#07 有川澄春の場合-7
「よ、よお……和泉」
「……は? 何、あんた」
朝の通学の時間帯。
登校して来たばかりの和泉が、怪訝そうな顔をして俺のことを見上げた。俺が一九〇センチという大柄な体型であるのに対して、和泉は女子の中でもやや小柄な一五〇台前半くらいしかない。そのため、俺たちが相対すると、和泉は結構な急角度で俺のことを見上げることとなる。
じろっと目を細め睨め付けるようにして俺を数秒見ると、彼女の視線はやがて俺の隣へとゆっくりと移っていく。
和泉の視線の捉える先には……
「おはよう、和泉ちゃん! いい朝ね!」
いい朝に負けない、とてもいい笑顔の羽音さんの姿があった。
和泉は並び立つ俺と羽音さんの間に、視線を何度かうろうろとさせてから、
「……そう」
と、地獄の底から響いてくるような低い声で呟いた。
「そういう、ことなのね……」
どういうことなんでしょうか。
「分かったわ」
待ってくれ。まだ俺は何も言っていない。それで何をどこまで分かったと言うのか。
和泉は片足をすっと持ち上げてから、射殺すような目付きで俺のことをロックオン。瞳に怪しげな光をまとわせて、和泉は言う。
「……蹴り殺されに来たのね?」
違う!
「ま、待て和泉! 落ち着こう! まずはその脚を降ろすんだ!」
「何が落ち着こうよ! ええ!? 朝っぱらから待ち構えて、見せつけるようによお! お望み通りに蹴り殺してやろうじゃんかよお!」
完全に理性がぶっ飛んで、切れたナイフと化した和泉。もはや彼女がこうなってしまっては、俺も一発二発は蹴られるのを覚悟するしか……と目を閉じそうになった瞬間。
「和泉ちゃん」
そう、やさしげに包み込むような声が、聞こえて来た。
その人は俺をかばうようにして、すっと和泉との間に割って入ってきた。
「私たちは、和泉ちゃんとちょっとお話がしたいだけなのよ。だから、その脚、降ろしてもらえない、かしら? みんなも見ているしね?」
そう言って最後にこてんと首を傾げてみせる、羽音さん。
いきなり間に入って来られて、毒気を抜かれてしまったのか。和泉は、ぐう、とうなり声を一つあげて、素直に脚を降ろした。そうしてハッとした顔で周囲を見渡す顔は、微かに頬が赤らんでいるように見えた。羽音さんに諭されて冷静さが戻ったのか、ようやく登校時間中で他の生徒の衆人環視であることにようやっと思い至ったのだろう。
彼女は最後に、上目遣いで恨めしげに俺のことをじとっと睨みつけてから、羽音さんに言った。
「……話って、なんですか……」
おお、あの和泉が折れた……。そんな俺の呟きを耳聡く聞いていた和泉は、なんか言ったか!? と威嚇するように足を踏み鳴らす。
「ここで話すのもなんだから、ちょっと場所変えようと思うのだけれど?」
「まあ……そうですね」
「オケ。じゃあ、着いて来て」
ニコッと笑うと、羽音さんは身を翻して歩き出した。
俺と和泉は、慌ててその後ろ姿を追いかける。自然、俺たちは二人並んで歩く形となった。
上背のある俺は、自然と一歩の歩幅がデカい。のしのしと歩くその姿は、我ながらラピュタのロボット兵さながらだ。一方で和泉はすらりと伸びる脚こそ長いものの、そもそもの身体が小さいため、どうしても俺と並ぶとチョコチョコ歩いているような印象が拭えない。
和泉は俺がすぐ隣を並んで歩いていることに気がつくと、むっと顔をしかめて少しだけ歩く速度を上げて俺から離れていった。
やがて先行していた羽音さんがくるりとこちらに向き直る。
「ここでいっか」
彼女が俺たちを連れて来たのは、体育館裏のスペースだった。グラウンドにほど近いが、部活動の朝練も終わったくらいの時間帯だろう。登校時間の今であれば、人の気配はあまり無い。体育館に沿うようにして花壇が並んでいるのが見えた。園芸部員が手入れをしているのか、色とりどりのパンジーが花開いている。
羽音さんが「君、君」と手招きをしてきた。こっち側に来いということらしい。それに従って羽音さんに歩み寄ったら、後ろから和泉の強烈な舌打ちが聞こえて来た。これ絶対に避けようの無いやつじゃん……。
そんな中で羽音さんは故意にしているのか単に空気が読めていないだけなのか、にっこりと微笑んで口を開く。
「改めまして、おはよう。和泉ちゃん」
「おはよう、ございます……」
明るく元気に挨拶をする羽音さんとは対照的に、和泉のテンションは低めだった。低血圧気味なのか朝は元気が無いのが常ではあるものの、ここまで露骨にローテンションなのを見ることもあまり無い。
「まずは自己紹介させてね。私は竹宮羽音、二年生よ」
「たけみや、はね……」
和泉は、噛んで含むように羽音さんの名前を小さく復唱する。
「これからお近づきになれたら嬉しいなって思うわ。よろしくね、和泉ちゃん」
「……なんで、あたしの名前」
「ああ、『和泉ちゃん』って? 彼から聞いたのよ」
そう言って羽音さんは、斜め後ろに立つ俺のことを目で示した。和泉は、羽音さんがこちらに視線を送っている間だけ、目や口を歪ませて強烈に威嚇してきた。器用なことをするやっちゃな。つーか怖いからやめて。
「……それで、どういったご用件でしょうか」
和泉は羽音さんに向けて問うた。
「うん。それなんだけれどね……」
羽音さんは腕組みをして、もったいぶったような口調で喋り出す。もったいぶるな! といつ和泉がキレるものやらと、俺は内心めちゃくちゃハラハラしていた。
「私たちはね、和泉ちゃんの誤解を解きに来たのよ」
「誤解……ですか」
「そうなの。誤解なのよ」
羽音さんはにこにこと笑顔で「誤解なの、誤解なのよー」と繰り返す。こんなにへらへら誤解だと弁解するやつ、初めて見た。
「誤解、というと……すみませんが、何のことを言ってるんですか」
「ええ。昨日のことなのだけれど、私と彼が一緒にあなたに会いに行ったじゃない?」
そして俺のことを蹴り倒しましたよね、と言い添えたらそれこそまた蹴り倒されそうだったので黙っていた。
確かに俺は和泉のことが好きだが、別にエム的な趣味は持っていないので、蹴られるのは普通に嫌なんだ。
「その時、私たち手を繋いでいたじゃない?」
すいー、と和泉の目から光が喪失したような感覚だった。
ああ、その話っすか。みたいな、ひどく冷めた目。その目を見た俺は、まるで背中に氷の固まりでも突っ込まれたかのような寒気を感じた。
が、その瞳はわずか数秒で融解することとなる。
「安心して! 私たち、別に付き合ってるとかじゃないから」
「えっ?」
ドーバー海峡の奥底のような暗さだった和泉の瞳に、光が灯った。
えっ、なにその反応?
まるでちょっと、俺たちが付き合ってないことを知ってうれしがっているみたいな、その反応は……。
ふっと、和泉は俺の方へと視線を向けてくる。どこか頬の上気したその表情に、俺は思わずドキッとした。
「澄春……今の、ほんとなの?」
「おっ? お、おお……! そうだぞ! 俺たちは別に、そういう関係じゃあ……」
「そ、そっか……」
和泉は、そっかそっかと繰り返し呟きながら、自身のカールのかかった茶髪をくりくりと指先でいじり出す。その姿は先入観ありきの言い方をさせてもらうならば、まるで恋する少女そのものであるかのような……。
もしかしたら……いやだけどそんなまさか……。と、俺が一人煩悶としていると、和泉が羽音さんに声をかけた。見るに、和泉はいつの間にやらいつもの通りの態度に戻ってしまっているようだった。
「……あの。じゃあ、付き合ってないとしたら、なんで手を繋いでいたんですか?」
「ああ、それ。彼、ガタイがいいから運動部のスカウトがひっきりなしで、校内をろくに歩けないって私に泣きつくものだから」
俺がいつ羽音さんに泣きついたというのだろうか。
「彼はもううちの部の関係者ですよってアピールする為に、わざと手を繋いで歩いていたっていうわけなの」
「それ、手まで繋ぐ意味ありますか?」
「言われてみれば、なかったのよね」
だよね。
すげー普通に言ってますけど、その言われてみればに言われる前に思い至ってさえいれば、俺は和泉の不機嫌キックを喰らわずに済んだ気がするんだよね。
あははー、おっちょちょちょいね。と、まさしくおっちょこちょいなことを、能天気に羽音さんは言った。
あははー……、と見るからにな愛想笑いを浮かべてから、和泉は羽音さんに尋ねる。
「部活って、陸上部ですよね? すごいですね、もう澄春のことを抑えているだなんて……」
「んっ? 陸上部じゃないわよ」
「えっ」
ぽかんと不思議そうな顔をする和泉。
まあ、確かに。数々の運動部からのスカウトという魔の手から、さんざ逃げ回っていた俺のことだ。中学時代、砲丸投げで中学総体まで進んだ経歴を考えれば、陸上部に逃げるように転がり込んだのだろうという想像をすることは当然だ。
だが、違う。別に入部を考えているだとかそんなことでは一切無いしスカウトを受けたわけでもないのだけれど、俺が彼女が一緒に行動をしている理由は『陸上部だから』じゃあ無いんだ。
羽音さんは、自らの胸に手をやり、颯爽と宣言するように告げた。
「私は『救済の会』の会長。学内の全ての人の悩みを解消し、青春を謳歌してもらうことが私の役目なの」
……。
…………。
……………………。
時が止まったのでは、と錯覚するほどに静かな数秒が過ぎていった。
和泉の反応がないことに対して不思議そうな顔をしている羽音さんをよそに、唐突に校内にチャイムが鳴り響く。始業開始前の予鈴だ。早く教室に戻らないと、遅刻になってしまう。
そろそろ教室に戻ろうと二人を促そうとして俺が口を開く、その一刹那前。
和泉はひどく低く冷たい声で、言うのだった。
「ナニソレ」
……いや、まあ。確かになにそれと言いたくなるような会ではあるのだが、でも、そこまで突き放すような声で言わなくたっていいじゃないか。
しかし、そう俺が抗議する間もなく、和泉はさっさと踵を返す。彼女は俺たちに別れの挨拶をすることすらなく、校舎まで俺たちを置き去りにして戻っていってしまったのだった。