#03 有川澄春の場合-3
「そういえばまだ名乗ってなかったわよね」
ここからどうやって逃げ出すかばかりを考えていた俺の前で、女はそのように言ってきた。
言われてみれば確かに、俺はこの女の名前すらまだ知らない。名前を知る前に廊下を異常な速さで追いかけられて、怪しい会の部屋に招き入れられてしまったわけか。ははは、怖すぎる。
そんな俺のガクガクブルブルな心中を知ってか知らずか……いや、たぶん知らないんだろうが、その女は机の上に紙コップを置くと、ようやく自らの名前を名乗ってくれた。
「私の名前は、竹宮羽音よ。二年生で、『救済の会』の会長をやらせてもらっているわ」
竹宮、羽音。『救済の会』の会長。
やはりというか当然なのだが、新入生である俺よりも年上で、一つ上の学年ということになるようだ。
目の前のこの女……もとい、竹宮さんはひとまず名乗ってくれはしたものの、まるでそれだけで全部伝わると思ってるかのように、それ以上の追加説明は無いようだった。
さすがにそれでは困る。何も分からん。名前だけ言われても、全然分かりません。勘弁して下さい、もしくは早く帰して下さい。
とりあえず俺は、真っ先に気になったことを尋ねてみることにした。
「ええと、竹宮さん……ですか」
「他人行儀ねえ! 羽音でいいわよ!」
「はあ、……羽音さん」
他人行儀ねえも何も、他人なんだよ。会って間もない、何なら名前すら今知ったばかりの、真っ赤な他人なんだよこの野郎。
「ええと、きゅ、救済……の、会? ですか?」
「『救済の会』。そうね、それで合っているわ」
「つまり、それってどういう会なんですか? ここは何をやっているところなんですか?」
俺がそう尋ねると、羽音さんはよくぞ聞いてくれましたとばかりに大きく頷いた。
「ここは迷える子羊……つまり何か悩みを抱えていたりだとかで道に迷ってしまっている忍舞学園の生徒さんたちを、その悩みを解消することで正しき道へと導き、皆さんに短くも長い青春の時間をより有意義に過ごして頂きましょうという会よ」
うわあああああああああ胡散臭ええええええええええええ。
さすがに口に出してそんなことを言えようはずもないのだが、心の中ではその会の名前の怪しさも手伝って結構な胡散臭さを醸し出してしまっている。
「一応立場としては部活動ってことになってるのよ」
「え、これ部活なんですか?」
思いっきり『会』って言ってるけど。
「部活……って、はっきり言ってしまうと、それもまた違うのだけれど。部活動だけれど、正式には部活動としては認められていないというのか……」
「え、非合法の部活ってことですか?」
逃げていい?
俺はどれだけドン引いた顔をしていたのだろうか。羽音さんは慌てて両手を振って、否定してきた。
「違う違う! 違うわよ!? 非合法とかそういう意味で認められてないんじゃなくって、単純に部員数が足りてないからってことで認められていないの! だから扱いも正式には部活じゃなくて、同好会っていうことなのよ!」
「あ、ああ……。なるほど、だから『会』なんですか」
「いえ、そこは別に関係無いのだけれど」
関係無いんだ。
「だって、『救済の部』って、なんか変じゃないかしら?」
「それは確かにそうですけれど……」
だったら根本から、別の名前に変えてしまえばいいのではないのだろうか。相談部、とか? うーん、なんか違うけどさ。
「と……まあ要するにこの部……もとい同好会は、この学園の生徒の皆さんのお悩み相談を受け付けてるような集まりなわけなのよ。ガッテンしていただけましたでしょうか?」
「が、ガッテン、ガッテン……」
ガッテン、と答えてしまったのはノリでしかないので、正直彼女の説明の全てが飲み込めたかというと、まだまだ怪しく思ってる自分もいる。しかし羽音さんの話を聞いたことで、ようやく俺の中でのこの謎の会への猜疑心も少しばかりは薄れてきたのも事実だった。
もちろん、学内で好き好んでお悩み相談室を開いてますだなんて同好会、まったくの怪しさが無いわけではない。そもそも何で一介の学生の一人に過ぎない生徒達が、お悩み相談室を開いてるんだよ、とか。そんな聞いたことも無いような部活動で本当に活動しているのかよ、とか。疑い出したら切りがないのだが。それでも感情的には、部活動……正式には、同好会みたいなものなのだと説明されてしまえば、少しはこの謎過ぎる会の存在をうまく飲み込めるような気がしたのだった。
羽音さんは思い出したようにテーブルの上の紙コップを手に取ると、中のコーヒーを揺らしながら言った。
「それで今日もね、新入部員獲得を目指して廊下に机を出して張ってたのだけれど……まあ、校舎の辺境だからか、まったくもって人が来なかったものよ」
「あ、アレは新入部員獲得のためにやっていたんですか」
静謐な校舎の廊下にあって、急にいきなり机と椅子がワンセット置かれていたものだから、最初見た時は心底驚いた。だが、そう説明されてしまえば、確かに合点がいく(今度は正真正銘のガッテンだ)。だから机の上にも、わざわざこの会の名前の書かれたネームプレートが置いてあったのだ。
「そうそう。この学校では始業式の放課後から、新入生の部活勧誘が解禁されるものだから。どこの部も必死なのよ」
「じゃあ、あなたも昇降口の方へ行けばよかったじゃないですか。死ぬほど色んな部が集まってるようでしたよ」
うかつにもぼけっとした顔をしてそのまんま昇降口を通って下校しようとして、体育会系部活動に追い回された俺氏談。
「ああ、だめよだめだめ。確かにあそこが、一番新入生を捕まえやすい釣りポイントなのだけど」
釣りポイントて。
「あそこでは部活動登録を受けている団体しか勧誘ができない……つまり、同好会以下の会では、あそこで新入生を引っ張って来てはいけない、という紳士協定があるのよ。うちは私立なだけあって生徒数も多いくて、それに比例して部や同好会がとても多ものだから……」
「なるほどね……。だからこんなところで、網はってたわけですか」
「そうよ。他にもたぶん、アンダーグラウンドで活動する同好会とかが、校舎の至る所で新入生を取っ捕まえようと潜んでいたと思うのだけれど……見なかったかしら?」
どうだろう。少なくとも俺が見かけたのは、昇降口前で襲いかかって来た体育会系軍団と、彼らから逃げ惑っているうちに遭遇したこの人くらいのものだった。
……もしかすると、向こうは捕まえたかったのかもしれないが、俺が全力疾走で逃げ惑っていたから、声すらかけられずにあっという間に通り過ぎられてしまったのかもしれない。だとするならば、足を緩めて廊下をゆっくりと歩いていたタイミングだったからこそ、俺は羽音さんによって確保されたのだと。当然といえば当然の流れと言えそうだ。
……ん?
俺はそこで、ふと嫌な予感がして、羽音さんに尋ねた。
「あれ? これって俺、もしかしてこの会に勧誘されようとしています?」
入学式初日から、目の色を変えて新入生獲得に走る各部活動。そんな彼らとはスタートラインからして遅れをとっている同好会の会長たる女が、張った網にかかったどころか自らのテリトリー内にまで引きずり込むことに成功している獲物を簡単に帰してくれるとは思えない。ここはやはり逃げるべきか、と軽く腰を浮かしかけたが、羽音さんの口から出て来た言葉は予想に反して否定の言葉だった。
「ああ、いいえ。別に無理に入ってもらおうとは思わないわよ。仲間が増えるに越したことはないけれど……でも、お悩み相談している会が、会を存続させる為に人を無理矢理勧誘していますだなんてことになってたら、本末転倒だとは思わない?」
「それじゃあ……どうして俺をわざわざ部屋に招き入れたんですか? こんな、コーヒーまで振る舞って……」
「だから、さっき言ったじゃない。『あなた最近、心の迷路に迷っちゃってるんじゃないかしら?』って」
「迷っちゃってる? って……別に俺は、何も」
「スポーツ。やらないの?」
ぎくり、と俺は身体の動きを止めた。
羽音さんは、座っていても身長差があるため、俺を下から見上げるようにして言ってきた。
「『俺はもう、スポーツをやるつもりはねえってのに』。君は廊下を歩いていた時、そう言ってたわよね」
「…………」
それは……言った、かも知れない。
はっきりと言ったかどうかまでは、覚えていない。けれど、羽音さんが言ったというのなら、そうなのだろう。彼女がここでそんな嘘をつく理由も無い。つまり俺は、まさに無意識に、心から漏らした言葉としてそんな独り言を口にしていたのだ。
「……それは、言った、かもしれません。けれど、だから、なんだって言うんですか」
「その理由を教えて欲しいのよ」
「どうして。単にスポーツをもうやりたくないってだけの話ですよ」
「何か、事情があるんじゃないのかしら?」
彼女は俺の瞳を覗き込むようにして言ってきた。彼女の目はどこか遠く……俺の目を見ているようで、そのさらに奥に何かを見ようとしているような気色の悪さを感じた。彼女の視線を真正面から浴びていると、怖気が走る。
「何も、事情なんてありません。ただ単に、中学は部活ばっかりで大変だったから、高校ではもうやりたくないって……それだけ」
「本当に?」
どうしてだ。なぜそんなにも食い下がってくるんだ。本人がそうだと言っているのだから、そうなのかって頷いてくれればいいのに。
どうして、そんなにも……この人は俺の事情に深入りしようとしてくるんだ。
「私は」
彼女は、リップを塗っているのだろう艶のある唇を開いて、言った。
「私はそこに悩み事の可能性があるのなら、ちゃんと摘み取ってあげたいの」
「…………大した話じゃあ、ありませんよ」
「大した話じゃあないなら、なおさら話すことに抵抗なんてないでしょう? 世間話をしたがる先輩に付き合って、茶飲み話を提供する気持ちでいいのよ」
そう言って彼女は、俺にインタビューをするような、マイクを向けるジェスチュアをした。
俺は羽音さんから若干身を引きながら、頭の中では、一人の女子のことを思い出していた。
同い年の、同じ学校に通い、同じ町で暮らし、同じ日々を過ごしていた、あの女子のことを。
俺がスポーツを……砲丸投げをもうやるまいと思ったことは、本当に大した理由なんて無い。そこにはドラマなんて無い。わざわざもったいぶって他人に話すようなことでもない。これは単に、俺が一人で舞い上がって、そして一人で空回りをして、結果どうしようもない怒りを買っただけ。どこにでもあるような想いのすれ違いがあって、俺はそれから逃げ出した。たった、それだけの話なのだ。
誰にも言うまいと思っていた。誰かに話すようなことじゃあないし、誰にも聞かれたくはない話でもあった。
それでも俺は、この初めて会ったというあまりに関係性の希薄な先輩にならば、言ってもいいかという気になっていたのだった。
俺は案外……ずっと平気なふりをしていたが、あの時から誰かにこの想いを言いたくて仕方がなかったのかもしれない。
ぶちまけて、すっきりして。
そうしないと、終わらないし、始まらないと。そう、思っていたのかもしれない。
「…………つまらない話ですが」
「ええ。聞くわよ。つまらない話こそ、誰かが聞いてあげるべきなのよ」
俺は、ガリガリと髪をかきむしる。
まあ、いいさ。
どうせ話したところで、何にもならない話なのだ。
ならば、行きずりになるだろうこの先輩に話してしまって、すっきりするのも、悪くはない。
俺はそう思い、話し始める。
中学時代の俺が、砲丸投げを始め、そして辞めるまでの短い話を。
そしてそれにまつわる、あの女の話を。