクは誰だと思う?」
馬鹿だなあ。これと関わらなくてもきっとこれは他の誰かとつながり、認知度を高められるはずだ。私がしなくても、きっとヒーローは現れる。むしろきっと、これは助けてはいけない類の奴だ。それでも……それでも、私は明日殺処分されることがあっても、「今」この一瞬を生きてほしいと思う。なんとなく、思ってしまうのだ。
「君は自分を何者だと思っているの?」
「ボクですか?……あなたが規定してください、大藤さん」
どうして名前を?という疑問が刹那脳内をよぎったが、そんな些細なこと大した問題ではない。
「私が?」
「ええ。大藤さん。ボクではなく、あなたが決めるんですよ」
気づけばそれはすっかり人の形へと変貌を遂げていた。どこにでもいそうな少年の姿になっていた。数多ある文字はその存在を消去させ、かすかな月明かりでは、全く確認することができなくなっていた。一見すれば、ごくごく平凡な同年代の男の子のようだ。
「じゃあ、巷で噂のポイント強盗ですか」
ほとんど無意識下レベルでの発言。覆水盆に還らず、吐いた唾は飲み込めない。おお、私はこれに余計すぎる情報を差し出してしまったのでは、と当惑していると、
「勿論、違いますよ。大藤さん。ボクは、ポイント強盗ではありません。通りすがりの少年Aです」
「じゃあ、名前は?」
「本当はわかっているくせに、イジワルですね。まあ、ボクは今日とても寛大な気持ちなので、サービスしておきますね。ボクの名前は、黒島凩です」
「黒島?」
「ええ、ボクの名字は白島でもなければ、灰島でもなければ、青島でもありません。黒島です。大藤さんはよくご承知の黒島旋風のいとこにあたります。なにしろ、二学期からこちらでお世話になることになりまして……、学年ですが?ご安心ください。高二です。夏休み明けたら、隣の席だなんて古典的なドッキリを仕掛けるつもりはありませんよ」
「黒島凩さん」
「いやいや、大藤さん。いえ、訂正します。大藤先輩。ボクごときに敬称は不要です。ぜひ、凩とお呼びください。その方がきっと正しいですから」
「正しい?」
「そうです。大藤先輩はボクの先輩で、ボクは後輩です。人間社会の中で円滑に生きていくためにはボクが敬称をつけ、先輩がつけないというのが最も簡単で、かつ合理照り的です。それをボクは正しいと評価します」
「考えるのが、いちいち大変というか……大層だね」
「いやそんなことはありません。ご心配痛み入ります。ボクは自らの規定しているルールに基づいて行動しています。だから、むしろ先輩の十分の一さえも考えて行動していないと思いますよ」
自らのルールがある。そんなところは、いとこの旋風に似た思想が色濃くにじみ出ているようだ。あの人も、よくルールと口にしていたように思う。外見は違っても、中身は相似的ということか。
「じゃあ、凩登場の時から気になっていたんだけど、どうして凩は真夜中の道端であんな状態でいたの?どうやって、あれから人になったの?」
凩は、アメリカのホームドラマでよく見る、両の掌を肩あたりの高さに挙げるしぐさをして、肩をすくめた。若干下唇を尖らせたようだ。
「この世界の人間は、なぜか種と仕掛けがあるマジックを好む傾向がありますよね。ホント。わざわざ自らがだまされる低能な頭脳しか持っていないことを自分自身で振り返るためだけに、時間やお金を浪費するのだから、愚かだと思います。そのようなヤラセ劇を好む人にとっては、受け入れがたいものかもしれませんね。ボクの手品は、本当にタネも仕掛けもありませんから」
「どうやるの?」
「ここは、水瀬ですよ。大藤先輩。お忘れではありませんか。今も住民税ポイントを納めに行ったんですよね。ボケてます?水瀬には唯一無二の便利な代物があるじゃありませんか」
「……ポイント」
「流石、大藤先輩。ご明察です。この市では、ポイントによってあらゆることを為し得ることが可能です。ねえ、先輩。たとえ話で説明しましょう。いや、そんな怪訝そうな顔をしないでください。これがボクの癖、というルーティーンみたいなものなんです。現在ボク達がごくごく当然なこととして、言葉を操ります。それを後へと残し、広めるために文字というツールが発明されました。人の社会的な進化を考慮すると、自明の事柄です。個人でなしていた作業を集団で行い、なおかつ分担してやることで、合理性が追い求められました。あとは人力か機械かの違いだけです。ここで注目すべきは、人間というのは、自らの利益を増やし、子孫を繁栄を目指すために、グループあるいは社会というシステムを作り出す生物だという点にあります。高度に文明が発達した社会であればあるほど、システム化され、個人の意思は希薄になります。個々の意志など、システムエラーの原因にしかなりません。では、先輩。社会に入るためには何が必要だと思いますか」
「今、属している社会を捨てる覚悟」
「流石。敬愛すべき先輩。でもそれは、間違いではありませんが、正解でもありません。模範解答はその社会のシステム。つまりルール。規則。決まり。約束事です。憲法や刑法といった『法』と言い換えても誤解はないかと思います。人を殺してはいけません。これもまた立派なルールです。社会の構成員に、その社会の一員でいたと思う限り、その命を守ってもらえます。つまり、ルールを広く知らしめる必要があるのです。さてさて、そのような時に、いちいち口頭で伝えられますか?」
「紙で、配る?」
「そうです。先輩。ボク達には文字があるから、それができます。そしてそれを活用しない手はありません。なぜ、ポイントを活用しないのですか?」
考えてみた。例えば、少量の労力で自分が何でもできる能力を手に入れたと仮定しよう。少々の労力といっても、その場で足踏みを十回するとか、手回し充電木のハンドルを十回回すといった程度の労役だ。それをするだけで、学校までの道のりを瞬間移動できるとしよう。宿題が恙なく完了する。また、ごはんや洗濯といった家事も、気付けば全て完璧だ。果たしてそれを使いたいと思えるだろうか。
「ズル、をしているように思えますか?」
思考を察したような言葉だ。
「例えば、ボク達は遠くに出かける際、バスや電車を使います。これを不公平だと思いますか」
「いや」
「じゃあ、直接言葉を届けるのが億劫で、SNSで伝えるのはどうですか?」
「賛否両論あるんじゃないかな?私はどっちでもいいと思うけど。ただ、もし釈然としないものがあるとすれば、それはズルとかそういった代物では無くて。それに縋ると、失うものが多そうな気がして」
「失うもの?」
「うん、バスや電車を利用したって、せいぜい筋肉量を落とすだけだろうし、SNSなんて、逆に直のコミュニケーションよりも高度な技術が必要だよ。だって目の前にいない相手に向かって、言葉を放つんだ。反応だってわからない。表情が見えないまま会話をするんだから、言葉の裏や行間を読むスキルが無ければ、到底参加できないやり方だよ。でもポイントは違う。何でもできてしまうんだ。現に私たちの祖先は、海の中以外にも生息環境を拡大しようと求めて、肺を手に入れ、空気中の酸素をエネルギーへと変換する術を獲得した。だけど、その引き換えとして、それなしでは生きられなくなってしまった。酸素なしでは私たちは十分すら生きるのもままならない。ポイントだって、同じことになるんじゃないかな。失うものの大きさとかが分からないからこそ、安易に飛びついてはいけないと思う」
「んー。大藤先輩らしいっちゃらしい回答ですね。進化説を辿れば、ポイントこそが次の酸素となり得るのは既定路線なんですけどね。愚かという点において、極まることを知らないこの動物は、何度だって同じ轍に飛び込みますからね。『楽』をするということに対する嗅覚は、犬や猫、他の動物の追随を許しませんね。まあ、これ以上の論は、水掛け論に終始しそうでありますので、この辺りで幕を降ろさせていただきます」
「凩は博識だね」
「いえ、先輩が博識なだけですよ。ボクは何も知らないんです。それよりも先輩。警察に見つかってしまう前に一つだけ。ポイント強盗のことについて、言わせていただきたいことがあります」
「いいよ」
初対面で、真夜中に特異な形で出会ったばかり。おそらく一時間と経ていないのにもかかわらず。ここまでくだけた関係になるとは。思わず薄笑いが表情として浮かび上がってくる。屈託のない笑顔と快活さに緩んでしまったのだろうか。もしそれが彼の演出されたゆるさが要因だとするならば、脱帽だ。
「先輩はポイント強盗はお前か、とは仰いませんね」
「え、まあ……うん」
「先輩は、ポイント強盗の正体を知っているはずですよ。ポイント強盗の正体を」
「だから、ポイント強盗の正体です。敬愛する先輩は否定なさりたいのでしょうが、そうは問屋が卸しません。この可憐な弟キャラであるボクがあえて苦言を呈させていただきます。……先輩、よくこう言っているそうではありませんか。人は自分の見たいものしか見ないし、知りたくないものは認識しない、と。そうですよね。客観的な世界の存在何て、その哲学者にも証明することなどできません」
「凩は、デカルトみたいに神を登場させるの?」
「問題をすり替えないでください。先輩。ボクが今言いたいのは客観的な世界の証明方法ではありません。そんなこと哲学者に任せておけばいいんです。ボクが言いたいのはただ一つ。『逃げるな』ということだけですよ、先輩。見たいものだけにピントを合わせないでください」
「え?」
「先輩は、旋風さんに頼まれたんですよね?……では、誠実に向き合ってください」
「……うん」
「では、ボクはこの辺りで失礼します。必ず、当事者になってくださいね」
彼は去っていった。それがまさしく凩のようで、果たして本当に私は彼と会ったのかさえ不確かに思える。昔から胡蝶の夢という考え方があるが、どこからが夢でどこからが現実なのか、よくわからない。もしかすると、私は布団の中なんて……。頬を抓るという古典的な対処法はもう古い。痛みが脳神経の作用によって乗じるシグナルでしかないのなら、それを検証手段とするのはあまりにも稚拙だ。
それよりも、先ほどは聞き流してしまったっが、凩は「旋風」の名前をさも当然の如く口にした。なぜ、彼が彼女の名前を知っていたのだろう。いくら親戚だからといっても、情報が奪われた人の記憶など消去されているはずだ。つまり、私のような例外、ということなのか。それは彼も何らかの処分対象者だったということを意味してしまうということだが。




