#06 有川澄春の場合-6
「とりあえず脈はありそうな感じだったわよね」
「どこがですか!?」
和泉にお尻を蹴っ飛ばされて、ノックダウンした後のことである。
なんとか自力で立ち上がることができるようになった俺は、再び好奇の目にさらされながら校舎まで戻って来た。這々の体で救済の会の部室まで無事に戻って来たのだが、グラウンドに倒れ込んだこともあって砂まみれのひどい有様である。そのため、俺は羽音さんが用意してくれた濡れ雑巾を使って、着用一日目で汚しまくったブレザーの上着を拭っていた。
「くそう、和泉め……何もいきなり蹴っ飛ばすことはなかろうに……」
ぶちぶちと負け犬のように……実際負け犬みたいなものなのだが……恨み言を呟きながら制服を拭う。幸い砂がついて真っ白になっていただけだったようで、少し濡れてしまった以外には大した被害は無さそうで一安心だ。
そうして俺が拭い終えたブレザーに再び袖を通したところで、羽音さんは冒頭のあの台詞を言い放ったのである。
「いやいや何を見てたんですか羽音さん!? 俺、思いっきり蹴られてましたよね!? 『消えろ、このドグサレが!』って吐き捨てられてましたよね!?」
「そこまでは言われてないんじゃないかしら……? 『消えろ、デカブツ』だったと思うわ」
似たようなものだと。
「思いっきり尻を蹴られて、消えろとまで言われたんですよ? あれは完全に嫌われてるやつじゃないですか。もうここから巻き返す手立てなんて……」
「そんなことないわよ! ほらよく言うじゃない、愛の反対は憎しみではなく無関心だって」
マザー・テレサに俺たちの何が分かるって言うんだ!
あんだけ烈火の如くキレて暴力を仕掛けて来られて、それでなおも「無関心ではないから大丈夫です」とか言えるっていうのか!
俺が遠く彼方で無責任なことを言うマザーテレサに呪詛の念を投じていると、しかし羽音さんはあっけらかんと言うのだった。
「でも、脈がありそうって言うのは、ちゃんと根拠があるわよ?」
「えっ? 本当にですか?」
「本当よ、本当」
どこに?
人のお尻蹴っ飛ばしておいて、あれの一体どこに脈を見出したというのか?
「和泉ちゃんは君のお尻を蹴っ飛ばしていたわね、確かに。うん。腰の入った、とても綺麗なフォームの蹴りだったわ」
「和泉の蹴りの寸評はいいですから」
競技だったら得点高そうだな。
羽音さんは、ピッと指を立てるとそれを左右に振って見せた。
「まず最初に確認しておきたいのだけれども。君は今日以前にも、和泉ちゃんとは当然顔を合わせてるわけでしょう? いくら中学総体の件でギクシャクしているとはいえ、同じ学校だったわけだしね?」
「同じ学校つーか……そりゃあ、まあ……当然ですよ」
「その間、和泉ちゃんに蹴られたことは?」
「無いですよ。それこそさっき話した通り、何事も無かったように普通だったんです」
おはよー、澄春。
どーしたん? 元気無いじゃん? ん?
朝から辛気くさい顔してんなよー。こっちまで暗くなっちゃうじゃん。
……俺は、あの時ほど疑心暗鬼に包まれたことは無かった。前日、俺に対してありったけの恨みつらみを煮染めたような声で『ふざけんな』と言い放ち、鋭い蹴りを放って来たとはとても思えない。それだけ、和泉は自然な声音だった。
だからこそ俺はひどく恐怖心を覚えて、陸上競技から距離を取るようにすらなってしまったのだ。
だが。
そう考えると、確かに気になることが一つある。
今日まで、内心はどうあれ自然に振る舞っていた和泉だ。それがなぜ、今になって急にまた俺のことを蹴り飛ばしたのか。
その答えを、羽音さんは持っているらしかった。
「答えは簡単!」
それまで左右に振り振りせわしなく動かしていた指を、ピンと真上に向けて静止させる。
「和泉ちゃんはね、嫉妬したのよ」
嫉妬。
自分の意識のらち外にあった言葉が、フックパンチのように襲いかかって来た。
嫉妬? 嫉妬だって? あの和泉が?
混乱する俺を待つことも無く、羽音さんはなおも持論を展開して行く。俺は思考をまとめることができずに、聞くことで手一杯な状態だった。
「これまで君に対して普通に接していたはずの和泉ちゃんが、急に態度を変えて蹴りかかって来たのはなぜか。それはきっと、私と君が手をつないで登場したからなのよ」
「手を」
「そう」
ハーンドシェーイク、と何故か似非っぽい英語で言う羽音さん。
「つまりね、あなたが入学初日から何を思ったか見知らぬ上級生と一緒に仲良さげにおてて繋いで現れたもんだから、あなたに気のあった和泉ちゃんは、ついカッとなって……と、こういう筋書きなわけですわよ」
「そうなんですかよ」
「そうなんですよ」
「そうなると、俺たちが手を繋いでいたのは羽音さんに強引に繋がされていたからなわけでありまして。では、俺が和泉に蹴っ飛ばされた理由は、羽音さんにあったと。そう考えていいんですかね」
「今日の晩ご飯なにかなー」
「話題の反らし方が露骨すぎる!?」
今日会ったばかりの後輩が、先輩の家の晩ご飯事情なんか知るかよ! カレーとかじゃねえの!
「まあ、過ぎたことを言ってもしょうがないわよね」
「開き直り方が真正面過ぎる!」
「だから過去よりも未来について語ろうと思うわ。今日の晩ご飯はなんだと思う?」
「羽音さんの未来の興味は晩ご飯にしか無いのかよ!?」
だから、カレーじゃねえの!
「とまあ、そういうわけで!」
羽音さんは会話の流れを変えるように、パンッと一つ柏手を打ってから言った。
「今日の教訓を生かして、明日からバリバリ和泉ちゃんにアプローチを仕掛けていきましょう!」
「え、ええ……」
前のめりにそう宣言した羽音さん。一方で俺はその圧に押されるように、ちょっと身をのけぞった。
「あら、なんなのその不安そうな顔? 何かご不満でも?」
「不満というかなんというか……さっきお尻を蹴っ飛ばされたばっかりで、それなのにいきなりアプローチしていきましょうだなんてそんな……話が急すぎませんかね?」
「大丈夫! だって私がいるじゃない!」
そう言って笑う羽音さんの表情を見て、より一層不安を感じてしまった俺なのであった。ただ、敢えてわざわざ言わないだけの優しさを評価してもらいたい。
しかしそんな俺の心中もまったく慮ることなく、羽音さんは楽しげに和泉へのアプローチプランを考えている。
「明日は朝から仕掛けて行くわよ! 朝一で昇降口で待ち構えて、まずは私たちの仲を誤解しているってことを説明しなくちゃね!」
「え。いやそんな、わざわざ朝一から昇降口で待ち構えずとも……」
「だーめ! こういう誤解は早くに解いておかないと、放っておいたら和泉ちゃんの中で暗い疑いの心がどんどん膨らんでいっちゃうわ! まずは和泉ちゃんの信頼を得ること! その為には朝一から昇降口で待ち構える誠意を見せるの!」
そういうもんなのだろうか。なんだかひどく遠回りというか、婉曲的な誠意の見せ方のような気もするけれど……。
というか、朝一から登校するのを待ち構えるとか、それ一歩間違えたら迷惑防止条例に引っかかりかねないやつなのでは。
「明日は朝、始業の一時間前に昇降口に来ること! 大丈夫、私も一緒に居てあげるから、心細くないわよ!」
やさしい先輩に感謝するのよアハハハハ、と羽音さんは俺の背中をバシバシと叩いた。やさしい先輩はそんな強く後輩の背中をバシバシ叩かない。
本当にこの人に頼っていて大丈夫なのだろうか。
俺の心は果てしなく不安に包まれていたのだけれど、それでもほんのわずかに、和泉との仲が少しでも改善されるなら……と期待してしまう自分もいることを、心のどこかで自覚していた。
多少捨て鉢な気持ちが無いわけでもなかった。だが、俺は去年の中学総体以来、久しぶりに前向きな感情ってやつを胸に抱いていたのだ。
もう既に俺と和泉は、一度ぶっ壊れた関係なのだ。ならば、更なる玉砕覚悟で、この暴れ馬のアプローチプランに乗っかってみるのもいいかもしれない。
俺はもう一度、和泉と向き合う覚悟を決めた。願わくば、俺に幸あらんことを。