#04 有川澄春の場合-4
中学校に入学したばかりの俺には、好きな子がいた。
「えっ恋バナ? 恋バナなのね? どんな子どんな子、どんな子なのかしら?」
「話に割り込んでくるの早いですよ!」
わずか一言で割り込んでくるなよ!
ごほん、と俺が仕切り直すように咳払いをすると、羽音さんは改めて背筋を伸ばして話をちゃんと聞く体勢に入ったようだった。
「……とにかく、中学校入学当時の俺には、好きな子がいたんです」
その子の名前は、和泉という。
好きになった頃のことはもう覚えていない。そのくらい、俺たちの付き合いは長い。小学校ぐらいの頃には彼女に対して意識していたかな……くらいの長い恋だった。
彼女はとても活発的な少女で、小学生の頃はよく教室の外を男子にまじって駆け回っているのを見かけたものだ。
そして中学に入学してすぐに、転機が訪れる。
和泉は『陸上部に入る』と、そう俺に言ったのだった。
「陸上部……?」
ぴくりと羽音さんが反応し、声を漏らした。
そう、陸上部。
元々女子の中でも運動神経の良い方だった彼女が、中学入学と同時に運動部に所属することはもはや自明の理と言っても良かった。その中で彼女が選んだのは、陸上部だった。
そして彼女と同じ部活動で一緒に時間を過ごしたいという一心もあって、俺はその後を追いかけるようにして陸上部へと入部した。
幸いにして、陸上部は運動部でありながら男女が同じグラウンドで練習を行うとのことだった。とすると、うまいこと話が進めば、俺と彼女は同じグラウンドを毎日駆け回る関係に……。
「ずいぶんと不純な動機で陸上競技に手を出す男の子がいたものね」
うるさいやい。
まあ、不純な動機であったことは否定しないが……。
とにかく俺と和泉は、陸上部へと入部することとなった。
仮入部を経て最初の二週間ほどは、適正を見る為に様々な競技を経験させられた。短距離走や遠距離走といったいかにも陸上競技って感じのものから、走り高飛びや走り幅跳びみたいな体育の授業でしかやって来なかったような競技まで、様々だった。棒高跳びは、学校に棒が無いからと言われてできなかったが。棒が無いからできないって……。
斯くして俺たちは二週間をかけて様々な陸上競技に挑戦し……
和泉は短距離走選手となり、
俺は砲丸投げ選手となった。
「全然違う競技じゃないのよ」
「全然違う競技だったんです」
陸上部の顧問から推薦された際に話を聞くと、しかしそれぞれの競技への配備は妥当としか言いようの無い判断だった。
和泉は短距離走での記録が抜群に良く、中距離走、遠距離走と距離が伸びるにつれて記録が悪化する傾向にあった。その他には走り幅跳びにも好記録が望めそうだと推薦されたのだが、和泉は迷うこと無く「短距離走がやりたいです」と言い切った。ちなみに投擲競技の記録は壊滅的だったらしく、この時点で彼女が砲丸投げに転向する可能性はもはや皆無と言っても良さそうだった。
一方の俺は、短距離走から遠距離走まで記録は並。然して砲丸投げでは、一年生の中では頭一つ飛び抜けて良い記録を叩き出した。
陸上部の顧問は興奮を隠せない様子で俺に言ったのだった。『有川なら、砲丸投げで中学総体も狙えるかもしれんぞ!』
俺は和泉とは異なりその場では回答を出せず、一晩考えさせてくれと言った。顧問は、『先生はあくまでも記録を狙えそうだと思う競技を推薦するだけだからな。最後には、お前がやりたい競技を選んでいいんだ。もちろん途中で乗り換えるのだって大丈夫だからな』と口では言っていた。だが本当のところは砲丸投げをやらせたいという気持ちがにじみ出ていたことを、俺は敏感に感じ取っていた。
和泉と同じ短距離走を選び、キャッキャウフフな中学生活を過ごすのか。それとも砲丸投げで中学総体を目指し、和泉にかっこいいところを見せるのか。
一晩悩んだ俺は、答えを出せぬまま翌日の部活へと赴いた。
部室で着替え終えて外に出ると、そこでたまたま和泉とばったり出くわした。
『もう決めたの? 短距離か、砲丸か』
『いや……まだだ』
ちなみに猛烈に推薦された砲丸投げに難色を示している理由は、「走る方が好きだから」ということで通していた。さすがに、和泉を追っかけてとは言えなかった。
俺がまだ悩んでいると答えると、和泉は、ふーん、と唇を尖らせた。俺と向かい合うように立ったまま、片足の運動靴のつま先で、地面をぐりぐりとしていた仕草が可愛かったことを、よく覚えている。
『……あたしはさ、』
『ん……?』
『あんたと一緒に、中総体出れたら、いいかなって思うよ』
そんだけ、と言ってあいつは身を翻すと、そのままグラウンドへと駆けて行ってしまった。
その場に取り残された俺は、後から部室から出てきた同級生に『なにやってんの?』と声をかけられるまで、呆然と立ったままだった。
意識を取り戻した俺は、その足で陸上部顧問の元へ向かうと、砲丸投げを選択する旨を伝えた。態度は冷静を装っているが、内心心躍っているのが丸わかりな顧問を横目に、俺は中学総体を目指すことを決めた。
だらだらと和泉の隣に居残ることよりも、一人で砲丸を投げ続けて、三年後に彼女にいいとこを見せることを選んだのだ。
そして三年後。
俺は本当に砲丸投げで全国大会へと駒を進めてしまった。その時の顧問の喜びようったら無く、公立中学からでも本当に全国に行けるんだなって頭の片隅で思っていた。
そして和泉は。
県予選で惜しくも全国を逃した和泉は。
『ふざけんな……!』
それだけ言い放つと、俺の尻を蹴っ飛ばしてきた。
情け容赦のない、振り抜いた一撃は、俺を膝から崩れ落ちさせるのには十分すぎるほどだった。その時の蹴りは、身体を支える脚をやられなかったせいかその後の競技にも何ら影響は無かったものの、俺の砲丸投げをやり込んできた熱意を根っこから打ち砕くには十分すぎる一撃だった。
和泉にいいところを見せたい。それだけの想いでやってきた俺の心は、その瞬間にぽっきりと折れた。
後日、夏の暑い日。出場者の誰もが待ち望んでいた全国大会の日。そんな中、その場で唯一この日を待ち望んでいなかった俺の成績は、惨憺たるものだった。正直、思い出したくもない。
それ以降、俺は砲丸を見るのも嫌になった。三年だったし、いい機会だと思い、砲丸投げから一切の手を引いた。それどころか、三年間通い詰めた陸上部の、卒業式の間際に行われた三年生を見送る会すら欠席をしてしまった。話に聞くと和泉の方は顔を出していたらしいのだが。
もう砲丸投げなんてやりたくない。もうスポーツなんてこりごりだ。和泉と仲良くなれないのなら、スポーツなんてやったって何の足しにもならない。
だから、俺は。
スポーツをやらない。
やりたくないんだ。
やったらまた、和泉に嫌われてしまうような気がするんだ。
「その後、和泉さんとはどうしたの?」
俺が語り終えると、羽音さんが尋ねてきた。
「……その後は、普通ですよ。県大会が終わった翌日くらいまでは無視されてましたけれど……そっから先はまた何事も無かったように……そう、本当に何も無かったかのように、普通でした。俺にとっては、それこそがとても怖かったですけどね。陸上の話は、あれ以降一度もしてません」
「和泉さんに、好きだってことは?」
「言ってるわけないでしょう……」
今でも和泉のことが好きだという気持ちはある。
けれどあの時和泉に蹴飛ばされた時の気持ちのうずきが、あらゆる意味で俺を縛り付ける。
俺は、どこで間違えた? 俺は何を間違えた?
俺は……砲丸投げをやるべきじゃなかった?
陸上部に入るべきじゃなかった?
一度悩み出したら、俺はどこまでも深みに沈んでいく思いだった。
俺はたぶん、和泉から蹴っ飛ばされたあの日から……未だに、一歩も前に進むことも、後ろに下がることすらもできずにいるのだと思う。
羽音さんは口元に手をやって思案している様子だった。
「……今、和泉さんはどこに? 別の学校へ?」
「いや、俺と同じくこの学校に進んでいますよ」
「……ほう?」
にやり、と羽音さんが妖しく笑みを浮かべていることに、俺は気づいた。
いかん、俺はもしかすると話してはいけない人に話をしてしまったのかもしれない。そんな可能性に思い至ったとしても、時既に遅し。
羽音さんはがっしりと俺の手を握りしめると、ぐいっと俺の顔を覗き込んで言ってきた。
「それじゃあ、ちょいっと和泉ちゃんに会いに行ってみないかしら?」
やめて。
俺は心の底からの思いをその三文字に込めたが、聞き入れてはもらえそうになかった。