#02 有川澄春の場合-2
俺は、声をかけてきた女性の顔を見て、それからもう一度ちらりと机の上のプレートへと目を落とす。
『救済の会』
いや。いやいやいやいや。
怪しすぎるだろおおおおおお! なにそれ!?
俺の中の警鐘がガンガンに鳴り響いているぞ?
学内の組織にあって、部でも研究会でも委員会でもなく、救済の会!?
なにそれ怖すぎる! これ絶対お悩み相談を持ちかけたら、なんやかんやあって最終的に高い壷とか買わされるんだろう! 絶対に騙されないからな!
「どうしたのかしら? 『俺はもう、スポーツをやるつもりはねえ』ってことは、前はやってたけれど今はやるつもりがないってことなのでしょう? それって、何かそういう考えに至るような何かがあったってことなのではないのかしら? 良かったら、聞かせてもらえないかしら?」
しかし目の前のこの女は、黙りこくってしまった俺に対して、しつこく話を聞かせろと食い下がってくる。
怖すぎる。
これは絶対にあれだ。こちらが隙を見せて事情を話し出そうものなら、話を聞き終えるや否や「それはそれは、大変だったのね」と共感した様子を見せて警戒心を解き、その上で「私だったらあなたのその悩み、解消できると思うのよ」とかなんとか言って心を開かせ、最終的に高い掛け軸とか買わされるやつだ。
残念ながらうちには、壷も掛け軸も飾る場所がない。というかそもそも、金が無い。
だからすまん。『救済の会』とやらには関わってはおられんのだ。
「あ、ああー! 忘れて、いたあー! 俺にはこの後、用事があったんだったあー」
俺は自分の後頭部に右手を当てると、さもたった今思い出しましたよといった感じでそう言った。
「いやー、まずいまずい。今すぐ向かわないと、これは間に合いそうに、ないなあー」
俺は演劇部も脱帽の演技力を見せ、その場からの離脱を計った。台詞を発しながら、ずりずりとすり足でさりげない方向転換を見せているのが注目して欲しいポイントである。
目の前の女は「何。君、急にどうしたの?」と言いたげな怪訝な顔つきで、俺のことを見上げている。
「何。君、急にどうしたの?」
言いたげを通り越して実際に言ってきたが、敢えて無視をする。
俺はゆっくりと身体の向きを変えていき、ある程度まで元来た廊下側へと身体を向けられたところで、
「じゃ! そういうわけなんで!」
脱兎のごとく走り出した。
「あっ! 待ちなさい! こらあ!」
俺が逃げ出したのを見ると、その女は目の前の机に足をかけた。
なんだ、と思う間もなく彼女は机を踏み台にして、廊下側に大きなジャンプを披露する。綺麗な着地を決めると、ノータイムでそのまま流れるように走り出し、俺の後を追いかけてくる。あの女の意外に軽い身のこなしを目の端で確認した俺は、もうそれ以上後ろを振り返ることなく廊下を駆けた。
確かにあの女は肌の色も小麦色に焼けていて、見た目は運動向きなように見える。だが、いくらなんでも男で、しかも昨年夏に引退するまで陸上競技で身体を鍛え続けていた俺の脚力には敵うまい。
俺は一心に目の前の廊下を駆け抜ける。元々人気の少ないエリアなのか、それとも新入生勧誘絡みで昇降口の方に出払ってしまっているのかは分からないが、俺の突っ走る廊下には直線上誰一人の姿も見えない。まっすぐに廊下の突き当たりに着いたら、そのまま勢いで下り階段を全力で駆け下りてしまおう。
「こらあ! なんで逃げるのよお! 止まりなさあい!」
と、後ろから声が聞こえてきた。
その声に違和感を感じた。
えっ、と思い、チラリと後ろを振り返る。
女がいた。走っている。
俺の、わずか一メートル後ろを。
まさか!? 嘘だろう!?
先に走り出したのは俺の方だ。それに彼女は、走り始めの時に目の前にあった机を乗り越えるという、余計なワンクッションまで挟んでいる。
それなのに、なぜまだ俺の後ろわずか一メートル足らずのところにいる?
いや、“まだ”どころではない。俺が最初に走り出した時点で、まず三メートルは距離を離したはずだ。不意打ち気味に走り出したから、おそらく瞬間的に最大そのくらいは離していたはずだ。
なのに、彼女は一メートル後ろにいる。
着実に距離を詰めてきている。
その事実に俺の背中はゾクリと震え、それと同時に……
ズルリッ、と足下が滑った。
あ。
しまった。
俺、昇降口で靴を履き替えられなくって、スニーカーを片手に、靴下のまま校内を走り回っていたんじゃないか。
先ほど運動部連中から追い回されていたときならいざ知らず、今は自分が上履きを履いていないことすら忘れた状態で、いきなりのダッシュを決めてしまった。その上で異様な速度で後ろから迫ってくる、怪しい女に気が動転してしまってもいた。
そりゃあ、転けるよなあ。
足を滑らせて完全にバランスを崩してしまった俺は、リノリウムの床に向かって全身フルダイブを強制敢行させられることとなった。
「うごっ!」
転んだ拍子に思いっきり顎を打った。超痛い。危うく舌を噛むところだった。
そしてその倒れ込んでしまった俺に、追い打ちをかけるようにして、
「ていっ!」
「うごごっ!」
あの女が後ろから後追いダイブをしてきて、俺の背中に覆い被さってきた。
マジで怖い。テケテケに追い回されたあげくに捕まってしまったやつは、こういう気分なんだろうなあ。
女は倒れ込む俺の背中にぴったりとくっつくと、俺の腹の下に両腕を差し込んでがっちりとホールドを決めた。
「捕まえたわ! もう逃げられないから、観念しなさい!」
観念しましたから、高校生にもなって倒れた男の人の背中に乗っかるのは勘弁して下さい……。
「急に走り出すものだから、びっくりしてつい追いかけてしまったじゃないのよ」
走るものを見てつい追いかけるって、犬か何かですかあなたは。
廊下を全力ダッシュして盛大に転けた俺は、完全に逃亡する気力を失ってしまっていた。
そのため俺は、「壷を売るなら売れ! 買うにしても、原価割れするくらいにまで値引きしまくってから買ってやる!」という決意を胸に秘めて、しぶしぶ先ほどの教室のところまで戻ってきていた。
そこは教室とは言っても、今現在授業には使われていない空き教室らしい。教室のサイズ自体が他の教室よりも狭っこく、普通の教室の半分程度しか無い。俺をここに招き入れた女曰く、「同じフロアの器楽室や工芸室の間取りを広めにした結果、こっちの部屋が割を食ってるんだと思う」とのことだ。
俺は転んで強かに床にぶつけてしまった顎を撫でさすりつつ、勧められるがままに教室内の椅子に座った。
教室内には普通の教室と同じように前方に古びた黒板があり、その前に教卓が置かれている。その他に並べられている机と椅子はわずかに四セットだけで、それ以外は全て教室後方にまとめて積み重ねて置かれていた。それ以外には荷物用や掃除用のロッカーがあるくらいで、見た感じに特異なところは見つからなかった。
これで招き入れられた教室に奇妙なお香が焚かれていたり、精神が不安になるような単調な音楽が流れていたり、見たことも無いような男のご尊顔が額に入れて飾られていたりしようものなら、窓からフライハイしてでも逃げ出す覚悟であったのだが、どうやら入学初日からファンキーなことをしでかさずに済んだようだとまずは一安心する。
「はい、これ。コーヒー」
俺が教室内を観察していると、目の前に紙コップに入れられたブラックコーヒーが差し出された。
「あ、ああ……どうも」
反射的に受け取ってしまったが、なんで学校内の教室でそんな簡単にブラックコーヒーが出てくるんだ。不思議に思って教室内をよく観察すると、本来なら黒板消しクリーナーに繋がっているはずのコンセントが、電気ケトルに乗っ取られているのを発見した。勝手に学校の電気を持ってってしまっているが、いいのだろうか……。
というかそもそも、なんでコーヒー出したの? 毒? なんか毒でも入ってるのかなこれ?
差し出されたコーヒーを飲んでよいものかどうか決めあぐねていると、あの女は俺と机を挟んで向かい側に椅子を一脚運んできて、そこに座った。
彼女も手に紙コップを持っている。中身は俺と同じくブラックコーヒーらしい。
「さて」
その女は言った。
「ようこそ、『救済の会』へ。どう? あなた最近、心の迷路に迷っちゃってるんじゃないかしら?」
迷っちゃってません。そう言い残してそそくさと立ち去るべきか一瞬悩んだが、また廊下で今日三度目の追いかけっこをするのは嫌だなと思い、おとなしく話に付き合うことにした。




