#08 有川澄春の場合-8
「中総体まで進んだような砲丸投げ選手を、取られたと思われちゃったかしら……」
昼休み。
始業開始前に一旦それぞれの教室に別れた俺たちは、十二時のお昼休みの時間を迎えると、再び合流していた。
場所は学内にある食堂で、お互いに購入した昼ご飯を前に、向き合って話をしている。羽音さんは麻婆豆腐定食を注文したようなのだが、出て来た麻婆豆腐は見るからに辛さの主張しか感じられないほどに真赤激な麻婆豆腐で、彼女の舌は無事に完食に耐えられるのか心配するほどだった。俺が頼んだのは大盛り唐揚げ丼の付いたラーメンセットというボリュームの化け物みたいなメニューで、食堂のおばちゃんからは渡した食券を二度見された。あんたんとこが自分で出してるメニューだろうに。
そこでお互いの昼飯を食べながら、羽音さんは今朝の別れ際の和泉の不審な態度を今のように分析してみせた。陸上部でないどころか『救済の会』なる謎の会に関わっていることに腹を立てたのではないのか、と。
なるほど。確かに言われてみれば、そうだ。自分で言うのもなんだが、俺は中学総体に……最終的にはぼろ負けに終わったとはいえ、結果的には進んでいる。まだ砲丸に触れたことも無いような素人たちに比べてしまえば、よっぽど未来に可能性がある立場とも言える。
だが、しかし。
「俺は……砲丸投げで全国行きが決まった時に。和泉に、『ふざけんな』って言われてるんです」
言いながら、俺はゆるく頭を振った。
今でも思い出すと、胸が引き裂かれるような思いがする。
和泉のことが好きだ。ただ一心、それだけの思いを胸に秘めて三年間努力を続けて来た。和泉の前でも、和泉のいないところでも。全ては和泉にいいところを見せたかったから。不純な動機だと言われようとも、俺にとってはそれだけが全ての中学時代だったと言ってもいい。
だが、その努力の果てに待っていたのは、前述の罵倒と、ストレートな尻を蹴り飛ばすという暴力。あの時の尻の痛みが幻となって俺に襲いかかってきて、俺は無意識に自分の尻に手をやっていた。
「その時の話なのだけれどね……」
羽音さんはレンゲで麻婆豆腐をすくうと、するりと口の中に滑り込ませる。その真っ赤な麻婆をさっきから水も飲まずにぱくついているのだが、本当に大丈夫なんだろうか。
「和泉ちゃんは、なぜ怒ったのかしらね」
「なんでって……そりゃあ……えっ?」
なんで?
今まであの時のことを意識的に振り返ることは、ほとんどなかった。心がひりつくから。吐き気がこみ上げて来て、寒気に襲われひどく身体が震えてしまうから。
だが、今改めて問われて考える。
和泉は、なぜ怒ったのか。
「……やはり嫉妬したから、ということでしょうか」
「それも、あるのでしょうね」
あたしが全国に行けなかったのに、なんであたしの尻を追いかけて来ただけのあんたが全国に行くんだよ。
いや、実際には和泉は俺が好きだなんてことは知りはしないわけだし、そもそもそんなどす黒い嫉妬の思いの丈を言われたわけじゃあ無い。
けれども敢えて考えるのならば、そう……いうことなんじゃあないのだろうか。
「でも、和泉ちゃんって、そのことがあった後はずっと普通だったわけなのよね?」
何事も無かったように……そう、本当に何も無かったかのように。和泉は普通だった。そしてそれ自体が何よりも怖くて、俺は陸上を、辞めた。
羽音さんは言葉を止めると、考え込むように視線を遠くの方へとやった。俺は唐揚げ丼にもラーメンにも手をつけず、羽音さんの次の言葉を待った。
麻婆豆腐を一口。咀嚼し、飲み下す。数秒の時間を置いてから。
「……君は」
俺は。
「どうして砲丸投げをしていたんだっけ?」
俺は。
どうして、砲丸投げをしていたんだっけ。
和泉のことが好きで、彼女と同じ部活に入りたくて、それで……。
フラッシュバックするのは、中学で陸上部に入部して、しばらくした頃のこと。
和泉は短距離走選手に、そして俺は砲丸投げ選手に適正があると判断されて顧問からそれぞれ推薦されていた。
でも俺は和泉と一緒にいる時間を少しでも長く取りたくて、和泉と違う競技をやるということに難色を示していたんだ。
なのに、俺が和泉とは違う道を選び、砲丸投げを始めた理由とは……。
『……あたしはさ、』
『うん……?』
和泉が、言ったからだ。
『あんたと一緒に、総体出れたら、いいかなって思うよ』
俺と一緒に、総体に出たいって。
だから、俺は……
「……俺は、和泉と一緒に……総体に出たかった」
「そう。……けれど、実際に訪れた顛末は」
「和泉は県で負けて……俺だけが、全国に」
そうか。
俺は少し思い違いをしていたのかもしれない。
あの時の和泉の罵倒は、確かに俺に対するうらやみや嫉妬なんかの感情もあったのかもしれない。
けれど、本当のところは……もしかしたら、希望的観測に過ぎないのかもしれないけれど、でも……。
かちゃん、と音がして俺の意識は現実へと戻ってくる。見ると、羽音さんがレンゲを皿の端に置いた音だったようだ。
彼女は俺の目を、覗き込むようにして見つめてくる。
「和泉ちゃんは、君と一緒に全国に行きたかったのよ」
ああ、そうだ。和泉は、最初っから言っていたじゃないか。
俺と一緒に、行きたいと。
全国に。
違った競技に進んででも、それぞれの道を極めて、その先で、共に全国の舞台に立ちたいと。和泉は、言っていたじゃないか。
俺は額に手をやると、身体の中に重苦しく淀んでいた空気を全て吐き出すくらいの気持ちで、深く溜め息をついた。
「……あれは、単なるやっかみとかに過ぎなかったわけじゃ、なかったんですね」
「そうよ、そう。もちろん悔しさの感情はあっただろうと思うわ。でも、彼女が本当に抱えていた想いは……」
あの日の約束を、自分だけが果たすことのできなかった苛立ち。
それを彼女は、正直な彼女は、抱え込んだ複雑な想いをストレートにああいう形でしか発散できなかったんだろう。
「自分の苛立ちを有川君にぶつけることしかできなかった和泉ちゃんにも、当然非はあると思うわ。でもね。未熟な中学生のことだもの。そのくらいの失敗は、するわ」
「……そう、ですね」
何せ、三年分の想いを乗せた約束だ。
もし、あのなんてことも無い会話を、三年間胸に秘めて陸上競技をやっていてくれたというのなら。
そんなに嬉しいことはない……。
目頭が熱くなって来た俺は、とっさに自分の目元を手で覆い隠した。
「……すみません。麻婆豆腐が、辛くて」
「……そうね。辛いわよね」
麻婆豆腐を食べているのは羽音さんの方なのだけれど、彼女はそう言って微笑みかけてくれた。
和泉のところへ行こう。俺は自然とそう思った。
和泉に会いたい。
和泉に会って、話をして、そして……。
「告白、しちゃおっか」
マジかよ。
いたずらっぽく微笑む目の前の上級生に、思わずため口で突っ込んでしまった。